ジョン・ハンター

ジョン・ハンター/wikipediaより引用

学者・医師

巨人症の遺体を付け狙うことも ジョン・ハンター 人体への執着が医学を発展させる

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
ジョン・ハンター
をクリックお願いします。

 

「病気=体液不均衡説」から科学的な方法へ

ジョン・ハンターは、スペンスと一緒に働きながら解剖学や外科の講座を開いて収入の足しにしていたので、徐々に支持者が増加。

やがて王室が運営する学術団体”王立協会”の調査や実験に招かれるようにもなります。

1763年12月には解剖医や標本作りの腕を買われて、エジプトのミイラの棺を開け、布を剥いでミイラの観察を行っています。

また、この年は厳寒であり、ロンドンの各所で死人が増えた年でもありました。

他の医者が亡くなった患者の死因を調べるため、ジョンに解剖を依頼してくることも増えたようです。

公開解剖はまだまだ受け入れられていませんでしたが、死因を特定するために非公開で解剖することは徐々に理解されてきはじめました。

医師の間でも、遺族に対し検死の協力を求める例が増えたのもこの頃。

「病気=体液不均衡説」から、科学的な方法にシフトし始めたのでした。

検死で死因が特定できれば、遺族が病気を予防することもできるようになることもメリットでした。

もっとも、この時代には全ての死因を特定できたとか、完全な予防策が見つかったわけではありませんが、進歩は進歩でしょう。

ジョンのもとにも、貴族から庶民の子供まで、いろいろな状況で亡くなった人の検死依頼が持ち込まれました。

それは大きな臨時収入になり、社交界ではちょっとした名士のような扱いを受けるようになりました。

 

婚約

ジョン・ハンターは元々人付き合いの良い人でした。

軍医時代に親交を持った人々とも交流を保ち続けるほど。

そのうちの一人ロバート・ホームの家に招かれたとき、彼の長女であるアンにジョンは一目惚れします。

アンは女流詩人として活躍し始めており、インテリ女性たちのサークルにも参加していた社交的な女性でした。

二人がどうして惹かれ合ったのかはわかりませんが、アンの弟であるロバートがジョンの絵を描いていることからして、ホーム家でのジョンの評判は悪くなかったのでしょう。

1764年の夏にアンの体調不良のためにジョンが呼び出され、寄生虫症であることをつきとめて治療を成功させたのが好意に繋がったのかもしれません。

ジョンは堅苦しい文章は嫌いな質でしたが、おしゃべりは好きだったようです。

まったく異なる分野に身を置いていたからこそ魅力を感じあったのでしょうか。

また、ホーム家の末弟であるエヴァラードもジョンによく懐き、将来は同じ道を歩みたいと考え、実際その通りにしていきます。

当時ジョン35歳、アン21歳、エヴァラード8歳でした。

結婚に対する障害はありませんでしたが、唯一の不安要素はジョンの収入が家族を養うには少々心もとないこと。

古巣の聖ジョージ病院で常勤外科医の席が一つ空き、そこに収まろうとするも失敗してしまいまSu。

そこで1765年6月にロンドンの外れにあるアールズ・コート村に土地を買い、家を建てて静かな住まいと実験場を作りました。

魚や爬虫類・哺乳類の仮死に関する実験をし、いずれ人間に応用して一儲けしようと考えていたようです。

しかしこれはアテが外れ、お金にはなりません。

18世紀にコールドスリープの概念があったとは驚きですね。

また、ある日ジョンは偶然アキレス腱を切ってしまい、「下手にいじるより、自然治癒力に任せたほうがうまく治る」という仮説を自分の体で確かめることにしました。

聞いているだけで痛そうですが、実にジョンらしいですね。

処置といえるものは固定だけ、工夫といえば靴にちょっと細工をしただけにし、少しずつゆっくり歩く練習を数日続けました。

これで「薬や安静よりも、少しずつ動かすようにしたほうが怪我の経過が良くなる」ことを確信しています。

ジョンはこの説を立証すべく、友人の家にいた車椅子の女性に、毎日少しずつつま先を動かすよう助言しました。

彼女は数年前に膝の骨を砕くという大怪我をしており、それからずっと歩けずにいたそうです。

しかしジョンの言う通りにすると、数ヶ月で不自由なく歩けるようになったとか。

現代の理学療法のようなものですね。

同時期にジョンは、探検家や冒険家との付き合いも増えていきました。

動物の解剖や標本作成をやっていたことが知られるようになり、ロンドン塔動物園で死んだ動物や、テムズ川に打ち上がったシャチなども彼の手で標本となりました。

そのうち、現在「オオサイレン」と呼ばれている爬虫類の一種を解剖して、王立協会に初めて論文を提出しました。

これによって1767年2月に王立協会の会員として認められています。

 

性病の研究で思わぬ発見

ジョン・ハンターが取り組んだ分野のひとつに、性病の研究があります。

当時の社会では「性産業は本人の自由」とされ、それによって性病も蔓延していました。

1746年には専門病院も存在していたほどです。

しかし淋病は放置していても治ることが多かったため重視されておらず、繰り返しかかる人も珍しくありませんでした。

ジョンはそれでも薬を欲しがる淋病患者に

「『薬だ』といってパンを丸めたものを飲ませたが、問題なく回復した」

と記録しています。プラシーボ効果の発見だったかもしれませんね。

この頃になると、ジョンを異様に敵視する医師も出てくるようになりますが、本人は全く気にしていません。

彼の周囲には献身的な友人や協力者、そして斬新な学びを得たいと考えてやって来た若い医学生などがたくさんいたからです。

王立協会でも一目置かれるようになり、定期会合の後に当時の社交場だったコーヒー・ハウスで集まることも増えていきました。

 

世界初の人工授精に成功

1767年の夏、ジョン・ハンターは雌のカイコから未受精卵を、雄のカイコから精液を採取して混ぜ合わせるという実験を行いました。

後日この卵は孵化し、人の手によって受精を促せることが判明。

ジョンはこの結果から、不妊で悩んでいたとある夫婦に助言をしました。

夫の精液を採取して注射器に入れ、その注射器を妻に……という方法です。後日、彼らにも無事子供が授かりました。

輝かしい発見ですが、文章下手のせいかジョンはこの件を王立協会に報告せずに終わっています。

義弟のエヴァラードが彼の死後に報告し、世界初の人工授精だといわれています。

ジョンが論文を苦手にしていたことは、別の話からもわかります。

当時、アメリカで発見された未知の動物のものと思われる骨と歯が話題になっていました。

別の学者はこれを象のものと考えており、ジョンの兄ウィリアムもそうだろうと思いつつ、弟の意見を聞きたいと考えました。

するとジョンはひと目見て「象のものではない」と判断し、自分の持っている象の顎の標本を示して説明しました。

ウィリアムも納得し、

「あれは象のものではなく、かつて存在していた未知の動物のものです」

と王立協会に論文を出しました。

この論文、ジョンではなくウィリアムが書いているのです。

ジョンは世間的な名誉のために苦手な論文を書く時間より、解剖や実験や診察の時間を重視していたためなのでしょう。

こうして実績を積み上げたジョンは、1767年7月には正式な外科医の免許状を手にし、活動に支障がなくなりました。

 

新大陸の動物

1768年、王立協会の発案により、南半球の大陸を探すという大規模な航海が始まりました。

船の名はエンデヴァー号、船長はジェームズ・クック。

乗組員となった学者の中には、ジョンの親友であるジョセフ・バンクスとダニエル・ソランダーがいました。

ジョンは彼らの帰国を待ちながら、手近なところで動物の研究をするべく、サーカスや社交界に出入りして珍しい動物の死体を集めていました。

当時のロンドンでは動物を使った芸を見せる見せ物小屋や、探検家が持ち帰った珍しい動物を率いた巡回動物園があり、珍獣に出会う機会は多かったそうです。

ジョンは出会った動物を丁寧に標本にし、特徴を書き留めていきました。

社交界では珍獣を飼っている貴顕に近づき、「あなたのペットが死んだら、譲っていただきたい」と言って眉をひそめられていたとか。

この頃まだ正式な結婚をしておらず、婚約状態だったのですが……これでよくアンやホーム家の人々が婚約を破棄しようと思わなかったものですね。

そんな感じだったので、アールズ・コート村の別荘は動物園のような状態になっていました。

シマウマやライオン、ヒョウといった大型動物から、ミツバチなどの昆虫、鳥類までありとあらゆる生物が飼育されていたため、ときにはトラブルも起きています。

あるときヒョウのつがいが逃げ出したとき、ジョンはみずから走って行って首をひっつかみ、所定の場所に押し込んだとか。

一歩間違えば死ぬところですが、ジョンなら大怪我を負っても、指が動く限りは記録を取り続けたのでしょうね。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-学者・医師
-

×