ジョン・ハンター

ジョン・ハンター/wikipediaより引用

学者・医師

巨人症の遺体を付け狙うことも ジョン・ハンター 人体への執着が医学を発展させる

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ジョン・ハンター
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理想の博物館

1785年、ついにジョン・ハンターの追い求めた理想の博物館が完成します。

実はこの頃になるとかなり狭心症が悪化しており、移転作業中の1785年4月から5月には頻繁に発作を起こしていました。

それでも移転を終わらせたばかりか、この後も数年に渡って仕事を続けるのですから、あらゆる意味で超人としかいいようがありません。

彼はいわゆるショートスリーパーだったようで、夜に4時間眠る他は昼寝を少々するのみで、ほとんど働き続けていました。

現代の研究では「睡眠時間が一日4~5時間を下回ると、心臓に悪影響を及ぼす」とされているようですから、ジョンの心臓は本当にギリギリのところで持ちこたえていたわけです。

ジョンは上流階級ばかりでなく、一般市民や治療費を払えない患者も診察したので、さらに仕事が増えてしまったものと思われます。

彼にとっては新たな考察の材料が手に入ることが最優先でしたが、その次に

「金と時間が余っている奴らからはたくさん払ってもらい、その分で余裕のない人を診察したほうがいい」

とも考えていました。

手術費を大幅に減らしたり、無料で治療したことも多々あります。

さらに、彼の評判や考えに惹かれた学生たちが押し寄せてくるので、解剖や講義、指導の時間も欠かすわけにはいきませんでした。

さらには内科医と外科医の橋渡しとなる「医学外科学交流会」というサークル活動までしており、二週間ごとにコーヒ・ハウスに集まって議論したり、論文を発表したりもしています。

当然のことながら、王族や政治家たちにも注目されていました。

イギリス王ジョージ3世の特命外科医を仰せつかった他、外科の副軍医総監という地位も与えられています。

また、通称「小ピット」ことウィリアム・ピットの頬に腫瘍ができてしまったとき、彼が執刀医に指名したのはジョンでした。

ウィリアム・ピット (小ピット)/wikipediaより引用

外国でもジョンのことは知られており、パリの王立医学協会と王立外科学会のメンバーとなっています。

こういった激務かつ先述の通り短時間睡眠をしていて、よく体がもったものです。

仮に、この時代に現代の医療機器があり、ジョンと同じくらい熱心な医師がいたとすれば、ジョンの睡眠中の脳波や心臓の状態を調べる研究をしたに違いありません。

1782年の夏頃からは足の衰えが明らかになり、馬車での移動を余儀なくされたものの、彼にほとんど休むことなく働き続けました。

代診や生徒への指示など、義弟のエヴァラードに任せられることは任せましたが、検死や手術などはずっとジョンが行っています。

 

古巣と対立しながら博物館をオープン

数多の実績を作り、尊敬を集めるようになったジョン・ハンター。

それでも彼のことを認めない人たちがいて、その代表格が、かつて臨床経験を積んだ聖ジョージ病院の医師たちでした。

彼らは「伝統的な治療法以外のやり方は外道」であり「ジョンのやっていることはまやかしに過ぎず、後進が学ぶべきではない」と主張していました。

そのためジョンが「病院で無料の講義を開き、後進の成長を促すべきだ」と主張しても、全く受け入れようとしなかったのです。

ヒポクラテスが泣くぞ。

患者の病気だけでなく、自らの病気やかつての同僚とも闘っていたジョン。

1788年に、彼の念願がようやく叶うときがやって来ました。

増改築した自宅のうち、博物館スペースが完成したのです。

これまでジョンが集めてきた動物の全身標本や、早産のために亡くなった五つ子姉妹のアルコール漬け標本、奇病に冒された男性の骨などなど。

もちろん、その中にはチャールズ・バーンの骨格標本もありました。

”巨人”の行く末を知った人々は、空恐ろしさとジョンの探究心、どちらを強く感じたでしょうね。

さらに斬新だったのは、標本の並べ方でした。

この時代のことですので、ジョンも「白人が最も優れた人種である」と考えており、人間の頭蓋骨を並べたコーナーでは、最上位に白人のものを置いていました。

その次にアフリカ人の頭蓋骨が置かれ、その次にサルの頭蓋骨を置いていたのです。ジョンはヒトとサルの頭蓋骨を比較した結果、

「サルは獣と人間の中間段階に位置している」

と結論づけたのでした。

現代の我々は進化論を知っていますが、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表したのは1859年のこと。

それより70年も前に、ジョンは同じ考えを世に出していたのです。

もちろん、この博物館は世間の注目を集めましたが、大々的に認める科学者はまだ現れません。

ジョンは見学会を年に二回開き、それぞれの客層を限定することにしました。

5月には貴族やジェントリ層、10月は医者や学者というようにです。

客に合わせて説明の仕方を変える必要があるから、という理由もあったでしょうけれども、1789年のフランス革命が影響したと思われます。

ジョンは医学や生物学については革命的でしたが、王政に対しては忠実でしたので、革命派にこの素晴らしいコレクションを見せたくなかったのです。

そのため招待客のメンバーは厳選されていました。

前述の通り、彼は王の侍医や軍医としての面も持っていましたので、「革命派だと疑われるようなことは避けたい」と思っていたのかもしれません。

王室と敵対すれば、以前からジョンに好意的ではない医師たちを調子づかせてしまいますし。

 

突然の死去

1788年に若い頃の恩師パーシヴァル・ポットが亡くなり、ジョン・ハンターのもとにはさらに患者が集まるようになりました。

この頃になるとジョン自身の健康も悪化しており、義弟のエヴァラードを代診に向かわせることも増えたようです。

これがエヴァラードに過信を与える結果にも繋がるのですが、それは後述します。

一方で、良い出会いもありました。

1792年、17歳のウィリアム・クリフトという新たな助手を雇い入れたのです。

彼は幼い頃に両親を亡くした苦労人でしたが、絵の才能を持っており、使い走りの仕事にも懸命に取り組む勤勉な人でもありました。

ジョンの兄と区別するため、以降は彼のことを「ウィリー」と呼びましょう。

ジョンは解剖図や症例の記録を描かせるため、ウィリーに絵の先生をつけました。

ウィリーもよく応え、ジョンの口述筆記や原稿の清書を丁寧に行っています。

仕事をこなすごとにウィリーはジョンヘの尊敬の念を強め、それは後年まで長く続きました。

ウィリーがやって来たのと前後して、エヴァラードは聖ジョージ病院で職を得るため、義兄のジョンの力を求めました。

同院の常勤医に空きが出たため、役員選挙で多くの票を得られれば、その地位を得られる状態になったからです。

しかしこの病院では未だにジョンに対する反発が強く、エヴァラードは落選。彼はこのためかジョンを深く恨み、先述の過信と相まって、後々とんでもないことをやらかしてくれます。

1793年になると、ジョンの力が及ばないところの影響を強く受けることになりました。

フランス革命戦争でフランスとイギリスが交戦状態になったため、軍の医療体制を監督する仕事が増えてしまったのです。

そんな中で、とあるスコットランド出身の医学生二人が

「聖ジョージ病院でハンター先生の実習を受けたい」

と願い出てきました。

聖ジョージ病院で見習いをしないと、ジョンの実習を受けることはできません。

しかし、規則よりも実利を取る主義のジョンは、同郷のよしみもあってか、上層部に掛け合うことを約束しました。

10月16日、ジョンはいつも通りの仕事をこなした後、聖ジョージ病院の役員会議でこの件を提言。

しかし相変わらず反ジョン派の医師は人格攻撃まで交えて反対してきました。

これに対して怒りすぎたのか、ジョンはここで狭心症の致命的な発作を起こし、その場で命を落としてしまうのです。本人としても無念だったに違いありません。

遺体はすぐに自宅へ送られました。

当日の朝まで元気にしていた師の変わり果てた姿を見たウィリーや、ハンター邸の人々は大きな衝撃を受けたことでしょう。

検死は義弟エヴァラードの手で行われ、ジョンの心臓に狭心症を長く患っていた結果がはっきりと現れていたといいます。

実は1788年にエドワード・ジェンナーが同様の患者を検死したことがあり、どのような状況になるかがわかっていました。

しかし彼は恩師が狭心症を患っていることを知っており、「ショックを与えたくない」という気遣いから、本人には知らせていませんでした。

その代わりジョンの助手の一人にこれを知らせていたらしく、ジョンの死後にその人から「あなたの言っていた通りだった」と連絡が来たそうです。

それがエヴァラードなのかどうかがはっきりしないのですが、この後、彼がやらかすことからすると、こんな重大なことを捨て置いていたとしてもおかしくない気がします。

 

義弟の裏切りと誠実な弟子

ジョン・ハンターが死亡した際、妻子は長期旅行に出かけており、家を留守にしていました。

主人がコレクションのための出費を惜しまなかったため、ハンター家には経済的余裕がなかったのですが、妻子の楽しみは制限していなかったようですね。

ジョンにとってコレクションは仕事というより自分の楽しみという面もあったでしょうから「お互い様」ということかもしれません。

しかしそれは、ジョンの死によって莫大な借金を残すことにもなりました。

彼はコレクションを国に買い上げもらうことで、家族の収入を確保できると考えていたのですが、運悪くフランス革命戦争が起こってしまい、イギリス政府は戦費の調達に四苦八苦。

コレクションの買い上げどころではなくなってしまったのです。

そのためジョンの息子は医学校を中退せざるを得ず、娘は急いで結婚し、妻アンは慣れない仕事に出ることになります。

コレクションの存続も怪しいところでしたが、エヴァラードが遺言の執行人を務め、ウィリーがその下働きをし、何とか守られています。

エヴァラードは社交性を活かして貴族社会に食い込み、王太子ジョージ(のちのジョージ4世)と飲み仲間にまでなり、ついにはナイトに叙任されています。

ジョージ4世/wikipediaより引用

しかし、その間にジョンのコレクションについて何か動いたかというと怪しいところ。

アンはエヴァラードの姉だというのにひどい話です。

一方、ウィリーは師匠の残した文書類をできるだけ多く残すため、少しずつ清書を続けました。

その努力が認められたのでしょうか。1799年になってようやくコレクションが政府に買い上げられ、王立外科医師会の監督下に入った際、ウィリーはその学芸員に任じられています。

これで彼は安定した収入を得られるようになり、1801年に結婚して生活も安定し始めました。

しかし、このあたりからエヴァラードが怪しい動きをし始めます。

ウィリーに対し、ジョンの残した文書を全てよこせと言ってきたのです。現代の我々からしてもヤバそうな感じがしますが、ウィリーもそのように思っていました。

返答をできるだけ引き伸ばしたものの、催促に負けてウィリーはエヴァラードの言う通りにしました。

そして時は流れ、1823年。

たまたまエヴァラードとウィリーは馬車で相乗りすることになりました。

するとエヴァラードは「先日自宅が火事になってね」と、何の気無しにつぶやきました。

もう嫌な予感がしますね。

ウィリーが話を合わせて出火原因を聞くと、「ジョンの原稿を焼いていたのが燃え移った」という始末。

エヴァラードに渡した原稿の中には、ウィリーが書き写せていなかったものも多く、彼は長年に渡って返還してもらえるように苦心を重ねていました。

しかしエヴァラードはそれに応じず、あまつさえ焼いたというのですから、ウィリーは悔しさも悲しみも増したことでしょう。

この件は王立外科医師会にも取り沙汰され、エヴァラードは「亡くなる直前、ジョンに言われていたので」と言い訳しましたが、そもそも彼はジョンの死に立ち会っていません。

本当だったとしても、実行までに時間が経ちすぎています。

さらにいえば、エヴァラードはジョンの死後論文を乱発していました。

もうわかりますよね。

エヴァラードはジョンの原稿を盗用して、自分の成果であるかのように発表し、その証拠を隠滅するために元の原稿を焼いたのです。

同じ発表するならジョンの名前を出しておけば「忠実な後継者」として認められたものを、なぜいちいち悪事を働こうとするのでしょうか……。

その後1832年にエヴァラードは亡くなるのですが、死因は「酒浸り」だったそうで。盗用までして出世したくせに惨めすぎますね。

一方、ジョンに忠実であり続けたウィリーはコレクションのガイド役を務め、3万2000人もの訪問者に師の功績を伝えました。

焼失を免れたジョンの原稿の清書も続けており、彼もまた大きな貢献者といえます。

ウィリーによって守られたジョンのコレクションは、現在「ハンテリアン博物館(公式サイト→link)」として公開されています。

2023年にリニューアルしたそうですので、以前訪れたことがある方も、再訪を考えてもいいかもしれませんね。

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長月 七紀・記

【参考】
ウェンディ・ムーア/矢野真千子『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)』(→amazon
日本大百科全書(ニッポニカ)

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