天正19年(1591年)2月28日は千利休の命日。
その名を聞いて、即座に思い浮かべるのは「お茶」、そして豊臣秀吉でしょうか。
「茶の湯」という文化芸術の極みを大成させながら、不明瞭な理由で秀吉に切腹を命じられる――いったいなぜそんな、釈然としない最期を迎えるに至ったのか。
千利休の生涯を振り返ってみましょう。
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14歳で魚屋の家督を継ぎ 茶は17歳から
千利休は大永二年(1522年)、堺で生まれ、初名を”与四郎”といいました。
実家は魚屋(ととや)という屋号の商人で、塩魚を扱っていたようです。あるいは、塩魚を扱う商人に倉庫を貸していたともいわれます。
14歳の時には早くも千家の家督を継ぎ、茶に親しみ始めたのは17歳から。
おそらくその頃は金銭的にも豊かだったのではないかと思われます。
しかし、19歳前後で祖父や父を失ってしまうと、「祖父の七回忌には資金がなく、法要ができなかった」と伝わるほど困窮しました。
そこから何とか立ち直ったようで、天文十三年(1544年)には松屋久政という茶人・塗師を招いて茶会を開いています。
この頃までには茶会を主催できる技術や見識を身につけていたことがわかります。
また「宗易」という名も、この年には授かっていました。
少しややこしい話なのですが「宗易」は法名です。当時の堺の茶人は、禅宗の僧侶から授戒されて法名をもらうことが慣例だったので、利休もそれに倣ったのでした。
「利休」の方は、後々天皇から授けられた名前です。その経緯は後述します。
三好三人衆や松永久秀らと交友あり
弘治元年(1555年)の正月には、津田宗達を正客として茶会を開きました。
宗達は津田宗及の父で、当時の堺における代表的な茶人。
このあたりから、他の茶人が主催した茶会に利休が度々を招かれるようになり、世間的に認められつつあったことがわかります。
そうして千利休が苦労しながらも茶の湯に習熟していったのと同じ頃、戦国大名の間でも茶が親しまれていました。
当時、近畿一帯で権力を持っていたのは三好三人衆と松永久秀です。
特に久秀は茶人としても知られ、『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さんが演じていましたので、記憶に鮮明な方も少なくないでしょう。
利休も彼らといくらかの付き合いがあったようです。
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また、三好氏は商人としての利休のお客さんでもありました。
永禄年間のはじめ頃、珠光茶碗を三好氏の一族・三好実休に千貫で売ったという記録があります。
千家の経済状況が良くなった一因なのかもしれません。
実はデカい 推定身長180cm
三好氏が権力を失った後、今度は織田信長が茶の湯に関心を持ち、名物を集め始めます。
信長は手元で茶会を開くため、そして堺の経済力を掌握するため、今井宗久と津田宗及、そして千利休などの茶人を召し抱えました。
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この時点での利休の社会的地位は高くなかったと思われますが、おそらく存在感は随一だったでしょう。
なぜかというと、利休は身長が180cmほどあったとされているからです。
利休所用とされる鎧のサイズや、諸々の言い伝えなどが一致しているため、おそらく事実かと思われます。
当時の日本人男性の平均身長は155cm程度といわれていますし、茶人たちの中で利休はさぞ目立ったことでしょう。長身で知られる前田利家ですら、約182cmだったそうですから。
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とはいえ、この時点での利休はまだ若年の部類ですので、登場する頻度もさほど多くはありません。
また、利休は自分で茶会の記録を書いていなかったため、他の茶人の記録や手紙などから動向を探るにとどまります。
天正二年(1574年)3月には信長が京都の相国寺で開いた茶会に招かれており、天正三年(1575年)には越前一向一揆鎮圧のため、信長に鉄砲の弾を調達していたことが記録されています。
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この間、信長との信頼関係をゆっくり築いていったのではないでしょうか。
しかし、その関係は突然終わりを告げてしまいます。
信長が【本能寺の変】で横死したのです。
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