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その日、歴史が動いた 源平

源義経の最期は衣川の合戦で自害 モンゴルには渡ってないでしょう……

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文治五年(1189年)4月30日は、衣川の合戦で源義経が自害したといわれている日です。

「本当にこの日だったのか」とか「自害してないよ大陸に行ってチンギス=ハーンになったんだよ」とかいろいろ異説はありますが、細かいことはその辺に置いておくとして、義経の最期を見ていきましょう。

源義経さん/wikipediaより引用

源義経さん/wikipediaより引用

 

義経の到着間もなく頼りの秀衡は倒れてしまい

平家を倒すまで大活躍していた義経は、その後、自らアレコレやらかしてしまい、兄・頼朝と対立。

大天狗こと後白河法皇にも頼れず、京都から引かざるを得なくなり、かつて後押ししてくれた奥州藤原氏の下へ身を寄せることにします。

道中、静御前と別れたり(過去記事:静御前・郷御前・蕨姫 源義経を愛した女たち その非業な運命【その日、歴史が動いた】)、いろいろありましたが、何とか奥州へやってくることができました。
この道中に題材をとった歌舞伎「勧進帳」(過去記事:「飛び六方」発動! 七代目市川團十郎が歌舞伎「勧進帳」を初演【その日、歴史が動いた】)はフィクションですが、多分似たようなことはあったでしょうね。

奥州藤原氏の当主・秀衡は、昔と同じように義経を支援してくれました。が、寄る年波には勝てず、秀衡は程なくして病に倒れてしまいます。
息子達に「兄弟力を合わせて、義経殿を旗頭として戦うのだ」と言い残して。
その後、跡を継いだのは次男かつ嫡子の泰衡でした。

こちらは毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用

こちらは毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用

 

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頼朝からの圧力に屈したのはあろうことか当主の泰衡だった!?

この頃の奥州藤原氏には、他に庶子ではありましたが長兄の国衡と、三男の忠衡がいました。
そこへ頼朝から「ウチのバカ弟がそこにいるのはわかってんだよ! 差し出さないとどうなるかわかってるよな^^」(超訳)という手紙が届きます。
まだ「幕府」という概念はなかったでしょうが、頼朝に時勢が向いているのは明らか。父の遺言と、迫る圧力の前に、この三人の間でものの見事に意見が割れます。もはや様式美ですね。

とはいえ三つ巴というわけではなく、あろうことか一番先代の遺言を守るべき立場であるはずの泰衡がビビって「頼朝の言うことを聞こう」と言い出し、兄と弟が大反対するという構図でした。
しかし当主のほうが力が強いのも当たり前の話で、泰衡は強引に義経が起居していた衣川の館を襲います。
そう、義経を最終的に追い詰めたのは頼朝ではなく、奥州藤原氏だったのです。

泰衡はここに行き着くまでの間に自分の祖母や忠衡、そして末弟の頼衡も手にかけたといわれており、相当追い詰められた上に手段を選ばないような心理状況になっていたことがわかります。
国衡は庶子という引け目ゆえにあまり強く出ることができませんでしたが、前々から家臣たちに能力を認められ、信頼も厚かったためかこのときは助かりました。

 

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弁慶が、立ったまま全身に矢を受けて戦死

そもそも少ない手勢で奥州へやってきた義経です。地元で即座に兵を用意できる藤原氏に勝てるわけがありません。
家臣たちは主を守ろうと奮戦しましたが、義経本人は抵抗をせず、機を見計らって妻子を手にかけ、自らも後を追います。
義経の忠臣として名高い武蔵坊弁慶は、主人を最期まで守り、立ったまま全身に矢を受けて戦死したといわれていますね。

そして泰衡は、義経の首を差し出して頼朝にゴマをすりました。

が、何かと「制度」や「建前」を重んじる頼朝にとって、これは許せない暴挙。
多分頼朝としては、大人しく義経が連行されてきたら、説教するなり裁判をするなりして、誰の目にも義経の非を明らかにしてから処刑や流罪を決めるつもりだったのでしょう。
なのに首だけ届いたらそりゃ怒りますよね。

 

結局、奥州へ鎌倉軍が押し寄せることとなり…

頼朝は「差し出せって言ったのに何でお前がブッコロしてんだよ! 許すわけねーだろ!!」(超訳)と激怒し、結局奥州には鎌倉の軍勢が押し寄せることになりました。

このへんの戦のことを「奥州合戦」といいます。この戦いについては以前取り上げたことがありますので、よろしければどうぞ→過去記事:父ちゃんの遺言は聞いておけ。平泉の4代目家をつぶす【その日、歴史が動いた】

余談ですが、某ゲームで一躍有名になった厚樫山(阿津賀志山)の戦いは、奥州合戦のクライマックスにあたります。縁もゆかりもないあの刀がなぜここにあるのかサッパリわかりません。初期状態の最終ステージだからでしょうけど。

ちなみに藤原氏には四男の高衡という人もいて、奥州合戦でも戦いましたが、彼は大人しく降伏したため頼朝に許されました。

その後鎌倉幕府内のクーデター未遂に加担してブッコロされてしまうんですが。あーあ。

 

四代目仙台藩主・伊達綱村が義経堂を建立!

話を衣川館に戻しますと、ここから約500年後、四代仙台藩主・伊達綱村が衣川館の跡地とされる場所に「義経堂」というお堂と木像を作ってくれたのだそうですよ。

肝心の藩政はアレ(過去記事:危うく改易の伊達騒動 ドタバタの遠因はやっぱり政宗だったのか? 【その日、歴史が動いた】)でしたが、イイこともしてたんですね。
「伊達家の初代・朝宗(ともむね)が義経の子供を預かった」という伝承があるので、それを聞いて何か縁を感じたのかもしれません。

その後も松尾芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだのがこの周辺だといわれており、義経の最期についていろいろ考えた人は多かったようです。

「判官びいき」という言葉が現代にまで残っているくらいですから、これからもきっとそうでしょうねえ。

義経堂/wikipediaより引用

義経堂/wikipediaより引用

 

長月 七紀・記

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参考:源義経/wikipedia 衣川館/wikipedia 奥州藤原氏/wikipedia

 

 





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