ジャン=アンリ・ファーブル/wikipediaより引用

学者・医師

『昆虫記』のファーブル先生って欧米圏では無名なの? 苦労人だった生涯

1915年(大正四年)10月11日は、『昆虫記』で有名なジャン・アンリ・ファーブルが亡くなった日です。

有名人というと苦労知らずのように思うことも少なくないですが、ファーブルは結構な苦労人でした。

さっそく生涯を見ていきましょう。

 


両親がカフェ開業で失敗 その後も……

ファーブルの両親は貧しく、内職や弟の育児の邪魔にならないよう、小さい頃は祖父の家に預けられておりました。

距離にして20km程度しか離れていなかったそうなので、ちょくちょく行き来はできたかもしれませんね。
祖父の家の周りは自然が豊かで、その時期に昆虫や植物に強い関心を抱いたようです。

しかし、当分の間は昆虫と本格的に関わることはできませんでした。

7歳になってから学校に通うため実家に戻り、三年後にまた別の街へ引っ越し。
父親が一念発起して、生計を立てていくためにカフェを開業しようと、もう少し大きな街へ行くことにしたのでした。

が、両親ともに接客向きではなかったらしく、たった一年でお店を畳んでまた引っ越しています。

お店の経営って難しいですからね。
その後あっちこっちで同じ失敗を繰り返しているのはどうよ? という気もしますが……。

ファーブルにとっては幸いなことに、両親は子供の教育を重視していたため、読み書きその他の学を身につけることができました。
ミサの手伝いや聖歌隊を引き受けるという条件付きでしたが、これで学費を免除してもらえたそうなので、結果的には万々歳でしょう。

現代でも「学校の仕事を手伝う代わりに、授業料の一部を免除」とかあったらいいですよね。
奨学金の返済はなにげに重くのしかかっておりますし、それで婚期を逃すようなことがあったら元も子もありません。

 


教員免許を取得して生活が安定し、結婚も果たした

成長とともにファーブルの知識は増えていきました。
それに比例するかのように、一家の収入は増えるどころかますます苦しくなっていきました。

15歳の時には一家離散状態。
まるでホームレス中学生ですが、少年ファーブルは働きながら勉強を続けることになります。

ファーブルの生家と銅像/photo by Yoshi Canopus wikipediaより引用

そして諦めずに勉強を続けたおかげで、17歳のときにフランス南部のアヴィニヨンという町の師範学校へ入ることができました。

19歳の時には小学校の教員免許も取得し、やっと生活が安定。
2年後、21歳の時には結婚もしたそうなので、長年の苦労が報われたというところでしょうか。

教員免許を取ったものの、ファーブルは教壇に立つよりも研究者としての道を選びました。
しばらくの間は博物館で働いたり、本来好きだった昆虫の研究資金を貯めるため、他の研究をしたりしています。

同時にある程度名を知られるようになっていたらしく、細菌学者のパスツールが「カイコの病気について知りたいんだけど、ちょっと知恵を貸してくれませんか」と訪ねてきたこともありました。

パスツールは当時、養蚕業者の悩みの種だったカイコの病気を研究していたのですが、「カイコのまゆはさなぎになるために作るものだ」ということさえ知らなかったそうで……あまりの無知ぶりにファーブルが( ゚д゚)ポカーンしたとかしなかったとか。

まぁ、専門外のことって誰でもそんなもんですよね。

 


礼拝堂で植物の交配の話 これを機に追い出される

また、同時代の学者としては、進化論を唱えたダーウィンと交流がありました。

昆虫の研究からして進化論には批判的だったようです。

ややこしい話なので省略しますが、
「同じ祖先を持つと思われる複数の昆虫で、特定の獲物しか狙わないものがいるのはおかしい。獲物の範囲を狭めることは、進化とはいえないのではないか」
という理由からでした。

そんな感じで別の分野の学者にも知られるようになっていたファーブルですが、時には失敗をすることもありました。

あるとき、礼拝堂で「植物はおしべとめしべによって繁殖する」という講義をしたときに、「神聖な場にふさわしくない」とクレームをいわれてしまったことがあるのです。

どうでもいいですけど、キリスト教って聖書に「産めよ増やせよ地に満ちよ」って書いてある割に、性について厳しいですよね。
しかもこの場合、別に「不倫してでも子供を産め!」とか言ってるわけでもなく、ただ単に繁殖の仕組みを語っただけなのに、なぜそれがイヤラシイことになるのか。

植物の繁殖と人間の性を混同することのほうがよほど不健全な気がするのですが……西洋文化は複雑怪奇(´・ω・`)

 

世間では「困窮にあえいでいる」ってことになっていた!?

不幸なことに、クレームのおかげでファーブルは公の仕事から引くことになってしまいました。
安定した収入も途絶えてしまい、生涯唯一の借金を申し込む羽目にもなっています。

その代わりに、いよいよ昆虫の研究に没頭できるようになりました。
「昆虫記」1巻を書いたのもこの頃。ファーブル55歳のときでした。

昆虫記の執筆はコンスタントに行っており、その間には子供や妻を失うなど、悲しいことも多々起きています。
64歳のときに引っ越し先の村で、23歳の女性と再婚して子供が生まれているんですけども……なんか凄いですね。

フランスの写真家・ナダールが撮影したファーブル/wikipediaより引用

晩年に住んだ家の裏庭は1ヘクタール(100メートル四方の正方形と同じ面積)もあり、そこに世界中のさまざまな植物を植えて研究していたそうなので、昆虫記の売れ行きでそこそこの収入はあったものと思われます。
まあ、これだけの広さの庭があるなら、家自体も相当の大きさがあったでしょうしね。

なのに何故か世間一般では「ファーブルが困窮にあえいでいる」ということになっていたらしく、あっちこっちから寄付金が来ていたとか。
ファーブルはそういう「情け」が嫌いな質だったので、全て送り返していたそうです。

そりゃ、小さい頃から苦労して人並み以上の生活ができるようになったんですから、今さら他人の同情にすがって生きていくつもりにもならなかったでしょうね。

ただし、フランス大統領からの年金と勲章は受けています。

公的なものだったからOKなのか、それともその頃には87歳という高齢かつ病気がちになっていたからなのか。
実は、欧米圏ではあまりファーブルの名が知られていないそうなのですが、この辺と何か関係があるのでしょうか。

例えばペリーのように「母国や地元よりも外国で有名な人」という例は彼だけではありませんが、ファーブルはずっとフランスにいたのでその辺不思議なんですよね。

長月 七紀・記

【参考】
ジャン・アンリ・ファーブル/Wikipedia
『ファーブル昆虫記 ここがスゴイぞ! 虫のふしぎ (集英社みらい文庫)』(→amazon link


 



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