学者・医師

『昆虫記』のファーブル先生はいつもお金で苦労|観察に全てを捧げた生涯

2024/10/09

1915年(大正四年)10月11日は、『昆虫記』で有名なジャン・アンリ・ファーブルが亡くなった日です。

有名人というと苦労知らずのように思うことも少なくないですが、ファーブルは結構な苦労人でした。

さっそく生涯を見ていきましょう。

ジャン=アンリ・ファーブル/wikipediaより引用

 


両親がカフェ開業で失敗 その後も……

ファーブルは1823年12月23日に、フランス南部のアヴェロン地方に生まれました。

1825年には弟が生まれており、母親の負担を軽くするために幼いファーブルは父方の祖父の家に預けられて育ったといいます。

距離にして20km程度しか離れていなかったそうなので、ちょくちょく行き来はできたかもしれませんね。

祖父の家の周りは自然が豊かで、その時期に昆虫や植物に強い関心を抱いたようです。

ファーブルの生家と銅像/photo by Yoshi Canopus wikipediaより引用

 

しかし、当分の間は昆虫と本格的に関わることはできませんでした。

当時はまだ「子供を学校に通わせる」という概念が薄い時代でしたが、ファーブルの両親は息子に勉強させようと考えました。

そこでファーブルは7歳になってから実家に戻り、地元の私塾に通ってフランス語などを教わることができました。

「フランス人なのに、7歳になってからフランス語を習うの?」

と不思議に思った方もおられるでしょうか。

これはフランスのお国事情が関係しています。

当時のフランスは、

フランス革命→第一帝政(ナポレオン1世の時代)→王政復古

という流れをたどった頃合いで、まだまだパリなどの都市部と地方との壁が分厚い時期。

その理由の一つが「全国共通言語としての”フランス語”が浸透していない」ということでした。

日本でも似たようなものですが、フランスも近代までは地域ごとの言語やその方言のほうが多く使われていたのです。

大まかに分けてパリなど北半分では「オイル語」、南半分では「オック語」が話されており、さらに地域ごとの方言がありました。

ファーブルも幼い頃はオック語の方言を話していたようです。

そして時代が下るごとに首都パリ側に言語が寄せられていき、ファーブルの時代には幼い頃からオイル語をベースとしたフランス語が教えられるようになったのでした。

ファーブルは幼い頃から動物が好きだったので、動物の名前をきっかけにフランス語へ親しんでいったのだとか。

何か新しいことを学ぶときは、興味があるものとの共通点や接点から取り掛かるのが良いですよね。

1833年にはアヴェロン県の県庁所在地にあたるロデーズへ引っ越しました。

父親が一念発起して、生計を立てていくためにカフェを開業しようとしたためです。

しかし、両親ともに接客向きではなかったらしく、たった一年でお店を畳んでまた引っ越しています。

しかも「何が悪いのか」を分析できていなかったようで、同じことを何回も繰り返してしまうのです。

引っ越しも開業もタダではできないのですから、途中でもう少し冷静になったほうが良かったんじゃないですかね……。

 


教育を重視する両親だった

ファーブルにとって幸いだったのは、両親が子供の教育を重視していたことでした。

カトリックの学校でミサの手伝いや聖歌隊を引き受ける代わりに学費を免除してもらうことができ、読み書きその他の学を身につけられたのです。

現代でも「学校の仕事を手伝う代わりに、授業料の一部を免除」みたいな制度があったらいいですよね。

新聞奨学生は新聞の発行部数減が響いていそうですし、その他の奨学金返済は近年大きな問題になっていますし。

これで結婚や住宅購入を逃すようなことになると、関連業界の売上悪化にも繋がりかねないというか、もうなってそうですね。

まあそれはともかく、ファーブルはさらに幸運なことに、この学校の司祭にかわいがられてギリシア語やラテン語も身につけられました。

これによって古い詩文も読めるようになり、彼は文章にも興味を持ち始めます。

後年の著作からすると、ファーブルにはかなり詩心があったように思われますが、それはこの頃に芽吹き始めたのかもしれません。

しかし、ファーブル少年の苦難はまだ続きます。

ちっとも懲りない両親のせいで一家離散してしまい、自分で日銭を稼がなければならなくなったのです。

この頃のフランスは七月王政に入り、ブルボン家の分家にあたるオルレアン家のルイ・フィリップが王様になっていました。

彼は民主政治にもいくらかの理解はあったものの、やはり上流階級寄りの政策を採ってしまい、庶民から大反発を受けることに。

同時に、フランス革命から続いた混乱によりすっかり遅れていた産業革命が進みました。

また、輸送・交通のために1832年にフランス初の鉄道が設置され、モノと人の移動が盛んになっていきます。

しかし、産業革命が進むということは機械化が進むことであり、機械化が進めばそれまで人力頼みだった職場の労働力があふれがちになります。

そんなわけで、ファーブル家が一家離散した頃のフランスは失業率が跳ね上がっており、仕事を求める人々が都市部へ大量にやってきていました。

その中でファーブル少年は、市場のレモン売りや鉄道工事など、現代でいうところの日雇い労働をしてなんとか食いつないでいったといいます。

ときには「その日のパンを買うか、本を買うか」といった選択を迫られましたが、「人はパンのみにて生くるにあらず」を実践してか、本を選んだこともあったとか。

この言葉は「パンがあっても神の教えがないと人はダメになる」転じて「お腹が満たされても心が満たされないと人は不幸になる」という意味です。

しかし、ファーブルにとっては神の教えより現実世界の学問や詩文のほうが大事だったと思われます。

その価値観は後年にも現れてくるので、また後ほど。

 

教員免許を取得して生活が安定し、結婚も果たした

こうして苦労に苦労を重ねて耐えたファーブルに、少し運が向いてきたのが1840年のことです。

アヴィニヨンの師範学校が奨学生を募集しており、それに応募して見事合格。食べ物と寝る場所に困らない待遇を手に入れたのでした。

数年間独学だったのに成績トップだったそうですから、彼の意欲や頭脳のほどがうかがえます。

休みの日にはアヴィニヨン周辺の自然の中を歩き回り、たまにその辺に座り込んで本を読んだり、詩を作るという世捨て人のような生活をしていました。

そのため成績が下がり、学校を追い出されかけたこともありましたが……なんとか聴講生の座をもぎとって、学問に触れ続けられる立場を得ています。

そして1843年、19歳の時に小学校の教員免許も取得し、やっと生活が安定しました。

当時の教員の年収は、現代の日本円にしておよそ70万円だったとか。現代からすると独り身でも厳しすぎる金額ですけれども、どうにかなったようです。

節約して高価な昆虫の書籍を買ったこともありました。

この頃の趣味は、タバコとヒバリ撃ちだったとか。

趣味の類としては比較的安価でしょうかね。

1844年、21歳の時にはマリー・セザリーヌ・ヴィヤールという女性と結婚もしたそうなので、長年の苦労が報われたというところでしょうか。

ファーブル夫妻は最初に娘、次に息子に恵まれたものの、この時代によくあることで二人とも亡くなってしまい、夫婦で悲しみに暮れています。

ファーブルは子供たちを失った悲しみを、数学に打ち込んで収入を増やすことで耐えきろうと思い直しました。

その結果、1846年に大学入学資格(バカロレア)を取得し、モンペリエ大学で数学と物理の学士号を取得。

ファーブルとしてはできれば近隣の都市で教鞭をとりたかったものの、席が空かずコルシカ島(コルス島)へ向かうことになります。ナポレオン1世の出身地として有名な島ですね。

コルシカ島は当時フランス領だったため、フランス人のファーブルが赴任したのも自然なことでした。

ここでファーブルは、中学校の物理教師を務めることになります。

彼の地元とは全く異なる自然を目にしたファーブルは、目を輝かせて植物や昆虫の観察をし始めたとか。

この点は、彼の生涯や著作物にも関係してきます。

そもそも国の大部分が冷涼な気候であるフランスでは、ファーブルが興味の対象とした”虫”があまり見られないという背景があります。

はちみつや蜜蝋を採れるミツバチや、幸運を運ぶとされたテントウムシの他はほぼ全て

「どこかからわいてくる不快な生物」

「悪魔が作った気持ち悪い生き物」

という扱いであり、

「なんでそんなものに興味を持って研究するんだ?」

と思われていたのです。

我らがニッポンでファーブルや昆虫記が知られているのも、温暖な気候であり諸々の虫が多い上、古くからセミや鈴虫などの声を愛でる文化が根づいていたためと思われます。

フランスでも南部にはセミがいるそうですけれども、日本ほど好意的にはみられていないのだとか。

そんなわけで、温暖なコルシカ島の自然と、そこに住まう虫たちはファーブルを魅了したのでした。

 


蜂の研究で科学アカデミー実験生理学賞を受賞

コルシカ島はフランス本土の人々からは「後進地」とみられており、僻地手当がついていたために収入も上がっています。

それに加え、コルシカ島は彼の故郷よりも日照時間が長いでしょうから、一気にポジティブな気持ちが強まったのかもしれませんね。

1850年には再び娘に恵まれ、アントニアと名付けました。この娘は後年まで健康に育ち、ファーブルの手伝いをしてくれるようになります。

三人目にしてようやく育ち上がった子供ですから、ファーブル夫妻もさぞ喜んだことでしょう。

ファーブルの収入が増えて衣食住が向上したことで、健康な子供が生まれたのかもしれませんね。

コルシカ島赴任中には、ファーブルのその後に大きく影響した人物とも出会いました。

ひとりはアヴィニヨンの植物学者エスプリ・ルキアンで、ファーブルにコルシカ島の植物を多々採集させてくれました。

もうひとりはモカン=タンドンという博物学者で、ファーブルにとってはルキアンよりも気の合う人でした。

ルキアンはブルジョワ層だったのでハングリー精神に欠けるところがあり、ファーブルにとっては「嗜好は合うが、価値観が合わないところもある」という人でした。

タンドンは心の底から動物や植物が好きで、ファーブルに

「あなたは数学よりも動物や植物を研究したほうがいい」

と勧め、簡単な解剖のやり方を教えてくれています。

それからしばらくして、フランス政府が財政改善のために教師の給料を削ろうとし始めたり、ファーブルがマラリアに罹ってしまったりと困難が続きました。

療養の後もう一度コルシカ島に戻りましたが、程なくして次はアヴィニヨンの高校教師に。

タンドンに言われたこともあって、教師はあくまで収入を安定させるための手段としてとらえ、博物学の研究に打ち込み始めます。

そこにレオン・デュフールという昆虫学者の論文を読んだことで、ファーブルの情熱が一気に燃え上がりました。

この論文は「蜂がタマムシを食料としていること」そして「蜂がタマムシを腐敗させずに巣穴で保存していたこと」が書かれており、デュフールは

「蜂がタマムシに防腐効果のある物質を注入するのではないか」

と仮定していました。

ファーブルはこれを自分の目で観察し、確かめてみることを決意。

そこで休みの日に蜂とその巣穴を調べ、保存されていたゾウムシの状態を調べました。

ゾウムシとタマムシという差はありましたが、餌の偏りは地域ごとに出てくるものなので、大きな問題にはならなかったようです。

その結果、ファーブルは蜂の巣穴にいたゾウムシが「排泄している=生きている」ことを発見。

蜂の餌になった虫たちは、防腐剤を入れられていたのではなく、生きたまま巣穴に閉じ込められていたのでした。

えげつない話ですが、自然界ってそういうもんですよね。

さらに観察と実験を続けた結果、ファーブルは

「蜂がゾウムシの腹の継ぎ目を刺して動けないようにしている」

「その刺した場所は、ゾウムシの神経が集中しているところである」

ことを発見しました。

蜂が毒を入れずに刺していたので、食料として使える状態で生きた(=新鮮な)まま保存が可能になっていたというわけです。

ほんとえぐい話ですね。

ファーブルがこの観察結果を論文にまとめて発表すると、たちまち注目を集め、1856年に科学アカデミーの実験生理学賞を受賞。

しかし、ファーブルが大学を出ていないことなどによって、彼を認めたがらない人も多々いました。

そのためなかなか収入が増えず、一方でまた子供が生まれたため、家計的には苦しいことに。

どうにか収入を増やすため、ファーブルは「染料の特許を取ろう」と考えました。

当時のフランスではアカネから取った赤い染料で軍服を染めていたのですが、一度で大量に作る方法はまだ考案されていなかったのです。

ここに目をつけたファーブルは

「アカネから効率よく染料を取るための方法を考えれば、特許を取って定期収入を得られる!」

と考え、研究を始めます。

そして1859年8月にその方法で特許を申請し、狙い通り副収入を得られることになりました。

 

パスツールに協力したり 大臣の目に留まったり

それからしばらくして1865年、細菌学者のパスツールが

「カイコの病気について知りたいんだけど、ちょっと知恵を貸してくれませんか」

と訪ねてきたこともありました。

パスツール/wikipediaより引用

パスツールは当時、養蚕業者の悩みの種だったカイコの病気を研究しており、ファーブルの名を聞きつけてやってきたのです。

彼は虫の研究ではなく細菌の研究が専門。

「カイコのまゆはさなぎになるために作るものだ」ということさえ知らなかったとか。

あまりの無知ぶりにファーブルは呆然としたそうですが、まぁ、専門外のことって誰でもそんなもんですよね。

同じく1865年には、ファーブルの職場であるアヴィニヨンの高校に政府の視学官がやってきました。

二人いたうちのひとりはいかにもお役人といった感じの人だったそうですが、もうひとりのヴィクトール・デュリュイという人は熱のこもった話しぶりで、ファーブルも惹かれたようです。

それから二年後の1867年、そのデュリュイが突然ファーブルの家を訪ねてきました。

デュリュイはその間大出世して文部大臣の座についており、「仕事でたまたまアヴィニヨンに来たので、あなたと話がしたいと思って」と、わざわざやってきたのだとか。

ファーブルは驚きつつも歓迎したものの、ちょうどアカネの研究をしているところで、手が真っ赤になってしまっていたそうです。

そんなところに文部大臣だなんて超お偉いさんが来たのですから、二重に驚いたでしょうねえ。

ファーブルはアカネの染料について研究していることを話し、デュリュイの目の前で実演し、効果の程を示してみせました。

感心したデュリュイは「何か協力できることはないか」と尋ねたものの、

『何かしてもらう代わりに、つまらない仕事を押し付けられたらたまらない』

と考えたファーブルはこれを謝辞。

デュリュイは意外に思いつつもこの日は帰っていきました。

しかしそれから半年後、デュリュイから「パリへ来るように」というお呼び出しの手紙が届きました。

嫌な予感がしたファーブルはこれも断ったものの、次は「来ないなら逮捕する」という出頭命令が来たので、渋々パリへ向かいます。

何を押し付けられるのやら……と恐る恐るファーブルがデュリュイを尋ねると、そこに待っていたのはフランスの最高栄誉であるレジオン・ドヌール勲章でした。

しかもデュリュイが手ずからつけてくれるという厚遇ぶり。

何が何やら理解できないファーブルに、デュリュイは1867年のパリ万博のカタログと、1200フランというお金までくれました。

さらに皇帝ナポレオン3世への拝謁まで用意しています。

皇帝に会うだなんて全く予想していなかったファーブルは断ろうとしましたが、デュリュイは許してくれませんでした。

ナポレオン3世/wikipediaより引用

ナポレオン3世は探検家や各方面の学者を招いて宴会を催すことがあり、デュリュイは客の一人としてファーブルを招いたのです。

皇帝はあらかじめ客の専門分野について予習しておき、宴会の日はそれについて質問していたのだとか。

イメージとしては、現代日本の皇室が行っている園遊会みたいな感じでしょうかね。

宴会は立派なものでしたが、自然を愛するファーブルにとって、大都会パリは落ち着かない場所でした。

宴会が終わった後、彼は急いで地元に戻り、再びアカネと昆虫の研究に取り掛かります。

しかし残念なことに、別人によってアカネから作るよりも安く作れる赤色の化学染料が開発されたため、ファーブルのアカネ研究は徒労に終わってしまいました。

努力していて成果も出せているのに、他人にさらにいいものを作られてしまった……というのは、本当にガックリ来ますよね。

 

妻子を養うためペンを走らせ 成人学級の講師に

ファーブルは意気消沈していられません。

自分ひとりならともかく、養うべき妻子がいるのですから。

染料からの収入を諦めた彼は、これまでの昆虫研究を本にまとめて出版し、印税を得ようと考えます。

幸い、パリの出版社がこの話に乗ってくれました。

こうして全10巻となる『昆虫記』が世に生まれることになります。

ファーブル昆虫記全6巻セット(→amazon

同時期に、ファーブルは成人学級という大人向けの教育講座で教鞭をとりました。

王政時代には職人や農民、そして女性には学問が開かれていなかったのですが、文部大臣のデュリュイは

「これからの時代は幅広く皆が勉強できる機会を設けるべき」

と考え、さまざまな分野の講座を無料で受けられるようにしたのです。

ファーブルもその理念に同意したのでしょう。

あるいは「パリで皇太子(ナポレオン3世の息子)の家庭教師になるか、成人学級の講師になるかどちらがいい?」といった選択を迫られたのかもしれません。

このふたつであれば、ファーブルにとって魅力的だったのは後者でしょうしね。

ファーブルの担当は物理と博物学で、話しぶりの面白さから若い女性にも大人気。

現代でも「身の回りにあるよく知らないこと」を知ったときって、「もっと知りたい!」と思いますものね。

教えてくれる人が面白く話してくれるのなら、なおさらです。

しかし、これを面白く思っていない人たちがいました。

当時はまだカトリックの力が残っており、聖職者たちは

「植物も動物も神様が人間のために作ったものであり、その仕組みを解き明かそうなどという考えは不敬」

としていたため、博物学を露骨に嫌悪したのです。そればかりか、ファーブルへ嫌がらせをする者まで現れる始末。

運の悪いことに、後ろ盾のデュリュイが1869年に文部大臣を退いた上、嫌がらせをしてくる人の中にファーブル一家が借りている家の大家がいました。

やむなく、ファーブルは家族とともにアヴィニヨンの町を去ることになります。

不運は続くもので、この頃パリは普仏戦争によって包囲されており、出版社からの印税も受け取れない状態。

困り果てたファーブルは、知人の資産家であり学者のイギリス人ジョン・ステュアート・ミルに頼んで、引越し費用を借りました。

ミルはファーブルの見識を高く買っており、窮状を知って即座に3000フランも用立ててくれたといいます。

物価の差があるとはいえ、前述した皇帝からのお金の倍以上とはなかなかの太っ腹ぶりです。おそらく単純な引越し費用だけでなく、当面の生活費も含めた金額を貸してくれたのでしょう。

ミルは借用証書すら受け取らなかったそうですので、「貸した」というより「あげた」つもりだったのかもしれません。良い金持ちっているもんですね。

彼のおかげで、ファーブル一家はオランジュという町に落ち着くことができました。

しかし、ファーブルはそれで「ラッキー!」と浮かれるような人ではありません。

これまでのような昆虫や博物学だけでなく、自分のありとあらゆる知識を本にして稼ぎ、借金を重ねないための努力を続けました。

その中には、娘の発言からヒントを得た「家事の科学」という本もあります。家事でやっていることを科学的に説明したもので、灰汁を使って洗濯する方法などが載っているのだとか。

残念ながらこの本は日本語訳がないようなのですが、いずれ出ることを期待したいところです。

著述の方はなんとかできていましたが、これによって昆虫を研究する時間は削られてしまいました。

さらに1877年には愛息子のジュールが亡くなるという悲劇に見舞われます。ジュールは父によく似て昆虫好きだったらしく、それだけにファーブルはより息子の死を悲しみました。

気落ちのためか、一時期は肺炎を患って重体にまで陥ったといいます。

そのうち

「昆虫記を書くことが、息子のためにもなる」

と思い直したのか、ファーブルは活力を取り戻しました。

 

セリニャンで生涯研究と執筆を続ける

そしてより昆虫や植物の観察をしやすい場所を求め、オランジュから数km離れたセリニャンに家を購入。

1879年3月、ファーブル56歳にして初めてのマイホームでした。ここが終の棲家となります。

セリニアンにあるアルマス・ドゥ・ファーブル(Harmas Jean-Henri Fabre)の庭/wikipediaより引用

広くはないながらに人通りが少なく、誰の目も気にすることなく昆虫観察に取り組める理想的な場所でした。

ファーブルの引っ越し歴をまとめてみましょう。

アベイロン スペイン寄り

コルシカ島 イタリア

プロヴァンス フランス南東部

オランジュ フランス中南部

セリニャン スペイン寄り

大人になってからは、フランス南部を東西に行き来したような感じですね。

最後に腰を落ち着けたセリニャンは生まれ故郷アベイロンの南東で、現代の道路では180kmほど。

この近さであれば、いくらか似通った文化や親戚などもいたかもしれませんね。

ここの住民は高度な教育は受けていないながらも穏やかな人が多く、

「難しいことはよくわからんけど、ファーブルに協力するよ」

「文字は読めないけど、何か要るものがあるなら探してくるよ」

といったこともままありました。

家購入の翌月にはいよいよ『昆虫記』の第一巻が発行されています。

当初は学者たちから酷評も受けたり、挿絵がないことで分かりづらかったりと、あまり高い評価は受けられませんでした。

しかし、進化論を唱えたダーウィンなど、旧来の考えにこだわらない人たちはファーブルを好意的に評価していました。

一方でファーブルは「自分の目で観察したものだけが真実」と考えており、観察しきれない部分とそれに対する推測が多分に含まれる進化論については、少々懐疑的だったようです。

現代でも進化論を信じない人たちもいますし、ファーブルの主義も間違っていないのでこれは致し方ないところでしょう。

ファーブルはセリニャンに買った土地を「アルマス」と名付け、ここで「スカラベ(フンコロガシ)がナシ玉に卵を産み付ける理由」や「オオクジャクヤママユのオスがメスの居所を突き止めて寄ってくる仕組み」など、多くの昆虫の生態を観察しました。

後者は現代「フェロモン」と解明されていますね。

残念ながらファーブルはその結論には至りましたが、先駆者として素晴らしい着眼点だったといえるでしょう。

その後は1910年にかけて、昆虫記の執筆をコンスタントに行っています。

環境と執筆が順調だったことによって活力を取り戻したのか、1885年に妻マリーと死別した後、1887年に40歳下(!)のジョゼフィーヌ・ドーデルと再婚しました。

さらにジョゼフィーヌとの間に三人の子供に恵まれています。

これは個人的な憶測に過ぎませんが、幼い頃に一家離散を味わい、大人になってからも子供をたびたび失ったファーブルは、生涯「にぎやかな家庭」を追い求めていたのかもしれませんね。

欲が強かったのかもしれませんが、それだけではないような気がします。

もちろんこの間も『昆虫記』の執筆を続けており、1907年に最後の第10巻が出版されました。

ファーブル83歳のときのことです。この長命ぶりも、理想的な環境で自分の好きなことに打ち込めたからなのでしょうかね。

フランスの写真家・ナダールが撮影したファーブル/wikipediaより引用

ファーブルが亡くなったのは、1915年の10月11日。

その墓碑には遺言によって

「死は終わりではなく、より高貴な生への入り口である」

と彫られているのだとか。

苦境に陥っても前向きであり続けた彼らしい言葉です。

死後の世界があるとすれば、そちらでもきっと生き物の観察と面白い授業を繰り広げているのでしょうね。


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【参考】
奥本大三郎『博物学の巨人 アンリ・ファーブル (集英社新書)』(→amazon
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
岩波 世界人名大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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