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『昆虫記』のファーブル先生はいつもお金で苦労~それでも観察に全てを捧げた生涯

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ファーブル
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妻子を養うためペンを走らせ 成人学級の講師に

ファーブルは意気消沈していられません。

自分ひとりならともかく、養うべき妻子がいるのですから。

染料からの収入を諦めた彼は、これまでの昆虫研究を本にまとめて出版し、印税を得ようと考えます。

幸い、パリの出版社がこの話に乗ってくれました。

こうして全10巻となる『昆虫記』が世に生まれることになります。

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同時期に、ファーブルは成人学級という大人向けの教育講座で教鞭をとりました。

王政時代には職人や農民、そして女性には学問が開かれていなかったのですが、文部大臣のデュリュイは

「これからの時代は幅広く皆が勉強できる機会を設けるべき」

と考え、さまざまな分野の講座を無料で受けられるようにしたのです。

ファーブルもその理念に同意したのでしょう。

あるいは「パリで皇太子(ナポレオン3世の息子)の家庭教師になるか、成人学級の講師になるかどちらがいい?」といった選択を迫られたのかもしれません。

このふたつであれば、ファーブルにとって魅力的だったのは後者でしょうしね。

ファーブルの担当は物理と博物学で、話しぶりの面白さから若い女性にも大人気。

現代でも「身の回りにあるよく知らないこと」を知ったときって、「もっと知りたい!」と思いますものね。

教えてくれる人が面白く話してくれるのなら、なおさらです。

しかし、これを面白く思っていない人たちがいました。

当時はまだカトリックの力が残っており、聖職者たちは

「植物も動物も神様が人間のために作ったものであり、その仕組みを解き明かそうなどという考えは不敬」

としていたため、博物学を露骨に嫌悪したのです。そればかりか、ファーブルへ嫌がらせをする者まで現れる始末。

運の悪いことに、後ろ盾のデュリュイが1869年に文部大臣を退いた上、嫌がらせをしてくる人の中にファーブル一家が借りている家の大家がいました。

やむなく、ファーブルは家族とともにアヴィニヨンの町を去ることになります。

不運は続くもので、この頃パリは普仏戦争によって包囲されており、出版社からの印税も受け取れない状態。

困り果てたファーブルは、知人の資産家であり学者のイギリス人ジョン・ステュアート・ミルに頼んで、引越し費用を借りました。

ミルはファーブルの見識を高く買っており、窮状を知って即座に3000フランも用立ててくれたといいます。

物価の差があるとはいえ、前述した皇帝からのお金の倍以上とはなかなかの太っ腹ぶりです。おそらく単純な引越し費用だけでなく、当面の生活費も含めた金額を貸してくれたのでしょう。

ミルは借用証書すら受け取らなかったそうですので、「貸した」というより「あげた」つもりだったのかもしれません。良い金持ちっているもんですね。

彼のおかげで、ファーブル一家はオランジュという町に落ち着くことができました。

しかし、ファーブルはそれで「ラッキー!」と浮かれるような人ではありません。

これまでのような昆虫や博物学だけでなく、自分のありとあらゆる知識を本にして稼ぎ、借金を重ねないための努力を続けました。

その中には、娘の発言からヒントを得た「家事の科学」という本もあります。家事でやっていることを科学的に説明したもので、灰汁を使って洗濯する方法などが載っているのだとか。

残念ながらこの本は日本語訳がないようなのですが、いずれ出ることを期待したいところです。

著述の方はなんとかできていましたが、これによって昆虫を研究する時間は削られてしまいました。

さらに1877年には愛息子のジュールが亡くなるという悲劇に見舞われます。ジュールは父によく似て昆虫好きだったらしく、それだけにファーブルはより息子の死を悲しみました。

気落ちのためか、一時期は肺炎を患って重体にまで陥ったといいます。

そのうち

「昆虫記を書くことが、息子のためにもなる」

と思い直したのか、ファーブルは活力を取り戻しました。

 


セリニャンで生涯研究と執筆を続ける

そしてより昆虫や植物の観察をしやすい場所を求め、オランジュから数km離れたセリニャンに家を購入。

1879年3月、ファーブル56歳にして初めてのマイホームでした。ここが終の棲家となります。

セリニアンにあるアルマス・ドゥ・ファーブル(Harmas Jean-Henri Fabre)の庭/wikipediaより引用

広くはないながらに人通りが少なく、誰の目も気にすることなく昆虫観察に取り組める理想的な場所でした。

ファーブルの引っ越し歴をまとめてみましょう。

アベイロン スペイン寄り

コルシカ島 イタリア

プロヴァンス フランス南東部

オランジュ フランス中南部

セリニャン スペイン寄り

大人になってからは、フランス南部を東西に行き来したような感じですね。

最後に腰を落ち着けたセリニャンは生まれ故郷アベイロンの南東で、現代の道路では180kmほど。

この近さであれば、いくらか似通った文化や親戚などもいたかもしれませんね。

ここの住民は高度な教育は受けていないながらも穏やかな人が多く、

「難しいことはよくわからんけど、ファーブルに協力するよ」

「文字は読めないけど、何か要るものがあるなら探してくるよ」

といったこともままありました。

家購入の翌月にはいよいよ『昆虫記』の第一巻が発行されています。

当初は学者たちから酷評も受けたり、挿絵がないことで分かりづらかったりと、あまり高い評価は受けられませんでした。

しかし、進化論を唱えたダーウィンなど、旧来の考えにこだわらない人たちはファーブルを好意的に評価していました。

一方でファーブルは「自分の目で観察したものだけが真実」と考えており、観察しきれない部分とそれに対する推測が多分に含まれる進化論については、少々懐疑的だったようです。

現代でも進化論を信じない人たちもいますし、ファーブルの主義も間違っていないのでこれは致し方ないところでしょう。

ファーブルはセリニャンに買った土地を「アルマス」と名付け、ここで「スカラベ(フンコロガシ)がナシ玉に卵を産み付ける理由」や「オオクジャクヤママユのオスがメスの居所を突き止めて寄ってくる仕組み」など、多くの昆虫の生態を観察しました。

後者は現代「フェロモン」と解明されていますね。

残念ながらファーブルはその結論には至りましたが、先駆者として素晴らしい着眼点だったといえるでしょう。

その後は1910年にかけて、昆虫記の執筆をコンスタントに行っています。

環境と執筆が順調だったことによって活力を取り戻したのか、1885年に妻マリーと死別した後、1887年に40歳下(!)のジョゼフィーヌ・ドーデルと再婚しました。

さらにジョゼフィーヌとの間に三人の子供に恵まれています。

これは個人的な憶測に過ぎませんが、幼い頃に一家離散を味わい、大人になってからも子供をたびたび失ったファーブルは、生涯「にぎやかな家庭」を追い求めていたのかもしれませんね。

欲が強かったのかもしれませんが、それだけではないような気がします。

もちろんこの間も『昆虫記』の執筆を続けており、1907年に最後の第10巻が出版されました。

ファーブル83歳のときのことです。この長命ぶりも、理想的な環境で自分の好きなことに打ち込めたからなのでしょうかね。

フランスの写真家・ナダールが撮影したファーブル/wikipediaより引用

ファーブルが亡くなったのは、1915年の10月11日。

その墓碑には遺言によって

「死は終わりではなく、より高貴な生への入り口である」

と彫られているのだとか。

苦境に陥っても前向きであり続けた彼らしい言葉です。

死後の世界があるとすれば、そちらでもきっと生き物の観察と面白い授業を繰り広げているのでしょうね。


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長月 七紀・記

【参考】
奥本大三郎『博物学の巨人 アンリ・ファーブル (集英社新書)』(→amazon
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
岩波 世界人名大辞典

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