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蜂の研究で科学アカデミー実験生理学賞を受賞
コルシカ島はフランス本土の人々からは「後進地」とみられており、僻地手当がついていたために収入も上がっています。
それに加え、コルシカ島は彼の故郷よりも日照時間が長いでしょうから、一気にポジティブな気持ちが強まったのかもしれませんね。
1850年には再び娘に恵まれ、アントニアと名付けました。この娘は後年まで健康に育ち、ファーブルの手伝いをしてくれるようになります。
三人目にしてようやく育ち上がった子供ですから、ファーブル夫妻もさぞ喜んだことでしょう。
ファーブルの収入が増えて衣食住が向上したことで、健康な子供が生まれたのかもしれませんね。
コルシカ島赴任中には、ファーブルのその後に大きく影響した人物とも出会いました。
ひとりはアヴィニヨンの植物学者エスプリ・ルキアンで、ファーブルにコルシカ島の植物を多々採集させてくれました。
もうひとりはモカン=タンドンという博物学者で、ファーブルにとってはルキアンよりも気の合う人でした。
ルキアンはブルジョワ層だったのでハングリー精神に欠けるところがあり、ファーブルにとっては「嗜好は合うが、価値観が合わないところもある」という人でした。
タンドンは心の底から動物や植物が好きで、ファーブルに
「あなたは数学よりも動物や植物を研究したほうがいい」
と勧め、簡単な解剖のやり方を教えてくれています。
それからしばらくして、フランス政府が財政改善のために教師の給料を削ろうとし始めたり、ファーブルがマラリアに罹ってしまったりと困難が続きました。
療養の後もう一度コルシカ島に戻りましたが、程なくして次はアヴィニヨンの高校教師に。
タンドンに言われたこともあって、教師はあくまで収入を安定させるための手段としてとらえ、博物学の研究に打ち込み始めます。
そこにレオン・デュフールという昆虫学者の論文を読んだことで、ファーブルの情熱が一気に燃え上がりました。
この論文は「蜂がタマムシを食料としていること」そして「蜂がタマムシを腐敗させずに巣穴で保存していたこと」が書かれており、デュフールは
「蜂がタマムシに防腐効果のある物質を注入するのではないか」
と仮定していました。
ファーブルはこれを自分の目で観察し、確かめてみることを決意。
そこで休みの日に蜂とその巣穴を調べ、保存されていたゾウムシの状態を調べました。
ゾウムシとタマムシという差はありましたが、餌の偏りは地域ごとに出てくるものなので、大きな問題にはならなかったようです。
その結果、ファーブルは蜂の巣穴にいたゾウムシが「排泄している=生きている」ことを発見。
蜂の餌になった虫たちは、防腐剤を入れられていたのではなく、生きたまま巣穴に閉じ込められていたのでした。
えげつない話ですが、自然界ってそういうもんですよね。
さらに観察と実験を続けた結果、ファーブルは
「蜂がゾウムシの腹の継ぎ目を刺して動けないようにしている」
「その刺した場所は、ゾウムシの神経が集中しているところである」
ことを発見しました。
蜂が毒を入れずに刺していたので、食料として使える状態で生きた(=新鮮な)まま保存が可能になっていたというわけです。
ほんとえぐい話ですね。
ファーブルがこの観察結果を論文にまとめて発表すると、たちまち注目を集め、1856年に科学アカデミーの実験生理学賞を受賞。
しかし、ファーブルが大学を出ていないことなどによって、彼を認めたがらない人も多々いました。
そのためなかなか収入が増えず、一方でまた子供が生まれたため、家計的には苦しいことに。
どうにか収入を増やすため、ファーブルは「染料の特許を取ろう」と考えました。
当時のフランスではアカネから取った赤い染料で軍服を染めていたのですが、一度で大量に作る方法はまだ考案されていなかったのです。
ここに目をつけたファーブルは
「アカネから効率よく染料を取るための方法を考えれば、特許を取って定期収入を得られる!」
と考え、研究を始めます。
そして1859年8月にその方法で特許を申請し、狙い通り副収入を得られることになりました。
パスツールに協力したり 大臣の目に留まったり
それからしばらくして1865年、細菌学者のパスツールが
「カイコの病気について知りたいんだけど、ちょっと知恵を貸してくれませんか」
と訪ねてきたこともありました。
パスツールは当時、養蚕業者の悩みの種だったカイコの病気を研究しており、ファーブルの名を聞きつけてやってきたのです。
彼は虫の研究ではなく細菌の研究が専門。
「カイコのまゆはさなぎになるために作るものだ」ということさえ知らなかったとか。
あまりの無知ぶりにファーブルは呆然としたそうですが、まぁ、専門外のことって誰でもそんなもんですよね。
同じく1865年には、ファーブルの職場であるアヴィニヨンの高校に政府の視学官がやってきました。
二人いたうちのひとりはいかにもお役人といった感じの人だったそうですが、もうひとりのヴィクトール・デュリュイという人は熱のこもった話しぶりで、ファーブルも惹かれたようです。
それから二年後の1867年、そのデュリュイが突然ファーブルの家を訪ねてきました。
デュリュイはその間大出世して文部大臣の座についており、「仕事でたまたまアヴィニヨンに来たので、あなたと話がしたいと思って」と、わざわざやってきたのだとか。
ファーブルは驚きつつも歓迎したものの、ちょうどアカネの研究をしているところで、手が真っ赤になってしまっていたそうです。
そんなところに文部大臣だなんて超お偉いさんが来たのですから、二重に驚いたでしょうねえ。
ファーブルはアカネの染料について研究していることを話し、デュリュイの目の前で実演し、効果の程を示してみせました。
感心したデュリュイは「何か協力できることはないか」と尋ねたものの、
『何かしてもらう代わりに、つまらない仕事を押し付けられたらたまらない』
と考えたファーブルはこれを謝辞。
デュリュイは意外に思いつつもこの日は帰っていきました。
しかしそれから半年後、デュリュイから「パリへ来るように」というお呼び出しの手紙が届きました。
嫌な予感がしたファーブルはこれも断ったものの、次は「来ないなら逮捕する」という出頭命令が来たので、渋々パリへ向かいます。
何を押し付けられるのやら……と恐る恐るファーブルがデュリュイを尋ねると、そこに待っていたのはフランスの最高栄誉であるレジオン・ドヌール勲章でした。
しかもデュリュイが手ずからつけてくれるという厚遇ぶり。
何が何やら理解できないファーブルに、デュリュイは1867年のパリ万博のカタログと、1200フランというお金までくれました。
さらに皇帝ナポレオン3世への拝謁まで用意しています。
皇帝に会うだなんて全く予想していなかったファーブルは断ろうとしましたが、デュリュイは許してくれませんでした。
ナポレオン3世は探検家や各方面の学者を招いて宴会を催すことがあり、デュリュイは客の一人としてファーブルを招いたのです。
皇帝はあらかじめ客の専門分野について予習しておき、宴会の日はそれについて質問していたのだとか。
イメージとしては、現代日本の皇室が行っている園遊会みたいな感じでしょうかね。
宴会は立派なものでしたが、自然を愛するファーブルにとって、大都会パリは落ち着かない場所でした。
宴会が終わった後、彼は急いで地元に戻り、再びアカネと昆虫の研究に取り掛かります。
しかし残念なことに、別人によってアカネから作るよりも安く作れる赤色の化学染料が開発されたため、ファーブルのアカネ研究は徒労に終わってしまいました。
努力していて成果も出せているのに、他人にさらにいいものを作られてしまった……というのは、本当にガックリ来ますよね。
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