カンボジアの歴史

アンコールワット

アジア・中東

超複雑なカンボジアの歴史と内戦をスッキリ解説!アンコールワットの夜明け

2019/11/09

1953年(昭和二十八年)11月9日は、カンボジアがフランスから独立した日です。

しかし、この国にとって真の独立はこれより数十年後のことでした。

どういう経緯だったのかを含め、カンボジアの歴史と内戦に注目したいと思います。

現代の部分が長くなるので、それ以前はざっくりになりますが、悪しからずご了承くださいm(_ _)m

 


アンコールワットは中尊寺金色堂と同窓生!?

カンボジアには、少なくとも1世紀ごろから国があったと考えられています。

その頃の中国の歴史書に、現在のカンボジア付近に扶南ふなん王国という国ができていたことが書かれているのです。

3世紀ぐらいから中国・インド双方の中間にある交易都市として栄え始め、6世紀には真臘しんろうという今のカンボジアにとって原型に近い国ができ、クメール文字という独自の文字が考えだされました。

9世紀にはアンコール王朝(クメール王朝)という王朝が始まります。

この国が12世紀に作ったのが世界遺産アンコール・ワットです。

タイやベトナムの一部も含めて領土を拡大させたクメール王朝/wikipediaより引用

もし建築物に「同窓生」という概念を当てはめるとすれば、アンコール・ワットと中尊寺金色堂がそんな感じになります。大きな枠組で考えれば同じ仏教寺院ですしね。

アンコール王朝は決して盤石ではなく、内乱や外国との争い、大規模建築による国力の疲弊などがありました。まあこの辺はどこでも同じですかね。

13世紀からは元やタイのアユタヤ王朝とも戦っており、大陸国の悲哀が伺えます。

そして15世紀には首都アンコールが陥落。

その後も遷都を繰り返しながら国の形は残りました。根性、すごいです。

近年もたびたび水害に悩まされていますから、この頃にはもっとすごかったでしょうし、移転くらいは困難でも何でもなかったのでしょうか。

 


ベトナムとタイに侵攻され続け、独力ではどうにもならず……

16世紀にはポルトガル人がやってきており、日本との交易をしていたことも記録されています。

かぼちゃはこの頃日本に伝来したともいわれていますね。

「カンボジア」→「カンボチャ」→「かぼちゃ」と変化したのだとか。随分可愛らしい変わり方をしたものです。

海の向こうの国との交易が始まったことで、外交関係も複雑になってきます。

タイやベトナムとの戦争に際し、フィリピン総督のスペイン人や、シンガポールにいたフランス人領事に助けを求めたこともありました。

が、いずれも失敗。ここで完全に植民地化されなかったのは不幸中の幸いですかね。

19世紀にはカンボジアを含めたインドシナ半島戦域がフランスの植民地になりました。

フランスが進出していたベトナム・ラオス・カンボジア/photo by historicair wikipediaより引用

このあたりから嫌な予感がしますが、カンボジアは自ら保護国化を望んでいるので悪いとも言い切れません。

ベトナムとタイに挟まれ、侵攻され続け、独力ではどうにもならなかったからです。

日本人にはなかなか想像がつきませんが、ものすごく端的にいうと信長包囲網を国単位でやられるような感じでしょうか。

イメージ云々はともかく、王様が自ら頭を下げるというのは、相当の勇気が必要だったでしょう。

しかし、市民、特に農民は納得せず、王宮前まで来て直訴をしたなんてこともありました。徴税に来た役人を農民が暗殺するという物騒すぎる事件も起きています。

それでも保護国という立場は変わりませんでした。

 

第二次大戦後はベトナム戦争に巻き込まれ

第二次世界大戦が始まってフランス本国がドイツに侵略されると、カンボジアは日本との関係を重視し、国内への進駐を認めました。

当時の日本軍は次々に版図を広げていたので、アテになりそうだと思ったのでしょう。

日本の明号作戦(フランス領インドシナ半島制圧作戦)に呼応し、カンボジア独立を狙います。

日本の敗戦後、カンボジアは再びフランスの保護国になってしまったのですが……ときの国王・シハヌークは諦めずに独立運動を続けました。

自らフランス・アメリカ・タイなどで世論に訴え、国内では憲法公布などを行って19553年に独立を果たします。

シハヌークはその後、首相兼外務大臣ののち国家元首としてカンボジアの国政を担っていきました。

が、ここでカンボジアの発展を大きく妨げる大事件が起きます。

ベトナム戦争です。

「何で隣の国の戦争が関係あるんじゃい」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、地続きの隣の国でドンパチをやっていて、全く巻き込まれないでいるというのは至難の業です。

そんなんできるのはスイスくらいではないでしょうか。

 


ベトナム戦争の経過を6行まとめ

というわけで、ここでベトナム戦争の経過が重要になってきますので、カンボジアの話をする上で最低限のことだけお話しますね。

①第二次世界大戦後、再びインドシナ半島全域を植民地にしようとしたフランスに対し、ホー・チ・ミンが主導する北ベトナムの人々が反抗

②フランスは南ベトナムに傀儡国家を作り、南北のベトナムが相争う

③南ベトナムではその後アメリカを後ろ盾とした新しい国ができたが、政策がダメダメ過ぎて国民の反感を買う

④これを見た北ベトナムが武力による南ベトナムの併合を狙う

⑤アメリカ、「共産主義の北ベトナムが勝ったら、インドシナ半島全部が共産主義になりそう! ヤバイ!!」(超略)で参戦、北(ベトナムへの)爆(撃)開始

⑥北ベトナム、ゲリラ戦でアメリカ・南ベトナムを翻弄。アメリカ軍撤退、ベトナム戦争終結

ベトナム戦争に関しては、枯葉剤と各方面への被害・諸々の虐殺事件・反戦運動などなど、もっといろいろと書くべきことがあるのですけども、今回はカンボジアのお話なので割愛します。

余談ですが、ベトナム戦争の記録を詳しく調べようとすると、ほぼ確実に虐殺現場のカラー写真が出てくるので、なかなかおすすめできないのが残念なところです。

目を逸らしてはいけないんですけど。

知るまでの過程で拒絶されたら意味がありませんから。

 

ポル・ポト率いるクメール・ルージュの台頭

さて、この間におけるカンボジアの動きも、戦線に呼応するかのように複雑なものでした。

シハヌークは北ベトナムにつきました。

そして「ウチの国内を通っていいよ」と言っていたところ、シハヌークの外遊中に親米派がクーデターを起こし、クメール共和国樹立を宣言、ベトナム系住民の迫害・虐殺を行ってしまったのです。

これを機に、アメリカ軍はカンボジア国内の北ベトナム側拠点にも空爆を行うようになりました。

そこで出てきた新勢力がポル・ポト率いる「クメール・ルージュ」という政党です。

ポル・ポト/wikipediaより引用

聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

民衆に人気のあったシアヌークがポル・ポトについたことにより、カンボジアの運命が激変します。

ポル・ポトは当初、農民の味方だったのですが、政権を奪い取るやガラリと政策を変えました。

「原始共産主義こそ完全な社会! 逆らうやつは全員ブッコロ!!」(超略)という姿勢を露わにし、そして実際に大量虐殺を行ったのです。

原始共産主義とは、ものすごく簡単に言うと「原始時代の生活はお互いに協力しあってたから、皆平等で素晴らしい! その時代に戻ろう!」というものです。

つまり、学問・技術・宗教といった、人類の文化を全て否定する考えということにもなります。

完全な離島ならともかく、カンボジアのような大陸国でこれをやって、なぜ国が成り立つと思うのか。

わけがわかりませんが、実行してしまうのでした。

 

地方で強制労働させ、逆らえばすぐに虐殺する

ポル・ポトは、中国の文化大革命や毛沢東からの影響を強く受けて原始共産制に魅力を感じたそうで。

その中国は同時期に見事に失敗してるんですけどね。

今より情報の伝達速度が遅いとはいえ、それを全く知らなかったとは思えないのですけども、何がどうしてこうなってしまったのやら……。

「人が減ったら中国から連れてくればいい」とか考えてたなんて話もあるほどです。

ともかくポル・ポトは、原始共産主義のもと、知識人や役人を次々と地方の農場に送って強制労働をさせました。

「知識があると反乱を起こす”かもしれない”」からです。

これほど被害の大きい屁理屈があるでしょうか。

当然、逆らう者は強制収容所で軒並み死刑にしています(※カンボジアの博物館には、赤ちゃんさえも地面に叩きつけて殺すクメール・ルージュのイラストが……)。

完全に壊れてしまってます。

しかし、強烈な監視社会、恐怖政治とは怖いもので、それが蔓延ってしまうのでした。

 

日本人の犠牲者も数名いた……

この頃シハヌークは監禁され、政治に関わることができなくなっていました。

さらに、ベトナム戦争が終わっても国内の統一が図りにくかったベトナムが、カンボジアに攻めてきます。

いつでもどこでも、人間は共通の敵がいると団結しますからね。

ベトナムはソ連、ポル・ポトが中国の支援を受けていたため、同じ共産主義でも味方ではなかったからでもあります。

そしてベトナム軍がカンボジアに侵攻。

クメール・ルージュが国境まで追いやられると、ようやくカンボジアは恐怖政治から開放されました。

しかし、この頃までに少なく見積もっても200万以上の人が原始共産主義の犠牲になっています。

数十年間国勢調査は行われておらず、また上記の理由からして「国政の邪魔になる人間」の数など把握しているはずがないので、正確な犠牲者数はわかっていません。

他に飢餓による犠牲者もいます。

あまり知られていませんが、日本人の犠牲者も数名いると考えられています。

わかっているのはカンボジアの男性と結婚していた日本人女性で、そのうち二人が奇跡的に生還しました。

ベトナムはカンボジアをまともな国にするべく動き始めました。

ただ、外国に口を出されるのが気に入らないのはどこでも同じなのでしょう。

国際世論も「よそに新しい国作ったらそれ傀儡じゃね?」(超訳)と考えたため、ベトナムが作った政府よりもカンボジア人の政府を応援し、内戦状態に陥ります。

ここまでの数十年で一体何人が犠牲になったのでしょう。

しかし、国際世論のせいでこじれた問題ですから、国際世論が変われば状況も変わります。

1980年代後半になって冷戦が終わる雰囲気を見せ始めると、共産主義国家の考えも柔和になっていきました。

そして各政権間で会談がもたれ、ベトナム軍がカンボジアから完全撤退。

1993年には総選挙が行われ、シハヌークを国王とする新しいカンボジア王国が始まりました。

 

家族立会いのもと埋葬されたポル・ポトの最期

ポル・ポトは頑強に抵抗を続けました。

が、徐々にお偉いさんが逃げ出します。どう見ても復権はありえませんしね。

しかもその状況で自分の腹心を「勝手に和解を試みたから」という理由で殺害したことがきっかけで、クメール・ルージュ内部から監禁され、裁判にかけられました。

判決は当然死刑で、翌年亡くなっています。

毒殺または服毒による自殺の可能性もあるそうで、遺体が既に焼かれてしまっているので今後の調査は不可能でしょう。

古いタイヤと一緒に焼かれたそうです。

なぜタイヤなんだか……。

それまでの所業からして市民に八つ裂きにされても仕方ないほどでしたが、火葬の上、家族立ち会いのもと埋葬しているあたり、カンボジアの方々も優しいものです。

現在、クメール・ルージュは完全に消滅しております。

しかし、国内各地に埋められた地雷などの爪痕は大きく、特に法律の制定が急務となっています。

裁判官・検察・弁護士などの法律に関わる知識人層がほとんどいなくなってしまったからです。なんせ民法が適用されたのが2011年ですから、細かい法律に関してはまだまだこれからというところでしょう。

日本からも相当な支援が行われているので、時間の問題かもしれませんが。

 

今後は日本との関係がますます強化されていくハズ

そんなわけで、カンボジアのまだまだ課題は多い一方、明るい兆しもあるようです。

これは現地に行った方からの又聞きなのですけれども、とても学習意欲が高くてエネルギッシュな若者が多いんだとか。

日本語を学ぶ人も多いそうです。

当サイトの編集長談によりますと、1999年頃に現地を訪れたとき、当初、中国人と間違われ邪険に扱われていたところ、日本人だとわかった途端に笑顔で色々と歓待してくれたなんて話も。

あくまで市民感情レベルの話ですが、当時、中国は資本にまかせて同国へ進出していて、現地の人に良く思われていなかったんだとか。

現状は不明ながら、そう大きく方針は変わってないでしょうから、その点は日本も気をつけねばならないのかもしれませんね。

日本とは要人の往来も多いですし、少しずつ経済関係も増してきているので、あと何十年かしたらもっと重要視される国になるかもしれませんね。

【参考】
カンボジア/wikipedia
カンボジアの歴史/wikipedia
原始共産制/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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