伏見天皇

伏見天皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

暗殺される!寸前だった伏見天皇と浅原事件~そして両統迭立は激化

歴史というと、クーデターや戦争など派手な出来事に目が行きがち。

その一方で「大事件が起こる寸前だった!」というものも存在します。

文永二年(1265年)4月23日は、伏見天皇が誕生した日です。

日本史の授業では武家政権ができてから幕末まで、ほとんど天皇に関することを習いませんが、実はこの方の時代にかなりヤバイ出来事がありました。

まずはその背景から見ていきましょう。

 


後深草天皇と亀山天皇から確執が

この頃の皇室は、ちょっとしたお家騒動になりかけていました。

【次の天皇を誰にするか?】

この点について伏見天皇の父・後深草天皇と、その弟・亀山天皇の間で確執が生まれたのです。

なかなか決着がつかず、間に入った鎌倉幕府は次のように提案します。

「お互いのお血筋の方で、交互に皇位についてはいかがでしょう?」(意訳)

要は【順番】で天皇を出していこう、ということですね。

その結果、後深草天皇の子孫たちが「持明院統」と呼ばれ、亀山天皇の子孫たちが「大覚寺統」と呼ばれることになりました。

鎌倉将軍は気にせずご覧ください

それぞれ縁のある「お寺の名前」から、「持明院統」「大覚寺統」と呼ばれました。

後の南北朝時代の争乱まで繋がる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の始まりです。

 


伏見天皇が取り決めを無視

後世の人間にとっても覚えにくくて大変困りますが、もちろん当時もこの状態は好ましいものではありませんでした。

前述のヤバイ事件というのも、その関連で起きたものです。

伏見天皇は持明院統ですから、取り決め通りに行くのなら、次は大覚寺統の人を皇太子に指名しなくてはなりません。

が、伏見天皇はそうせず、自分の息子を皇太子にしてしまいます。

大覚寺統から見れば「約束が違うじゃないか!」と思うのも無理のない話です。

しかし、伏見天皇からすれば「元々皇位は原則直系で続いていくものなのだから、自分の息子がいるのに両統迭立なんて状態のほうがおかしい」わけです。

両統迭立状態になったのも、元はといえば後深草天皇・亀山天皇両方の父である後嵯峨天皇が亀山天皇を偏愛したからで、いつの時代もこうしたトラブルは絶えませんね……。

伏見天皇も当然、その理由を知っていたでしょう。

となれば「お祖父様が変なことしたせいで今めちゃくちゃになってるんだから、私の代から元に戻さなければ!」という考えになったとしても、おかしなことではありません。

こうして静かな火花が散る中で、前代未聞の事件が起きます。

伏見天皇が「暗殺されかけた」のです。

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