ベルリンオリンピック開会式の様子/wikipediaより引用

ドイツ

第二次世界大戦直前の「ベルリン五輪」聖火リレーは戦争に悪用された!?

1936年(昭和十一年)8月1日、ベルリンオリンピックの開会式が行われました。

第二次世界大戦直前のことであり、当時から様々な憶測が飛び交っておりましたが、なんとか開催。
しかし、そこにはナチスの周到な戦争準備も見て取れて、非常に後味悪い大会にもなっております。

まずは当時の社会情勢から振り返ってみましょう。

 


ベルリン五輪が開催された理由

当時、ドイツの政治は既にナチスの独裁になっておりました。
悪名高きユダヤ人差別をはじめ、有色人種蔑視もひどくなっていたのです。

さらに、独裁者のヒトラーが、なぜか
「オリンピックはユダヤ人の祭だからけしからん」
と考えておりました。

いったいどんな“ユダヤ人”定義なんだ、とツッコミたくなるところですが、偏見とはそういうものなのでしょう。

連中の人種差別的な政策も少しずつ他国にバレはじめ、国際的信頼を失いつつあったドイツ。
ここで「ウチは良い国なんですよ」というアピールをする必要性を考えます。

側近がそういった方向性でヒトラーを説得し、ベルリンオリンピックは開催されるに至りました。

もう一つの有力候補地は、スペインのバルセロナでした。

そのためスペインでは「人種差別する国の大会は御免(もうちょっとでウチ開催になるところだったのに!)」という理由で、ベルリンオリンピックへの参加を見送り。
ドイツが人種差別をしていることを皮肉り「人民オリンピック」と名付けた独自の大会を開こうとしましたが、開催開始日にスペイン内戦が始まってしまい、幻に終わりました。

集まった選手たちの中には、義勇軍に身を投じた人も少なくなかったそうです。

ベルリン市内に掲揚された各国旗/wikipediaより引用

 


選手村の整備に始まりテレビやFAXなどの技術導入も

話をベルリンへ戻しましょう。

ユダヤ系の国民が多いイギリスやアメリカも、「選手に何かあったらヤダ」として、参加には慎重な姿勢を見せていました。

しかし、ヒトラーも、パフォーマンスの腕と執着心にかけては史上稀なレベルの人物です。
オリンピックの前後に限りユダヤ人への迫害を緩め、他の民族に対する差別発言も控えるなど、“健康診断当日に朝食を抜く女子高生”みたいなことをしはじめました。

明らかに見え透いた変更でしたが、これによってアメリカとイギリスはベルリンオリンピック参加を決めます。それでいいんか。

こうしたキナ臭い空気の中で決まったオリンピックでしたが、準備は順調に進められました。

スタジアム・選手村・交通機関・ホテルなど、今日のオリンピックでも話題になるような施設が急ピッチで整備。
当時実用化に向かいつつあったテレビ・ファックスなどを利用した報道も試みられています。

ヒトラーがプロパガンダ(ワタシのやってることはこんなにスバラシイんですよ!というアピール)のために利用するという意味もあったとはいえ、技術的な進化があったのも事実ですね。認めたくはないけど。

 


聖火リレーで各国の道路事情を調べていた!?

また、オリンピックの風物詩である聖火リレーは、このときから始められました。

このときから始まった聖火リレー/wikipediaより引用

オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアからスタートし、ブルガリア・ユーゴスラヴィア・ハンガリー・オーストリア・チェコスロバキアを経由して、ベルリンまでやってきています。

このときドイツは各国の道路事情を調べ、後の戦略に役立てたとか。
戦争とはそういうものかもしれませんが、小憎たらしいばかりに周到ですね。

ベルリン・オリンピックの聖火台/wikipediaより引用

開会式等の様子は映画『民族の祭典』で見ることができます。

 

同作品は、プロパガンダとして叩かれますが、一方で、映像作品としての評価は高い――という微妙な存在となっています。

美しき映画監督レニ・リーフェンシュタール~ナチスのプロパガンダと批判され

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肝心の結果は?

メダル獲得数で見ますと
・ドイツ
・アメリカ
・ハンガリー
がトップ3。

日本も、当時併合していた朝鮮人選手とともに、18個のメダルを獲得しました。
内訳は
【金6・銀4・銅8】
です。

特に競泳女子では、前畑秀子という史上初めての女性金メダリストが出ています。

1932年ロス五輪の前畑/wikipediaより引用

 

その後の東京五輪(1940年)は開催されず

また、当時存在していた芸術競技でも日本人メダリストが出ました。

芸術競技とは、スポーツを題材とした芸術作品を採点し、順位を決めるというものです。

ただし、「芸術を数値化するのってやっぱり難しいんじゃね?」ということで、1952年のヘルシンキオリンピックからは競技ではなく展示のみになりました。
それを言ったらフィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングあたりも競技化できない気がするんですが……体を動かす競技だからいいんですかね。

他国の選手では、アメリカのジェシー・オーエンスという陸上選手が史上初めて4つの金メダルを獲得するという偉業を成し遂げています。

こうして、開催前に不穏な空気が漂っていた割には、ベルリンオリンピックは無事に終了しました。

本来であれば、ベルリンの次は1940年に東京、さらにその次は1944年にロンドンで夏季オリンピックが開かれる予定だったのですが、ベルリンオリンピックの翌月にドイツがポーランドへ侵攻。
第二次世界大戦が始まり、両大会ともに中止となっています。

特に、1940年大会は「幻の東京五輪」と呼ばれ、嘉納治五郎が必死になった招致に成功させたものです。
それがこんなカタチで無くなってしまうとは、残念というほかなかったでしょう。

もっとも嘉納は亡くなっており、その結末を知りません。
大河ドラマ『いだてん』でも、おそらくや取り上げられるでしょう。

その前に、以下の記事をご参照いただければと存じます。

幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)
なぜ幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)は中止に追い込まれた?

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長月 七紀・記

【参考】
ベルリンオリンピック/wikipedia
人民オリンピック/wikipedia


 



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