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その日、歴史が動いた ロシア 明治・大正・昭和時代

バルチック艦隊がヘタこいた~! 日露戦争の趨勢に影響を与えたドッガーバンク事件とは?

更新日:

ちょっとしたきっかけや出来事で、その後の考え方や人生が大きく変わる……ということがありますよね。「(前略)習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」という名言もありますし。
とはいえ、変わる方向はイイことばかりではありません。本日は一方にとっては良かったものの、もう一方にとってはシャレにならない事態を招いた、とある事件のお話です。

1904年(明治三十七年)10月21日は、ドッガーバンク事件が起きた日です。

字面からすると何だか銀行が絡む事件のような気もしますが、”ドッガーバンク”は海域の名前なので、特に関係ありません。ある意味、大きくお金が動いていますが。

この事件は、日露戦争の趨勢を決めた一因ということもできます。
日本人からするとそんな感じでイメージしたほうが親近感がわくと思いますので、その辺を念頭に置いて進めましょう。

ハンゲの海戦時(1714年)のバルチック艦隊/wikipediaより引用

ハンゲの海戦時(1714年)のバルチック艦隊/wikipediaより引用

 

リバウ軍港を出て日本近海へ向かう途中のことだった

日露戦争のハイライトはいろいろありますが、やはり最大のポイントになるのはバルチック艦隊ですよね。

バルチック艦隊はこの年(1904年)の10月15日、リバウ軍港(現在はラトビア・リアパーヤ港)を出港して、日本近海へ向かうところでした。
日露戦争が始まって既に8ヶ月ほど経っていますので、ロシアとしては切り札の一つだったでしょう。
同じ頃、陸では旅順を巡る戦いが一進一退という状況でしたしね。

また、ロシアは日英同盟の存在を強く意識していました。

そのため、バルチック艦隊が出港すれば、どこかのタイミングで必ず日本海軍が奇襲してくると思っていたそうです。
現実的に考えれば、当時の日本海軍に直接ヨーロッパまで船を出す余裕はなかったのですが……何故かロシア側では「そうに決まっている」と思っていたようで。負の妄想こわい。

ロシアはいち早く情報を得るため、各地にスパイを送り、日本海軍の動きを逐一報告させました。
しかし、スパイたちは発見報告への報奨金目当てに「日本の船がここにいました」「あっちにもいました」という虚偽の報告をしまくります。金で釣るとかえって上手くいかないもんですよね。
日本側が偽情報を流したという説もありますが、おそらくそのせいで余計に報告が増えて、あっちもこっちも敵船だらけに思えたのでしょう。

 

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「霧の中で怪しい船影を見つけた」→「戦闘配置につけ!」

そんなわけで、出港早々にバルチック艦隊はノイローゼ気味になっていたようです。

その間にも船は進み、イギリスが制海権を持つ北海にさしかかりました。
北”極”海と紛らわしいですが、北海はイギリスとデンマークの間にある海のことです。油田があったり魚がよく捕れたりと、寒冷なヨーロッパ北部において、恵みの海ともいえる存在です。
そしてこの真ん中あたりにあるのが、この事件の舞台となったドッガーバンクという海域でした。

赤で囲まれたのがドッガーバンク海域/wikipediaより引用

赤で囲まれたのがドッガーバンク海域/wikipediaより引用

 

10月21日の夕方、ドッガーバンクにさしかかったバルチック艦隊の旗艦に、物騒な報告が入ります。
先行する船が「霧の中で怪しい船影を見つけた」というのです。
この先行していた船というのが工作船というタイプのもので、戦闘能力があまりない船でした。だからこそさらに過敏な反応をしたのでしょう。

そして22日に日付が変わった頃、突如「戦闘配置につけ!」という命令が出され、バルチック艦隊はパニックに陥りながら砲を乱射しました。
中には自ら近寄ってくる船もあり、余計に砲撃手が混乱したとか。

そして見事「敵」を撃沈したのですが……実は、これらの船はイギリスの民間漁船だったのです。

 

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イギリス漁船のうち一隻が沈没し、使者3名、負傷者6名

前述の通り、ドッガーバンクはタラやニシンなど、ヨーロッパでよく食べられている魚が豊富な漁場です。イギリスからも毎日40~50隻の漁船が出ていました。
19世紀にスコットランドで「オッター・トロール」という船が開発されてからは、漁獲量が急激に増えすぎて魚の値下がりが半端なかったそうですが……だから過供給はダメなんだって。

おそらくはこの事件のときの漁師たちも、そうした葛藤の中で漁に出たことでしょう。
生存者の証言では、「いきなり発砲されたので、私たちは漁船であることを伝えようと、カレイやタラを相手の船に向かって見せた」とか。
しかし、夜+霧という悪条件の中、大混乱で戦闘態勢に入ってしまったバルチック艦隊には通じませんでした。

こうしてイギリス漁船のうち一隻が沈没、死者3人(うち1人は半年後に死亡)と負傷者6人という被害が出ます。

ちなみにバルチック艦隊は同士討ち状態にもなっていました。
味方の船を損傷させた他、従軍司祭が片腕を吹っ飛ばされて後日亡くなり、負傷者も出ています。踏んだり蹴ったり。

「自軍の混乱でかえって事態が悪化した」という例だと、日本史では富士川の戦(わな)いが有名ですかね。
時系列的なことを別として、もしも平家軍がドッガーバンク事件を知ったら、「俺らのほうが味方に攻撃してない分マシだな」と思うでしょう。遊女が馬に踏み潰されたという記録もありますが。

 

お祝いムードの英国は怒髪天を衝くレベルで激高す

さて、命からがら逃げた漁船が半旗を掲げてイギリスの港へ帰ると、事件を知った人々が駆けつけて大騒ぎになりました。

さらに悪いことに、この日はイギリス人にとって特別な日。これより約100年前、トラファルガーの海戦でホレーショ・ネルソンがナポレオン軍に勝利を収めた記念日だったのです。
本来ならお祝いムードでいっぱいになるはずの日に、通りすがりかつ勘違いで身内が殺されたのでは、怒髪天を衝くレベルに激高するのも当たり前のことでした。

事は直ちにロンドンにも伝わり、今日観光名所としても有名なトラファルガー広場で、ロシアに対する抗議デモが行われます。
イギリスの新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」などなどボロクソに罵り、ときのイギリス国王・エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件」と評するほどでした。

しかも、事故なら事故で、バルチック艦隊は誠意を示すために被害者の救助をしなければならなかったのに、そのまま逃げてしまったことも火に油を注ぎました。

一方、日本の対応は素早いものでした。
駐英日本公使・林董が直ちに「この件に日本は全く関与していない」という声明を出しています。
また、どういう経路で連絡がついたものか、被害者の葬儀の日に、東京市長・尾崎行雄が弔電を送っていました。

 

逃げる奴は敵だ、逃げないやつはよく訓練された敵だ

イギリス海軍はその後、スペイン北部にあるビーゴという港までバルチック艦隊を追尾しています。
さらに、スペイン政府に対して「バルチック艦隊に石炭や真水の供給を行うなら、敵とみなす」と通告しました。
スペインはアルマダの海戦の他にも、イギリス海軍に煮え湯を飲まされていますので、「イギリス……海軍……うっ、頭が……」状態だったでしょうね。ヨーロッパって数百年単位でトラウマ覚えてますし。

イギリスの厳しい対応ぶりに、バルチック艦隊側もいよいよヤバイと思ったらしく、ビーゴから「勘違いで撃沈しましたスイマセン。犠牲者に心から哀悼の意を表します」(意訳)と謝罪を送りました。
これでイギリスの世論は一応収まりましたが、もう少し影響が残ります。

その年のうちに、パリでこの事件に対する国際審査委員会が開かれました。
そこでバルチック艦隊所属の船が「ドッガーバンク事件の前にも他国の船に発砲していた」ことがわかります。つまり「逃げる奴は敵だ、逃げないやつはよく訓練された敵だ」状態だったわけです。

当然ドッガーバンク事件と合わせて大問題になり、ロシア政府はイギリスに対して賠償金と代わりの船を出すことになりました。

オメーらに補給する無煙炭はねぇ!

こうしてドッガーバンク事件は公的には早めに解決したのですが、余波はしばらく続きます。
元々イギリスは日英同盟に基づき、情報戦などで日本を援護していました。それに加えて、イギリス本土も植民地も「あんなことをしたバルチック艦隊には補給なんてさせない!」という機運が高まったのです。
その結果、イギリスの手にあるほとんどの港がバルチック艦隊の入港を拒否するようになりました。

後世のバトル・オブ・ブリテンなどにも見られる特徴ですが、いざというときのイギリス人の団結と手段の選ばなさは半端じゃないですよね。日頃の料理のマズさは他国を油断させるためなんじゃないかとさえ思えます。割とマジで。
ブレグジットは……うん(´・ω・`)

特に、当時船を動かす燃料だった無煙炭(質が良く煙が出にくい石炭)を補給できないことは、バルチック艦隊の足を大いに遅くしました。当時無煙炭の供給はイギリスが握っており、イギリスの協力なしには得られないものだったのです。
さらに、入港できないことにより船底にも貝がつきまくり、航行速度は落ちる一方。

港に入れないということは、当然食料の供給や停泊期間による乗組員の休息も激減するわけで、戦意も戦力もガタ落ち。もしもドッガーバンク事件がなかったら、かの有名な東郷ターンも、史実ほどはキマらなかったかもしれません。

その場合、日本はロシアを相手にかなりの長丁場を強いられ、補給や資金不足で負けていた可能性も否めないでしょう。日本にとって天与の機会だったとみるべきか、イギリスがここぞとばかりに協力体制を強めたからとみるべきか迷うところです。

ドッガーバンク事件と日露戦争の経過を絡めてみると、「戦争が外交に大きく左右される時代になった」、ということがよくわかるのではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:ドッガーバンク事件/wikipedia

 





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