大奥といえば女同士のドロドロ――。
そんな争いが連想されたり、男たちが立ち入れない神聖不可侵の領域のようなイメージがあります。
しかし実際には、時代ごとに割と大きな変化があり、大奥の職制や費用など、組織に関する点が大きく影響しておりました。
例えば慶安4年(1651年)4月24日は、三代将軍・徳川家光の死去に伴い、大奥で大規模な人員整理も行われています。
てなわけで今回は、大奥の女性でトップとなる将軍の正室「御台所(みだいどころ)」を15代すべてまとめました。
代々の将軍によって、御台所の扱いはかなり違いがあったのを確認してまいりましょう。
初代:家康の場合
徳川家康は幕府を作った時点で正室がおりません。
混乱の時代なんで仕方ないですね。
それを踏まえて最初の奥さんは築山殿となります。

築山殿/wikipediaより引用
今川家にゆかりの深いお姫様で、大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも『どうする家康』でも重要なポジションでした。
しかし、長男・松平信康と長女・亀姫を産み、その後、悲劇に見舞われます。
通説では信長の命令で信康が自害し、築山殿も亡くなるのです(現在は松平信康派と徳川家康派に分かれての権力争いだったという見方が大勢のようですね)。
家康は、その後も天下人を目指し、なんだかんだで20人以上の後妻や側室を持っています。
下記に別記事でマトメておりますのでよろしければご覧ください。
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20人以上もいた徳川家康の妻・側室ってどんなメンツだったのか
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二代:秀忠の場合
御台所はお江与の方です。
お江ともいわれる、浅井三姉妹の一人ですね。

お江(崇源院)/wikipediaより引用
三度目の結婚だったこともあり、実家がなく後ろ盾がいない――そんな負い目もあり一番追い詰められた状態だったのがお江与の方です。
徳川秀忠は恐妻家だったといわれています。
が、お江与の方が推していた次男・徳川忠長ではなく、最終的に長男である家光を将軍にしたあたり、実際はそうでもなかった感じがしますね。
なお、秀忠は正式な側室も持っていません。

徳川秀忠/wikipediaより引用
三代:家光の場合
御台所は、鷹司孝子(たかつかさ たかこ)。
公家の鷹司家の出身ですから、文字通りのお姫様でした。
しかし、この夫婦はおそらく徳川将軍家どころか、武家全体を見ても屈指の仲の悪さだったと思われます。
なにせ、一度大奥に入ったのに、徳川家光によって西の丸に追い出されているのです。

徳川家光/wikipediaより引用
その後は御台所の呼び名すら取り上げられ、「中の丸殿」と呼ばれました。
二人の仲が険悪だった理由はハッキリしていません。
が、孝子と結婚した頃の家光はまだ20歳で、衆道の気が抜けていなかったと思われる頃合い。
そもそも大奥自体が、家光の女嫌いを改善するために作られたものだといわれていますので、その前から近辺にいたであろう孝子に、家光が興味を示さなかったのも頷けます。
せめて西の丸で、女中たちとのびのび暮らせていたらいいのですが……。
四代:家綱の場合
伏見宮貞清親王の第三王女・顕子女王(あきこじょおう)が御台所です。
17歳で輿入れし、19歳のときに大奥へ移りました。
が、37歳で亡くなるまでの間、ほとんど逸話がありません。
徳川家綱は絵画や文学を好み、下々の者への思いやりもある人だったと思われる逸話が多いので、顕子女王を冷遇していた……というのも考えにくい気がします。

徳川家綱/wikipediaより引用
ただ、側室との間には子供ができたことがあります。
俗説として「皇族や公家出身の御台所は、子供ができても堕胎させられていた」なんて話がありますが、三代・四代ともに御台所が懐妊しなかったので、そんな噂ができたのかもしれません。
五代:綱吉の場合
鷹司家の姫・信子が御台所です。
三代・家光の御台所だった孝子の姪孫(てっそん・大叔母の逆)にあたります。
徳川綱吉との夫婦仲については意見が分かれています。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
他の側室に嫉妬し、綱吉の寵愛を自分の派閥の女性にひきつけるため、いろいろやったなんてことも言われてますね。
また、綱吉が亡くなって一ヶ月後に信子自身も亡くなったため、「綱吉は信子に暗殺された」という噂も立ちました。
そのためか、創作物では「綱吉を愛していたからこそ行き過ぎた行動に出た」という表現をされていることが多いです。
六代:家宣の場合
徳川家宣が「甲府宰相」と呼ばれていた=将軍になる前からの正室・近衛熙子(ひろこ)が御台所になりました。
若い頃に一男一女を授かりましたが、二人とも夭折。
さらに夫が将軍になってからは側室を何人も迎えたため、大奥ではあまり良い扱いではなかったようです。

徳川家宣/wikipediaより引用
ライバルとなる側室・お喜世の方(月光院)の息子で七代将軍となった徳川家継が幼くして亡くなり、さらに八代・徳川吉宗が将軍になってから正室を迎えなかったため、実質的な大奥の主として長く君臨することになります。
それが幸せだったかどうかはわかりませんが、ずっと肩身の狭い思いをするよりはマシでしょうか。
なお、蛇足ですが、明智 光秀の正室も熙子(ひろこ)と言います。
七代:家継の場合
霊元法皇の第十三皇女・吉子内親王が御台所になるはずでした。
というのも、徳川家継自身が婚約中に亡くなってしまったため、結婚自体が成立しなかったのです。

徳川家継/wikipediaより引用
当時、吉子内親王はまだ2歳にもなっていなかったため、「本人の記憶が無いところで未亡人になっていた」という笑えない事態となります。
まぁ内親王は、慣例的に未婚を通すのが当たり前だったので、あまり支障はなかったかもしれませんが。
八代:吉宗の場合
実は、御台所が存在しません。
というのも、紀州藩主時代には正室・理子女王(まさこじょおう・伏見宮貞致親王の娘)がいたのですが、徳川吉宗が将軍になる前に、出産時のトラブルで亡くなってしまったのです。
その後、吉宗は正室や御台所を迎えませんでした。

徳川吉宗/wikipediaより引用
性格的に「公家や皇室から迎えると面倒だし、大名家から迎えてもそれはそれで金がかかる。じゃあ側室だけでよくね?」と考えていたのかもしれません。
吉宗と理子女王が夫婦だった期間はたった四年程度。
不幸な結果になったとはいえ、その短さで子供ができたことがあるのですから、そこそこ以上の愛なり情なりがあったと思いたいところです。
九代:家重の場合
伏見宮邦永親王の四女・増子女王(ますこじょおう)が御台所でした。
理子女王とは叔母・姪の関係です。
夫婦仲は良好だったようで、結婚の翌年に徳川家重と隅田川で船遊びをしたり、三年目には子供を授かっています。しかし、早産とその後の経過が悪く、23歳の若さで亡くなってしまいました。
奇しくも、家重は父と同じような経緯で妻を亡くしたことになりますね。

徳川家重/wikipediaより引用
また、家重も父と同様に、その後は御台所を迎えていません。
家重の場合、身体に障害を持っていて幕臣や庶民もナメられていたフシがありますので、尊い身分でありながらもきちんと接してくれたと思しき増子女王には、かなりの思い入れがあったのではないでしょうか。
側室も二人と少なめです。
十代:家治の場合
閑院宮直仁親王の六女・倫子女王(ともこじょおう)が御台所です。
徳川家治は徳川将軍家の中ではかなりの愛妻家で、倫子女王との間に二人の娘をもうけました。

徳川家治/wikipediaより引用
残念ながら二人とも夭折し、男子を授かることはありませんでしたが、家治は側室から生まれた男子を倫子女王の養子として育てさせています。
これで生母でなくとも、倫子女王の御台所としての格を保ち、次の将軍の代になっても困ることがないように計らったのでしょうね。
十一代:家斉の場合
近衛寔子(ただこ)こと、薩摩藩八代当主である島津重豪の娘・茂姫(しげひめ)が御台所です。
結婚から15年ほどして、敦之助という男子を授かりました。御台所の出産自体も珍しい上、男子となると家光を産んだのは、お江与の方以来の快挙です。

茂姫(広大院)/wikipediaより引用
しかし、既に世継ぎが決まっていたために、敦之助は清水徳川家の養子に入り、さらに幼くして亡くなってしまっています。
その後も一度懐妊したことがありますが、このときは流産という残念な結果になりました。
徳川家斉は、一説には側室40人以上、子供55人という、凄まじい展開になっておりますが、ほとんどを茂姫の養子という扱いにしておりました。

徳川家斉/wikipediaより引用
こうすることで茂姫の地位を保てますし、他の家へ養子や嫁入りさせるときにも箔が付きます。
ついでにいえば、茂姫の地位が絶対的になることで、御台所vs側室という無用な争いを避けることができました。
家斉がどこまで意識していたのかはわかりませんが、少なくとも茂姫への愛情があったからこそ、過剰なほどに養子扱いにしたのでしょう。
通常であれば、次期将軍になるであろう男子だけを御台所の養子にすれば済む話ですから。
十二代:家慶の場合
有栖川宮織仁親王の六女・喬子女王(たかこじょおう)が御台所です。
8歳で江戸にやってきて、15歳のとき正式に結婚。それから6年間で一男二女に恵まれましたが、三人とも夭折しています。
家斉が50年間も将軍職にあったので、徳川家慶が将軍になったのも遅く、喬子女王が御台所と呼ばれたのはほんの数年でした。

徳川家慶/Wikipediaより引用
将軍家の妻としては愛されたほうでしょう。
吉宗以前の御台所が皆不憫すぎて、そう思えるというのもありますが。
十三代:家定の場合
幕末モノの大河ドラマでよく触れられていますように徳川家定には三人の正室がいました。

徳川家定/wikipediaより引用
将軍になる前に二人、将軍になってから一人です。
最初は鷹司任子(あつこ)を正室に迎えたものの、若くして痘瘡により亡くなっています。次は一条秀子を迎え、結婚から半年で亡くなってしまいました。
そこで「公家の姫は体が弱いから、武家の姫が良い」ということで白羽の矢が立ったのが、既に将軍家に正室を送ったことのある島津家です。
そしてちょうど年頃の合う姫ということで、島津家の分家から本家島津斉彬の養女となった篤姫が選ばれました。

篤姫/wikipediaより引用
家定の死去により、結婚生活は2年にも満たない短きものながら、その後の篤姫の行動から察する、彼女が御台所としてのプライドを強く持っていたことはわかります。
それが家定への愛情からくるものなのか。島津家で受けた教育によるものなのか。
本人のみぞ知るところです。
十四代:家茂の場合
これまた有名な、和宮親子内親王が御台所です。

和宮親子内親王/wikipediaより引用
ときの情勢による完全な政略結婚でしたが、同い年だったこと、徳川家茂が和宮を重んじ、たびたび贈り物をするなど努力したことで、仲の良い夫婦になったといわれていますね。
残念ながら、やはり家茂が病弱だったために早く亡くなってしまい、夫婦だったのは4年程度と短いものでした。

徳川家茂/wikipediaより引用
十五代:慶喜の場合
一条美賀子(美賀君)が正室です。
ただし、御台所と呼ぶべきかどうかはビミョーなところ。徳川慶喜も美賀子も、一度も大奥に入っていないのです。
慶喜が将軍になる前に娘を産んだことがありましたが、その後は幕末のドタバタのせいで同居すらできず仕舞い。
再び一緒に住めるようになったのは明治二年(1869年)のことでした。
ただし、その後も慶喜は側室から生まれた子供も美賀子所生扱いにしているので、正室を一定以上敬う気持ちはあったと思われます。
美賀子自身が妊娠することはありませんでしたが、彼女は公家の姫の例に漏れず、体が弱いほうでした。
もともと子供ができにくかったような気もします。
★
大雑把に分けると、
・七代以前の御台所は不遇をかこった者が多く
・八代以降は比較的敬意を払われていた
という感じでしょうか。
戦国期以前の女性についてほとんど記録がなかったことと比べると、さすが江戸時代は比較的平穏だっただけに各女性の個性も見えてきますね。
個々について掘り下げたい場合は関連書籍などもございますので併せてご覧いただければ。
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【参考】
山本博文『面白いほどわかる大奥のすべて―江戸城の女性たちは、どのような人生を送っていたのか』(→amazon)
山本博文『大奥学事始め―女のネットワークと力』(→amazon)




