慶安4年(1651年)7月26日は、軍学者の由比正雪が自刃した日です。
名前を聞いた瞬間、別の言葉で思い出す方も少なくないでしょう。
ご存知、由井正雪の乱の首謀者ですが、一体なにがどうして乱などを起こしたのか?
その経緯を見てまいりましょう。
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江戸で軍学塾 一時は3,000人もの門下生
正雪の出自には諸説あり、ハッキリしていません。
17歳のとき江戸の親戚の家で働き始めたといわれているので、一般庶民であったことは間違いなさそうです。
軍学者の楠木正辰という人物に弟子入りし、才能を見込まれて正辰の娘と結婚して婿入り。神田で自分の軍学塾を開きます。
教え方がうまかったのか。一時は3,000人もの門下生がいたとかで、中には大名家の家臣や、幕府に仕える旗本もいたといいます。
おそらくは、関が原の戦いや大坂の役で職を失った浪人たちも多かったでしょう。
いつの時代も、クビにされれば腹が立つものです。
現代でも、いきなりリストラされて「はい、では次の職探します」となる人はそう多くないですよね。
正雪の周辺でも「俺をクビにした幕府が憎い!」と考える者が多くいました。
また、世間的にも盗賊や追い剥ぎで食いつないでいる浪人も多かった時代です。
幕府や大名の「ウチで仕事しない?」という誘いを断ったもある正雪は、そうした不満を持つ浪人たちに支持されるようになりました。
徳川4代将軍・家綱の代で不満爆発!
正雪が出仕を拒んだ理由は不明です。
窮屈な武家勤めよりも市井で教えるほうが性に合うと思っていたんですかね。
身分の低い者がいきなり由緒ある組織に入ると、何かとやっかみを買うものですし。
そんな慶安四年(1651年)、三代将軍・徳川家光が亡くなり、10歳の徳川家綱が四代将軍となりますと事態はにわかに動き始めました。
ただでさえ幕府に不満を持つ浪人たちは「そんな子供がトップになれるような組織に、俺達は苦しめられているのか!」と激怒。
正雪もノセられてしまい「この機に幕府をぶっ潰して、浪人たちに新しい仕事を作ってやろう」と考えました。
四代将軍・徳川家綱を地味将軍と言うなかれ 実は好感度エピソード満載な人だった
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家綱が病弱だったことも、火に油を注ぐ事実のひとつでした。
しかし、その計画は、軍学者とは思えない杜撰なものだったのです。
愉快な仲間たちとのダイナミック討幕計画
正雪たちの計画は、だいたいこんな感じのものです。
【プランA】
幕府の火薬庫+αに放火
↓
江戸城に放火
↓
江戸城にやってくる幕閣や旗本を鉄砲でスナイプ無双
↓
家綱を誘拐
【プランB】
京都と大坂で騒動を起こす
↓
天皇を誘拐
↓
高野山か吉野で討幕の勅命をもらう
↓
全国の浪人が味方してくれる(はず)
↓
プランA・Bが両方成功すれば 大 勝 利 !
「蜂起すれば、後は自然に成功するでしょ♪」というような行き当たりばったりの計画ですね。
希望的観測な部分が多すぎるというか。
大奥なり幕閣なりの屋敷に間諜(工作員)を潜ませて内部から崩すくらいの長期的視野は持つべきだったと思うのですが……。
そもそも「トップが幼かったり、病弱だったりしても、周囲の重鎮がしっかりしてればうまくいく」例はいくつもあります。
なぜ学者の正雪がそこに全く気付かなかったのか?
謎が多すぎる。いずれにせよ……。
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