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【由比正雪の乱】
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現代の我々から見てもガバガバな計画
当時の天皇は後光明天皇でした。
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江戸幕府を相手に一歩も引かず!後光明天皇の豪快痛快エピソード
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詳しくは上記の過去記事に譲りますが、皇室では珍しく、自ら武道を嗜んでいたという方です。
絶対に大人しく誘拐されないというか、もし御所に踏み込んだとしても、足利義輝の最期みたいになりそうで……。
正雪たちは後光明天皇の人となりを知らなかったんでしょうか。
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刀を握ったまま敵勢に斃される壮絶な最期! 足利義輝13代将軍 30年の生涯とは
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そんな感じで、現代の我々から見てもガバガバな計画で、オチもまた「何だかなあ」というものでした。
正雪の門下生の中に幕府からの隠密が混ざっており、計画は事前にあっさりバレ、プランA担当だった正雪の同志・槍術師範の丸橋忠弥がとっ捕まります。
プランB担当の正雪は既に京都へ向かっていたのですが、途中、駿府の宿で包囲され、自決しました。
大坂の担当者も自害し、忠弥は磔刑に処されて計画は失敗に終わっています。
浪人が味方になってくれると思っていた割に、正雪が囲まれたときに誰も助けに来なかったあたり、たとえ駿府で逃げ切れたとしても京都で捕まったでしょう。
幕府の方針変更で結果的には……
その後、正雪の遺品から紀州藩初代・徳川頼宣からとされる書状が見つかったため、一時「将軍の親戚が謀反!?」と騒動になりました。
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家康十男・徳川頼宣が豪気!紀州藩祖は謀反疑惑も笑って「めでたい」
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偽物であると判断され、大きな処分にはなっていませんが、頼宣はこれ以降、実質的に幕政に関わることはできなくなっています。
幕閣にも警戒され、紀州藩には、幕府の隠密が多数放たれていたとか。
また、翌年にも似たような事件が起きており、幕府は「これ以上浪人を増やすのはマズイ」と判断したのか。
このころから文治政治に路線を変えていきます。
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文治政治と武断政治にはどんな違いがある?幕府はなぜ政治体制を切り替えた?
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具体的には、
「家光時代まで頻繁に行われていた大名の改易を控える」
「末期養子(大名が死ぬギリギリに養子を迎えること)を認める」
などの緩和策によって、浪人の増加を防ぎ、治安を安定させようとしました。
皮肉にも、結果として正雪らの目的は達成されたことになります。
正雪が幕府に仕えて、信頼を得たところで「私の門下にも、改易に遭って生活に困っている者がたくさんいます。何か仕事を与えてやってもらえませんか」とでも持ちかければ、死人は出なかったんじゃないですかね……。
まったくもって手段と目的が入れ替わると恐ろしいものです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
由井正雪/Wikipedia
慶安の変/Wikipedia