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本居宣長/wikipediaより引用




その日、歴史が動いた 江戸時代

国学者・本居宣長さんは何がスゴイ? 医学をやり文学やりつつ「古事記伝」を完成す

更新日:

日本史の代表的学者・本居宣長

毎度突然の質問で恐れ入りますが、皆様は几帳面なタイプでしょうか?
あまりに厳密だと本人も周りもなかなか大変ながら、ある程度はそういう面がないと困ることも多いですよね。両刃の剣ともいえましょうか。
今回は、自前の几帳面さを活かして歴史に名を残した……かもしれない、とある学者さんのお話です。

享保十五年(1730年)5月7日は、国学者の本居宣長が誕生した日です。

日本史の授業でもおなじみですし、著作の「古事記伝」と共に太字になっていたり、先生に赤ペンで線を引かされたりした方も多いでしょう。
今回はこの人の一生を追いかけてみたいと思います。

古事記伝表紙/国立国会図書館蔵

 

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父親は「水分神の申し子」と信じていた

宣長は、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の木綿仲買商の家に生まれました。

彼が生まれる前、父親は男子の誕生を願って、大和国吉野の水分神(みくまりのかみ)に祈願したのだそうです。
水分神は書いて字のごとく、雨や田んぼと結び付けられる神様。それがいつからか「みくまり」が「みこもり」となまり、さらに「御子守」と漢字があてられ、子供の守護神・安産・子宝の神ともみなされるようになったのだとか。
……いきなり全く違う仕事をさせられる神様も大変ですよね。日本人も日本の神様もアバウトですのぅ。

と、そのうちに宣長が生まれたので、父親は大喜び。息子のことを「水分神の申し子」と信じていたそうです。

宣長は8歳で寺子屋に通い始め、11歳のときに父親を亡くしています。しかし16歳のときには江戸の叔父の店に行っているので、生活に困ることはなかったのでしょう。

1年ほどで帰郷し、19歳のときには別の店の養子に入っています。
ここは気に沿わなかったらしく、三年で離縁して実家に戻ってきてしまいました。

一方で、この頃から積極的に和歌を詠み始めました。
実は、宣長の歌は、生涯で1万首にも及びます。
「技巧的ではない」という理由であまり文壇からの評価は高くありませんが、宣長は「自分の気持ちを素直に詠む」ことを重視していたので、おそらく気にしないでしょうね。

 

『日本人の心とはどのようなものでしょう?』と尋ねられたら

最も有名なのは、やはりこの歌でしょうか。

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花(やまさくらばな)
【意訳】「もしも人に『日本人の心とはどのようなものでしょう?』と尋ねられたら、私は『朝日に照らされてより一層美しく映る、山桜の花』と答えよう」

敷島とは日本の美称のひとつでもあり、「大和」にかかる枕詞でもあります。
また、山桜は宣長が最も愛した花でした。現代では友好の証などで外国に桜の木が送られることもありますが、それでも「桜=日本」というイメージが強いのは、この歌の影響も大きいと思われます。

おそらく、宣長は当初から「商売よりも学問をやっていたいなあ」と思っていたのでしょう。
兄が亡くなって家督を継がなければならなくなったとき、店を畳んでしまっています。
その後、母親と相談した上で、京都へ遊学しました。

この時代にいきなり家業を放り投げることを許してくれたカーチャンもすごい心の広さですが、トーチャンが生きてたら「神の申し子と思って期待してた子供が家業を継いでくれなかったでござる」と悲しんだでしょうね……。

ちなみに、カーチャンが遊学を許してくれたのは、「医学を学んで、医師として食べていく」という約束をしていたからだと思われます。カーチャンは最悪実家に帰れば生きていけますが、息子は何か技術を身に着けていないといけませんからね……。

 

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医学・儒学・関学・国学などなど

こうして京都に出た宣長は、医学・儒学・関学・国学などをいろいろな先生から学びました。

その中で一番興味を持ったのが、日本の古典文学です。特に源氏物語が気に入り、後に注釈書である「源氏物語玉の小櫛」や「源氏物語年紀考」を著しています。
京都の雰囲気や生活風景も、古典の世界への憧れを強めることになったのかもしれませんね。

一通り学を修めた宣長は、28歳のとき地元・松坂に帰り、診療所を開いて生計を立てることにします。
昼間は医師として人々を診察し、夜は源氏物語の講義をしたり、日本書紀を研究したり……。
そんな生活を続け、60代に入ってからは腕を買われて紀州藩に仕えたこともあったのですが、宣長自身は「医師は男子本懐の仕事ではない」と考えていたそうです。
あくまで食い扶持を稼ぐためにやっていたということなのでしょう。

ただ、その割には診療記録もしっかりつけています。
また、小児科も得意としており、「乳児の病気の原因は母親ではないか」と考え、母親の診察もしていたとか。
現代医学でも、母親の栄養状態やメンタルは子供の成長に影響するといわれているから、あながち間違いでもないですよね。

そういった優れた観察眼を持ち、真面目に仕事をしていた割に、医師としての仕事を重く考えていないというのは実に不思議ですが……。
「文学の研究>>>(越えられない壁)>>>医学>>>商売」みたいな価値観だったんですかね。

 

「古事記伝」を完成させたのは実に69歳のとき

話が前後しますが、27歳とき、宣長は賀茂真淵の著作に感銘を受け、文通で指導を仰いでいます。
この関係は長く続き、真淵が伊勢神宮参拝のために松坂までやってきたとき、宣長は会いに行って弟子入りを頼んでいます。

翌年の年明けから正式に弟子入りし、「まずは万葉集の注釈から始めなさい」と指導を受けました。古典で用いられる万葉仮名を習得するためです。

宣長はその通りに万葉仮名を学び、古事記の研究も始めました。
医師と文学者を兼ねるのもなかなか大変そうですが、宣長の場合、さらに弟子に講義をしているのがスゴイところです。

しかも、60歳のときには美濃・名古屋・京都・大坂・和歌山を旅して、弟子を激励したり、出会った人と積極的に交流しています。元気やなぁ。

彼の代表的な著作の一つである「古事記伝」が完成したのも、69歳のときですから、心身ともにしっかりした人だったんでしょうね。
ちなみに、書き始めてから34年もの月日が経っていました。

古事記伝/国立国会図書館蔵

「古事記伝」の一部分を、本居宣長記念館のホームページで見ることができるのですが、漢文にフリガナがつけられているので、現代人でも理解しやすくなっています。
これを歴史なり国語の授業で扱えば、古文と神話の勉強が同時にできてすごく効率がいい気がするのですが……そういうのってダメなんですかね。

70歳のときには、古事記や風土記に出てくる地名の転記例をまとめた「地名字音転用例」を刊行しています。亡くなる前の年のことです。
これも、とんでもない根気と正確性が求められる作業ですよね。診察スタンスといい、宣長のそういった性質が、医師・文学者・教師という三つの仕事を成し遂げるベースになったのでしょうか。

そういえば、松阪の町を発展させた蒲生氏郷も、いろいろと細かなことに気のつく性格でした。お国柄というか、土地柄なんですかね。
……ちなみに、宣長の遺言書も非常に几帳面なものでした。

相続の話が書いてあるのはともかく、供養の方法やお墓のデザインまで支持しているのです。
藤堂高虎の二百か条(200条だけとは言っていない)を思い出させる細かさ。
これを読んで困るか助かるかは、読み手の感性によりますかね。

長月 七紀・記

参考:本居宣長/wikipedia 本居宣長記念館 やまとうた




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