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北条時頼/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

鎌倉幕府の五代執権・北条時頼 元寇を迎え撃った息子の時宗とは、似た者親子だった!?

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世襲というと負のイメージが強い反面、メリットもいくつかあります。
伝統や文化、人脈などを受け継ぎやすいことがその最たる例ですが、もう一つ「次代=子供たちのための下準備をしやすい」ということも見逃せません。我々庶民だって、「子供のためにできるだけ財産を残しておきたい」と思いますものね。
これがお偉いさんたちの世界となると、代替わり=他者に付け込まれやすいタイミングになりますから、前々からの準備が大切になってきます。……まあ、中にはそういう視点がなく、親子兄弟で相争うケースもありますけれども。
今回はおおむねうまく行った……と思われる、あの時代のお偉いさんのお話です。

安貞元年(1227年)5月14日は、鎌倉幕府五代執権となる北条時頼が誕生した日です。

彼自身の知名度はさほど高くありませんが、元寇でお馴染み、八代執権・時宗などのトーチャンです。時頼と時宗の行動を比べてみると、何となく「ああ、親子なんだな」ということがうかがえる気がします。

 

祖父は御成敗式目で知られる泰時 そんなジーチャンに育てられ

時頼は、早いうちに実父・時氏と死別したため、祖父・泰時に育てられました。
「幼い頃から頭が良く、将来を期待されていた」という、よくある話がくっついています。武家で「ジーちゃんに育てられました」となると、だいたいそんな感じのいわくがつきますよね。

11歳で元服して、ときの将軍である藤原頼経から「頼」の字をもらいました。……しかし、北条氏の通字である「時」が上に来ているあたりに、そこはかとなくナメてる雰囲気が漂いますね。
この年に兄で四代執権の経時の命で、流鏑馬を披露していたりもします。現代でも続いている行事ですが、この年頃の子供ができるもんなのか……まぁ、小5だったらイケますかね? もちろん体格や技量にもよるかと思いますが。

経時は時頼より3歳上ですので、このときは14歳。
まだまだ若い……というか幼いという年頃で、この頃からたびたび病気で倒れたり寝込んだりすることが増えてきていたようです。
時頼は18歳になったあたりから、経時の代役として政務に関わるようになったので、その下準備として「ウチの弟はよくできたやつだから、俺の次はこいつが執権でいいよね!」というアピールをしようとしていたのかもしれません。

 

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北条氏は早死が多すぎ……経時も若くして死ぬ

そして時頼19歳のときいよいよ経時が危篤になり、北条氏を含めた重臣たちの会議により、時頼が次の執権となりました。
経時にも息子が二人いたため、「時頼が無理やり譲らせたのでは?」という説もあるようですが、息子たちはまだ幼児だったので、どちらにしろ時頼が一時期あるいはそれ以上の間、執権を務めることになっていたでしょうね。

間もなく経時は出家し、病死。
北条氏で執権に就いた人物のほとんどが若くして亡くなっていることは有名ですが、「執権が激務だったから」というだけでは済まない気がしますね。当時の寿命や家系的なものもあるにしても、北条氏は早死にが多すぎます。
源氏将軍三代に仕えた大江広元(毛利元就の遠い祖先)が77歳まで長生きしていることからして、やっぱり生活習慣によるものでしょうか。食生活とか。

閑話休題。
こうして執権になった時頼に対し、重臣の中には反感を持つ者も少なくありませんでした。もうあるある過ぎてツッコむ気にもなれない(ボソッ)。

反時頼派は前将軍・藤原頼経を担ぎ上げ、一時は兵を動かすまでの勢力になります。一方、時頼はコレを好機と見て鎮圧し、藤原頼経を京都に強制送還するのです。解決(物理)というやつですね。

他の武士でも反発の兆しがある者は滅ぼしました。これが執権になって1・2年の間のことで、しかも本人はまだ20歳そこそこの若者なのですから、末恐ろしい話です。

 

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御家人や庶民に対しては慰撫政策を実行する気遣いの人だった!?

こうした一連の動きにより、強まった北条氏の独裁色。
大叔父で六波羅探題を務めていた北条重時を連署(執権の補佐役・鎌倉幕府のナンバー3)に任ずると、ほどなくして時頼は、重時の娘・葛西殿と結婚します。

そして葛西殿との間に生まれたのが時宗でした。

正室から男子が生まれたことで、時頼は次世代以降のことも考え始めたと思われます。

時宗が生まれた翌年、建長四年(1252年)には第五代将軍・藤原頼嗣を京都に追い返し、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を迎えました。いわゆる「宮将軍」です。
宗尊親王は母の身分が低かったため、後嵯峨天皇も将来を危うんでおり、割とスムーズに話が進んだようです。

時頼は、御家人や庶民への慰撫政策も取っています。
自らの権力を保つためという目的が大きかったでしょうが、独裁者としてはマシなほうですね。

また、長庶子・時輔が元服する年に出家の準備を進めています。
その後、麻疹や赤痢にかかっているのがなんとも出来過ぎというかなんというか……まあ吾妻鏡ですし。

しかし次男で嫡子(正室の子供の中で長男)の時宗がまだ年齢一ケタだったため、義兄(葛西殿の兄)の北条長時に執権職を譲りました。あくまで建前であり、まだ実権は手放しませんでしたけれども。
時代が前後しますが、徳川家康が元気なうちに秀忠に将軍職を譲ったのと同じと考えればわかりやすいですかね。

 

「阿弥陀如来像の前で袈裟を着て、座禅を組んだ状態で息を引き取った」

康元二年(1257年)、6歳の時宗を元服させると、時頼は、正室生まれと側室生まれの順序をハッキリさせました。
自分が執権になったときゴタゴタしたので、目の黒いうちになんとかしておこうと考えたのでしょう。

こうしてしっかり次代の地固めをし続けた時頼でしたが、北条家の血筋(?)には勝てないというかなんというか……。
吾妻鑑に「弘長三年(1263年)11月8日に時頼が重病になった」と書かれており(このときまだ36歳)、同年11月22日に亡くなっております。

おそらく病気の兆候はこれ以前から出ていたのでしょう。時頼は、死期を悟ったかのように最明寺(現・神奈川県足柄上郡)に籠もるようになりました。そして看病をするわずかな家臣以外は見舞いを断り、静かに死に臨んだといわれています。
吾妻鏡によれば「阿弥陀如来像の前で袈裟を着て、座禅を組んだ状態で息を引き取った」とか。

画像はイメージです(建仁寺)

時頼は、強引だったり独裁的だった面も確かにありました。

が、いかにも武士らしい確固とした意志を持っていたからこそ、立派な死に様として描かれたのでしょう。結跏趺坐(仏僧が瞑想するときの姿勢)で亡くなったとされる武人は何人かいますから、本当に座禅を組んで亡くなったのかもしれませんが、この芯の強さや決断力は、元寇に際した頃の時宗の行動とも似通っている気がします。

歴史上においては珍しく「良い意味でよく似た親子だった」といえそうです。

長月 七紀・記

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参考:北条時頼/Wikipedia

 





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