北条時頼

北条時頼/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

北条時頼・五代目執権に訪れた難局~三浦一族を倒して北条体制を強化

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外祖父・安達景盛の強行突破!

幕府はそれらを「承久の乱で島流しになった後鳥羽上皇の怨霊が引き起こしたもの」として、鶴岡八幡宮の山嶺に怨霊を鎮める御霊社を作って収束させようとしました。

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とはいえ、そうは問屋が卸しません。

これを機に三浦氏を始末したがったのが、時頼の外祖父である安達景盛という御家人です。

景盛は幕府に対してとても忠実な御家人で、これまでの御家人粛清にもたびたび関わっていました。

また、安達氏は三浦氏にひけをとらない勢力を持っていたため、三浦氏が邪魔と感じられたようです。

結果、平和的解決に進みかけた流れがぶった切られてしまいました。

ちなみに景盛は、三代将軍・源実朝の死を悼んで出家し、高野山にこもっていたのですが、それでいて幕政には口を出していた……という、わけのわからん行動をとっています。

何のために高野山行ったんだ(´・ω・`)

ともかく景盛は行動に移します。

三浦氏を始末するため、時頼が完全に納得しきらないまま軍を出動。

安達軍は若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を強襲したとか。

強引な行動に、さすがの八幡神様もドン引きだったでしょう。

鶴岡八幡宮の西側には源頼朝を祀った神社があったそうですので、あの世で『この爺様、何してくれてんの!』と混乱していたのでは。

余談ですが、この頃あった頼朝の神社は明治時代に移転し、現在、白旗神社となっています。

豊臣秀吉が鎌倉に行った際、頼朝像の肩をポンと叩いて『ワシと貴方は天下友達よ』と言った」なんて逸話がありますが、このときの頼朝像は、おそらく安達軍が駆け抜けた頃と同じところにあったのでしょうね。

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「頼朝公にお詫びして兄弟共に死ぬしかない」

閑話休題。

こうなると北条時頼も、安達景盛に同意せざるを得ず、執権御所の警備と安達軍への増援を命じます。

三浦氏のほうでもタダでやられるわけにはいきませんから、周辺にいた一族はもちろん、所領である三浦半島方面からも続々と親類縁者が駆けつけました。

火種である三浦光村はなかなかの戦略家です。

鎌倉と北条氏の所領を分断するなどして善戦しましたが、元々戦意はなかった泰村が継戦を拒否。

「かくなる上は、頼朝公にお詫びして兄弟共に死ぬしかない」

そう光村を説得し、一族や三浦氏に味方した御家人たちと共に、頼朝の法華堂(お墓)へ向かいました。

位置としては、鶴岡八幡宮の裏手です。

そして、時頼の舅でもあり、このときは出家して僧形になっていた毛利季光が念仏を唱える中、泰村・光村は頼朝への謝罪を述べ、自刃しました。

集まった人々もそれぞれ後を追い、三浦氏は滅亡同然。

女系の人が生き残って後に続いているのですが、ちょっと血縁関係がややこしいので、また機会があればご紹介します。

 

越後に逃れた毛利氏から後の元就が輩出される

この一連の騒動を

【三浦氏の乱】

または

宝治合戦(ほうじかっせん)】

と言います。

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季光が三浦方についたため、毛利家もほとんど滅亡同然になりました

が、毛利季光の四男・経光(つねみつ)がたまたま越後に行っていたために生き残り、前述の通りその子孫から毛利元就に続いています。

他の系統としては、後に上杉謙信に仕えた北条(きたじょう)氏などがいます。

こういう細かいところを拾っていくのも、歴史の醍醐味ですね。

ちなみに、景盛自身はその後大往生し、孫の泰盛の代に【霜月騒動】という別のゴタゴタで安達氏も滅ぼされました。

諸行無常といえば平家物語ですけれども、鎌倉時代も相当なものです。

「宝治合戦は時頼と景盛による三浦氏だまし討ちだ」なんて説もあります。

時頼の他の政策・言動からすると、そこまで独裁者というわけでもなさそうです。

例えば、宝治合戦の二年後、建長元年(1249年)12月に、訴訟の公正迅速を目的として評定衆の下に【引付衆】を付設しています。

これによって、合議制が進展したということもできるわけです。

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