1817年7月14日は、アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタールが亡くなった日です。
通称「スタール夫人」という女性作家・批評家で、当時は珍しい女性の知識人でした。
高校で世界史を選択していた方でも「長ったらしい名前の割に、あまり印象に残ってないなぁ……」という印象かもしれません。
というか、歴史の教科書にはほとんど出てこないのですが、それではもったいない!
彼女はなかなか強烈なキャラクターで、ぶっ飛んだ行動を繰り返し、歴史を楽しくしてくれる人物の一人と言える。
中高生には教えづらい言動もしているので、そのせいで掲載されないのかもしれません。
ではスタール夫人とは一体どんな人物だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。

スタール夫人/wikipediaより引用
20歳で結婚するもスグに別居 文壇デビューを果たす
スタール夫人は1766年、スイスの政治家・財政家であるジャック・ネッケルの娘として、パリで生まれました。
父ネッケルは1777年にフランスの財務総監に任じられ、宮廷の財政を引き締めたことにより、民衆に絶大な人気を得ていた人です。

ジャック・ネッケル/wikipediaより引用
結果、貴族やマリー・アントワネットには憎まれましたが……この辺のことはスタール夫人とはあまり関係がないので割愛しますね。
「ブルジョワ層の出身である」ということだけご記憶ください。
幼いうちから父に連れられて哲学者や文学者のサロンに出入りしていったスタール夫人。
おそらくサロンで交わされていた男女論や結婚に関する価値観も、耳に残ったことでしょう。
20歳のときに、パリ駐在のスウェーデン大使・スタール=ホルシュタイン男爵と結婚しますが、2年で別居して、あまりうまく行っていなかったようです。

スタール=ホルシュタイン男爵/wikipediaより引用
当時のフランス貴族の常識である
「夫婦で出かけるのはみっともない」
「愛人がいて一人前」
といった状況が影響したのかもしれません。
別居とほぼ同時、22歳のときにスタール夫人は『ルソーの性格および著作についての手紙』を発表し、文壇デビューを果たしています。
彼女の知識や知恵について、夫が「女らしくない」と思ったのが不仲のきっかけだった……というのもありそうですね。
スタール夫人は夫を捨てたものの、その立場までは捨てませんでした。
フランス革命時は”外国大使の妻”という立場を活かし、処刑のターゲットになりそうな友人たちを救ったのです。
タレーラン(フランスの貴族・謀略が得意で外交術は評価が高い)などと親しくなり、愛人関係になった人もいたとか。
時代と文化が違うとはいえ、貞操観念……と言いたいところではありますが、彼女は革命に関しては穏健派でした。
そのため過激派から反感を買い、パリにいづらくなってしまいます。
政治活動に勤しむ一方「小説論」がゲーテに絶賛される
パリから離れたスタール夫人は、父の領地であるスイスのコペという町に亡命。
その後も度々パリに出入りしていたようなので、彼女なりの正義感や政治的理念を貫こうとしたのでしょう。
彼女は、革命によってフランスが「穏健で平和的な立憲君主主義」になることを目指していました。
色々な人と愛人関係となったのも、彼女にしてみれば、政治の世界に物申すため”女性である”ことを最大限に活用したというだけのことかもしれませんね。
もしも世代や立場が噛み合えば、ブルボン家に乗り込んでいって王や王妃を説得し、立憲君主制へのソフトランディングを主導した……かもしれません。
ルイ16世とマリー・アントワネットに立憲君主制を受け入れさせるのは大変そうですが。

ルイ16世とマリー・アントワネット/wikipediaより引用
スタール夫人は29歳のとき『小説論』でゲーテに絶賛され、文壇で再び注目されました。
名声が手に入れば、世の中に意見を言うのは造作も無いこと。
革命が次第に過激化していくことを憂いて、マリー・アントワネットの助命を主張したりもしていました。
「ナポレオンの入浴中に浴室へ押しかける」とは!?
33歳で正式に離婚してからは、いよいよ活発に動き始めたスタール夫人。
この頃はタレーランの愛人となっており、彼が政界に入るための窓口を果たしました。
人の実力を見抜く力を持っていた彼女が、次に目を留めたのがあのナポレオン・ボナパルトです。

皇帝時代のナポレオン/wikipediaより引用
しかし焦りすぎたのか、スタール夫人は「ナポレオンの入浴中に浴室へ押しかける」という強引過ぎる手段を取ったためドン引きされてしまいます。まぁ、そりゃそうやろ……と。
彼女いわく「二人の天才が結ばれればフランスの国益になる」だそうなのですが……他に手段は……?
ナポレオンは信仰心の厚い方ではありませんでしたが、一応、実家はカトリックですのでそうした価値観は残っていたでしょう。
ジョゼフィーヌにも「浮気はやめてよ泣」(超訳)と言っていたことがありますしね。
ちなみにスタール夫人は、この件よりも前にタレーランへ「ボナパルトは私より賢いでしょうか」と尋ね、こんな風な返答をもらっています。
「あなたほど厚かましくはないですね」
答えになってない上にずいぶん失礼な話ですが、なぜか彼女はこの発言の意味が理解できなかったようで。
そのうちナポレオンが全く自分を認めてくれないとわかると、スタール夫人は次第に反ナポレオン派になっていきます。いや、それって逆恨みでは……。
ナポレオンに追放され、反対運動で同志を募る
スタール夫人はその後の著作で、ナポレオンに対し、当てつけに近い記述を繰り返しました。
特に小説『デルフィーヌ』でカトリックの迷信性などを書いたため、ナポレオンの怒りを買ってパリを追放されることになります。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはいいますが、現代のストーカー事件等でもみられてしまうような「嫌がられてでも自分を意識してほしい」という気持ちがあったのでしょうか。
しかし、彼女はその程度のことでへこたれません。
ドイツやイタリア、オーストリアを旅し、反ナポレオンの同志を多く獲得。
途中コペに一度戻り、サロンでの交流も熱心に行いました。
特にナポレオン嫌いだったプロイセン王妃ルイーゼや、ナポリ王妃マリア・カロリーナには歓迎されています。

マリア・カロリーナ/wikipediaより引用
ちなみにこのナポリ王妃はマリア・テレジアの娘で、マリー・アントワネットの3歳上の姉でした。
同時期に『コリンヌ』という恋愛小説も書き、何を思ったのかナポレオンに送りつけています。
おそらく最初からそのつもりで書いていたのでしょうが、作中ではイギリス人やイギリス海軍を褒めていて、それも当てつけだったのでしょうかね。うーん。
ちなみにこの小説を送りつけられた時期と前後して、フランス軍はトラファルガーの海戦でイギリス軍に負けていました。
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その後もパリでドイツを賞賛する内容の『ドイツ論』を出版しようとして、当時のフランスにとってドイツは敵国なので、やはりナポレオンの怒りを買います。
いっそドイツで出版すればよかったものを、なぜわざわざフランスのど真ん中でやろうとするのでしょうか。
再三に渡って過激な言動を繰り返すスタール夫人に対し、今度こそナポレオンは厳しい処置を取ることとしました。
本を発禁にしただけでなく、危険人物として彼女を監視させたのです。
そりゃあ、過激すぎる行動で危険視されても仕方ないレベルでしたしね。

スタール夫人/wikipediaより引用
しかし、全くめげないのがスタール夫人。
1812年に20歳下の士官と再婚すると、ヨーロッパを周遊しながら、翌年ついに『ドイツ論』を出版したのです。
さらにはロシアまで行って皇帝に反ナポレオン論を語ったり、スウェーデンで後の同国王となるベルナドットと密談したり。
1813年にはイギリスにも行き、名士たちと社交を楽しんでいました。
エネルギーが満ち溢れ過ぎています。
スウェーデンのベルナドットを仏国王に!?
1814年にナポレオンが失脚すると、スタール夫人はパリに戻りました。
この頃はスウェーデン王太子ベルナドット(後のカール14世ヨハン)を売り込むため、ヨーロッパ諸国を味方につける必要があり、パリをその拠点にしたようです。

ベルナドット/wikipediaより引用
彼女の主張からすると、ベルナドットを新しいフランスの王にしようとした可能性もありますね。
その場合、既にベルナドットはスウェーデン王太子なので、フランスがスウェーデンの属国か同君連合になるも同然なのですが……。
でもベルナドットは元々フランス人ですから、この場合さほど問題にならないんですかね? ややこしいわ!
スタール夫人はベルナドットを非常に高く評価しており、こんな発言をしたことがあるほどです。
「彼こそは真面目な人々のためのナポレオンである」
この期に及んでナポレオンが基準になっているあたり、まだフラれたときの恨みを抱いていたのでしょうか。
結局、彼女の活動は実を結ばず、ブルボン家による王政復古が成立しました。
最後はアヘンの常習者になり、脳出血で倒れる
亡くなる前年まで積極的に著作・出版活動を継続したスタール夫人。
しかし、ブルボン家の復帰などに落胆すると、一気に生力を失ってしまったようで、阿片の常用者になっていたとか。
まぁ、革命中から穏健な方針を掲げ、王妃の助命を主張していた彼女からすれば、
「今さら王政を復帰させるならば、ルイ16世夫妻を殺さなくても良かったじゃないの!」
とでも言いたくなったでしょう。
しかし、かつてのように著作で反論せず、阿片に走ったということは、それ以前から心身に何らかの支障をきたしていたのかもしれません。
一度、脳出血で倒れた後も、半身不随と引き換えに命をとりとめているので、元々の生命力が強かったと思われますが。
まぁ、彼女の言動をみれば納得できるような気もしますね。

スタール夫人/wikipediaより引用
エネルギーに満ち溢れ、頭脳もある面では明晰だっただけに、もう少し手段を選べていたらその後のフランスはどうなっていたか。
特に、彼女がナポレオンの浴室に突撃していなければ、ナポレオン政権やフランスにもっと良い影響を与えていたかもしれません。
反適材適所というか、宝の持ち腐れというか。彼女自身がその生涯に悔いがなければそれで良いのですが……。
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【参考】
両角良彦『反ナポレオン考―時代と人間 (朝日選書)』(→amazon)
ほか





