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その日、歴史が動いた ロシア 音楽家

作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチ 曲調とは異なる落ち着いて優しげな素顔とは

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「名は体を表す」ならば、芸術家の場合は「作品が本人を表す」ともいえるでしょうか。
たとえば重い曲調を得意とした音楽家は、肖像画でもいかめしく描かれていたりしますよね。
もちろん、どんな人間にも喜怒哀楽があり、一つの作品だけで本人のすべてを知ることはほぼ不可能でしょう。
今回はその辺を念頭に置いて、とある作曲家の素顔を夢想してみたいと思います。

1906年(明治三十九年)9月25日は、作曲家のドミートリイ・ショスタコーヴィチが誕生した日です。

日本で最も知られているのはこちらの交響曲第5番・第4楽章でしょうか。

 

いやぁ、勇ましい曲調ですよね。

このような音楽を聞きますと「作者もさぞかし厳格な人なんだろう」という感じがします。
が、彼はむしろ柔軟性と優しさを兼ね備えたような人物な気がします。

ドミートリイはどんな人だったのか想像しながら、彼のおじいさんの代から話を始めましょう。

 

祖父が銀行家として成功し、両親は大学で出会う

ドミートリイの祖父は1866年にシベリアへ流刑になり、釈放された後も現地で生活。イルクーツクで銀行家として成功し、財産を築きました。

ドミートリイの父で同名のドミートリイ(ややこしい)もそのおかげで、ペテルブルク大学に進学することができます。専攻は物理数学だったそうですが、音楽にも興味を持ち、妻となるソフィヤと出会います。
もちろん、彼女がドミートリイ(息子)の母親となる女性です。

ソフィヤも裕福な家の出身でした。三女だったので、両親も結婚相手にとやかくいわなかったのでしょうか。
普通は「親が流刑になっていたような相手との結婚なんて許さん!」となりそうなものです。

ドミートリイ(父)とソフィヤは、音楽をきっかけとして出会った……といわれています。

詳細は不明ですが、どこかの演奏会で彼女が落としたハンカチを彼が拾ってあげた――とか、少女マンガみたいな出会いがあったのかもしれません。妄想、もとい想像が広がりますね。

なんにせよ、そういう環境で生まれ育ったドミートリイ(息子)が音楽に親しむようになるのもごく自然な流れだといえます。

 

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音楽を始めたのは8才と遅めだった

ドミートリイが実際に音楽に触れるようになったのは8歳の時からでした。

作曲家の中には文字を読むより先に音楽をはじめていたような人も多いですから、ドミートリイはやや遅めです。
きっかけは、姉と友人が弾いていたピアノ曲に興味を持ち、母ソフィヤに手ほどきを受けるようになったことだったとか。

そしてソフィヤがドミートリイの記憶力と絶対音感に気付き、音楽の先生をつけるようになります。
作曲を始めたのは9歳からでした。

しかし、ドミートリイは元々読書家でもあったため学問の道という選択肢もあり、しばらくは進路に迷ったようです。
結果、12歳のときに音楽家の道を選ぶのでした。

ソフィヤも息子の目標に協力するため、良い先生を探すことに余念がありません。教育方法・感性が合わないと感じたらすぐに先生を変え、息子が気兼ねなく音楽へ取り組めるように協力していたそうです。

また、あくまで息子の意思を尊重し、練習や学習を強制しませんでした。
これがドミートリイにとって良かったようです。

 

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ロシア革命で共産党が台頭 自由な創作活動は制限され……

13歳になったドミートリイは、ペテルブルク音楽院へ入学、作曲とピアノを専攻しました。
1925年の卒業作品として提出した「交響曲第一番」で世間の注目を集め、若いうちから多くの曲を作っていきます。

この間、国内ではロシア革命が起こり、共産党が台頭。彼らは芸術にも口を出すようになってきます。

ドミートリイの作品もたびたび「社会主義的にうんぬんかんぬん」と批評されました。そして彼を含めた多くのロシア人作曲家が、当局の気に入るような曲を作らされることになります。
この惨状から逃れるべく、ラフマニノフのように革命から間もなく亡命した人もいました。

ドミートリイは共産党の好みに合うような曲も作りました。

が、心の中では密かに反抗心も持っていたようです。
冒頭に挙げた代表作・交響曲第5番は1937年の作品で、まさしく共産党を意識した曲ながら、その裏では党と関係のない曲も作っています。もっとも、その発表は1953年にスターリンが亡くなってからでしたが。

ある意味上手いというかなんというか。

 

ロッシーニやワーグナーに影響され歳をとっても作曲活動に挑戦

また、戦争が終わった直後の1946年、
「父は近所にいたドイツ兵捕虜に対して同情していた」
とドミートリイの子供たちが回想しています。

この辺を考え合わせると、彼は本心を隠すのが上手かったのでしょうね。少なくとも当局には。

1950年代後半からは、自作品の引用なども大胆に取り入れていきました。

また、社会的事件の風刺など、危ない題材も使っています。
共産党からは当然いい顔をされませんでしたが、既にスターリンがいないので命の危険にまではなりませんでした。

1958年にはかつて患った脊椎性小児麻痺の後遺症により、自らピアノ演奏をすることは難しい状態になったものの、作曲意欲は最後まで失いません。
ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲(運動会や競馬でお馴染みのアレ)や、ワーグナーの「ワルキューレ」、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」など、他の作曲家の作品から大胆な引用を行い、自作の糧としています。

年をとると挑戦することができなくなりがちですが、ドミートリイはそうではなかったのです。

 

死の直前に完成した「ヴィオラ・ソナタ」は

こうした活動は、この世を去る直前まで続きました。
ドミートリイは1975年8月に亡くなったのですが、その二ヶ月ほど前に最後の作品「ヴィオラ・ソナタ」が完成しています。

初演を務めるヴィオラ奏者フョードル・ドルジーニンは既に練習を始めていたものの、作者自身がその成果を確認することはできなかったのです。
しかも、この頃のドミートリイは7月から肺がんで入院しており、一時退院しています。おそらくは最後の力を振り絞って、この曲の初演に向けた調整を行っていたのでしょう。
残念ながら、それは叶いませんでしたが……奏者にはその気持ちが伝わっていたようです。

実際、この曲の初演は、同年10月に行われました。
出来は素晴らしいもので、当時「東側諸国における最高の指揮者」と呼ばれていたエフゲニー・ムラヴィンスキーが、観客席で感涙にむせんでいたといいます。
ドルジーニンも無事演奏を終えた後、天国のドミートリイに聴衆の喝采を伝えるため、楽譜を高く掲げたとか。

もしもドミートリイが音楽の才しか誇れないような人だったら、死後も尊敬され続けることはなかったでしょう。才能や作品名と同じくらい、アレな性格や言動が伝わっている作曲家もいますしね。

きっとドルジーニンの演奏と観客の反応は、天国のドミートリイにも伝わったことでしょう。

長月 七紀・記

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参考:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ/Wikipedia

 





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