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延喜・天暦の治をわかりやすくする人物エピソード! 醍醐天皇・村上天皇ほか

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794ウグイス平安京は、超わかりやすい!
810年薬子の変も、なんだかザワザワしてて興味を惹かれる。

されど……。
平安時代も時が進み、10世紀後半になってくると、途端に興味の失せる場面が出てきませんか?

その代表が【延喜・天暦の治】でしょう。

言葉の意味としては、
醍醐天皇(延喜)と、村上天皇(天暦)の時代は、良い政治が行われていたよ! あの頃が理想だったよ!」
というものでして。

要は、何も重大事件が起きていない、というんですから、そりゃ、印象も薄くなって、受験などでも途端に覚えづらくなりますわな。

そこで本稿では、あまり注目されない醍醐天皇・村上天皇の人物エピソードに注目しつつ、【延喜・天暦の治】を見ていきたいと思います。

やっぱり人そのものを見た方が、歴史ってオモシロイんですよね。

 

宇多天皇から冷泉天皇をマトメて見ておこう

延喜・天暦の治の主人公は、言わずもがな醍醐天皇と村上天皇の2名です。

しかし、それだけでは全体像を把握しづらいので、第59代宇多天皇から第63代冷泉天皇までを表にしてみました。

まずはザックリと確認してみましょう。

天皇 在位期間
第59代 宇多天皇(祖父) 887-897年
第60代 醍醐天皇(父) 897-930年(延喜)
第61代 朱雀天皇(子) 930-946年
第62代 村上天皇(子) 946-967年(天暦)
第63代 冷泉天皇(村上天皇の子) 967-969年
醍醐天皇と村上天皇の治世を延喜・天暦の治という

延喜年間が33年で、天暦年間が21年。
たしかに両名の治世は他に比べて長いですね。

(カッコ)の中に(祖父)―(父)―(子)と示しておきましたように、親子関係は割とスッキリしていると思います。

 

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実は美化されるほどの仁政が行われたワケじゃなく

そもそも、なぜ「○○の治」と言われるのか?

「◯◯の治」とは、中国で「理想的な政治が行われていた」とされる時代の呼び方になります。
例としては唐の太宗(唐の二代皇帝・実質的な唐の創始者)の治世を「貞観の治」と呼んだりしますね。

日本では醍醐天皇と村上天皇の時代がそれにあたるとして、延喜の治・天暦の治という単語ができました。
少し詳しく説明しますと
「(主に藤原氏の)摂政や関白ではなく、天皇の親政で理想的な政治が行われ、文化も発達したYO!」
というものです。

なんせ、それまでの朝廷は
・810年薬子の変
・842年承和の変
・866年応天門の変
と、藤原氏を中心としたドタバタが継続的に起きていて、何かとモメていた時代です。

しかし、延喜・天暦の治も、美化されるほどの仁政が行われたわけではないなぁというところでして。

ではなぜ、このように理想として持ち上げられるようになったのか?

実は、この後の時代の影響によります。
11世紀前半になると、藤原北家による摂関政治が常態化し、「帝が親政をしていたあの時代に戻れないものか」と考える人が多くなりました。

また、摂関政治の時代ですと、いくら学問を身に着けても出世できるとは限らない――そんな切ない時代にもなっており、要は藤原氏以外の貴族が不満を感じていたのです。
源氏物語でも、光源氏の息子・夕霧が「僕は学問なんてしなくてもやっていけるのに」みたいなことをこぼすシーンがありますが、そういう価値観だったんですね。

血統や家格でほぼ全てが決まるようになっていて、エライ人が豊かな知識を持っているとは限らない。
政争に必要な計算能力の高い人は多かったでしょうけれど、これじゃあヤル気も出ません。

こうした不遇の時代に比べて、醍醐天皇(延喜)や村上天皇(天暦)の治世は比較的学者が優遇されました。
それを後世の者たちが羨ましく思った結果、理想の治とされたんですな。

 

延喜・天暦の治とは、藤原氏から言い始めた!?

しかしその一方で、醍醐天皇・村上天皇の時代は、皇室と藤原摂関家の関係が確立した時期でもあります。

・810年薬子の変
・842年承和の変
・866年応天門の変

前述の通り、こうした権力闘争を経て藤原北家のチカラがいよいよ固まったワケです。

ゆえに
「延喜・天暦の治とは、藤原氏から言い始めた」
とする説すらあります。
違う立場の人がそれぞれ「良い時代だった」と言うのなら、それはそれで正しいのかもしれませんが。

いずれにせよ藤原氏への不満からそういう時代を懐かしんだ――というのが根底にありますので、後の鎌倉時代以降は、醍醐天皇・村上天皇の時代を持ち上げる人はそう多くありません。
なんせ武家政権に移行してますからね。
妬もうにも、すでに別の勢力である武士に色々と取って代わられているワケです。

ただし、朝廷や公家の間では、密かな敬慕の念があったようで、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇建武の新政を試みたとき、延喜・天暦の治を模範にしたと考えられています。
後醍醐天皇のやった結果がどうなったかはさておき……。

後醍醐天皇と建武の新政 こうして南北朝時代は始まった

ここから先は、実際にどんなことがあったのか?
天皇別に見て参りましょう。

 

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醍醐天皇と延喜の治897-930年

父である宇多上皇の意向により、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政治を行いました。

方や藤原北家の当主、方や学識と忠誠心と実力で昇進してきた能臣という構図です。
道真のほうが時平より26歳も年上で、親子のような年の差がありました。

宇多上皇は「時平はまだ若いが、実力のある道真にサポートさせれば立派にやっていけるだろう」と考えており、息子である醍醐天皇にそういった指示をしたようです。
そのおかげでこの政治体制は長く安定したとされます。

しかし、自分の家の権力を万全にしておきたい時平にとって、道真はやはり煙たい存在。
だからこそ、讒言をして道真を大宰府に左遷させたわけです。
この時点では宇多上皇が存命中だったので、その影響を弱めるために道真を追放した……ともされます。

時平は荘園整理令や延喜格式の制定、歴史書の編纂なども積極的にやっているため、あながち悪者とも言い切れません。

その一方で、道真左遷の直後に妹の藤原穏子を入内させており、後に中宮になっているのでソコソコ野心もありますが……まあ、政治家らしいといえばらしいですね。

醍醐天皇/wikipediaより引用

醍醐天皇自身は文化への関心が強く、古今和歌集の編纂を紀貫之らに命じています。
天皇自身も和歌をよく詠んでおり、勅撰集への収録はもちろん、家集「延喜御集」も編まれました。

また、醍醐天皇の宸筆(天皇の自筆)も残っています。
達筆すぎて一般人には読めないのがこの手の達人あるあるですが、何となく柔らかいというか、曲線の多い字を書く方だったようですね。

醍醐天皇自筆の日記「延喜御記」もあったらしいのですが、既に散逸してしまって現存していません。
33年間で20巻も書いていたらしいので、残っていれば当時の研究がもっと進んでいたでしょうね。
他の本に引用されたわずかな箇所は伝わっているそうなので、今後、別の本から新たに延喜御記の一部分が見つかることもあるかもしれません。

実は、歴史物語の「大鏡」にも、醍醐天皇の優しさが伺える話がいくつかあります。

「特に寒さの厳しい冬には、自ら薄着になった」
「流行り病や不作があった年には、税を減らしたり大赦を行った」
「干ばつの年には、冷泉院や神泉院といった上皇の御所にある池の水を民に分け与えた」
というような、常に民衆のことを考え、寄り添おうとした言動が記録されているのです。

身分柄、直接一般市民の様子を見に行くことはできないからこそ、気象や社会事情から実情を想像していたのでしょうね。

そんなわけで政治面も文化面もうまく行っていたかに見えましたが、少しずつ暗雲が立ち込めていきます。

延喜九年(909年)にまず時平が亡くなり、その二年後、醍醐天皇と中宮・穏子の間に生まれた皇太子・保明親王が早世。
さらに、保明親王と時平の娘・仁善子の間に生まれた慶頼王も幼くして亡くなりました。

この一連の訃報が「道真の祟り」と噂されます。

そこで延喜二十三年(923年)、醍醐天皇は左遷の詔を撤回し、道真に官位を贈って慰霊を試みます。
が、延長八年(930年)に清涼殿落雷事件が発生すると、醍醐天皇も体調を崩し、朱雀天皇に譲位しました。
その後、出家したものの、出家当日に亡くなっています。

 

朱雀天皇(930-946年)

朱雀天皇は生来病弱だった上、その間に
平将門の乱
藤原純友の乱
・その他天災など
が立て続けに起きて心痛を極めたのでしょう。
24歳で譲位します。

皇位を引き継いだのは朱雀天皇の弟・村上天皇でした。

 

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村上天皇と天暦の治946-967年

皇位についたときは満18歳の青年でした。
三年ほど外叔父の藤原忠平が関白を務めましたが、天暦三年(949年)に忠平が亡くなると摂関を置かず親政を行います。

とはいえ、摂関家の藤原実頼・師輔兄弟が政治の主導権を持っており、村上天皇の母・穏子や、存命中だった朱雀上皇もおり、完全な親政とはいえませんでした。
しかし親政にこだわることなく、承平・天慶の乱などによって逼迫していた財政を意識し、倹約に努めています。

村上天皇は、政治よりは文化面での功績が大きいかもしれません。

「後撰和歌集」の編纂や内裏での歌合(和歌の競技会)を催したりと、歌人の庇護者として振る舞っています。
村上天皇自身も琴や琵琶が上手だったとされており、根っからの文化人だったようです。

村上天皇/wikipediaより引用

たとえばこんなエピソードがあります。

あるとき、天皇の日常生活の場である内裏の清涼殿前に植えられていた梅の木が枯れてしまいました。
梅の花は、春に先駆けて咲くため古来から愛されており、内裏に一本もないのはいかにも寂しい話です。この頃は桜よりも梅を愛する人のほうが多かったかもしれませんしね。

そこで村上天皇は、どこかから良い梅の木を見つけて、清涼殿に植え替えるよう命じました。

結果、平安京のはずれのとある家に、とても見事な紅梅の木が見つかります。
担当者が家の者に事情を話して譲ってもらうことが決まると、使用人が出てきて
「主からの手紙を結びつけましたので、どうぞこのままお持ちください」
と奇妙なことを言いました。

担当者は訝しみながらも内裏へその梅の木を持ち帰り、村上天皇は大いに喜びました。

しかし、結びつけられていた手紙を開けてみると、そこには
「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ」
という歌が書きつけてありました。

意訳すると
「帝の仰せとあれば、この木をお渡ししない訳にはいきません。
でも、もしもこの木に毎年巣を作っている鶯が帰ってきて、『私の家はどこですか』と尋ねてきたら、私は何と答えれば良いのでしょう」
という感じですね。

ここでは読みやすさを優先して漢字を使いましたが、元の歌は女字=ひらがなだったといいます。
となると、かなりの歌才を持った女性が作者であり、梅の木の持ち主だったことになるわけです。

村上天皇は当然、その女性の素性に興味を持ちました。
そこでさっそく身元を調べさせると、彼女は紀貫之の娘・紀内侍(きのないし)だったといいます。
件の梅の木は、貫之が生前に世話していたもので、内侍も父の形見として同じように大切にしていたのだそうです。

既に植え替えが済んでしまっていますし、献上させたものを返すというのも格好がつきません。
知らなかったこととはいえ、村上天皇は「悪いことをしてしまった」と悔やんだそうです。

村上天皇の在位中は摂関家の権力が強まったり、内裏での火事などもあり、安穏な時代とはいいきれません。
しかし、「皇室は文化・学問を重視していれば、摂関家や政敵ともうまくやっていける」という方針を示した天皇と見ると、密かな功労者ともいえるでしょう。

 

宇多法皇(887-897年)

時代を遡って宇多天皇についても見ておきたいと思います。

菅原道真の庇護者ですから、道真との逸話があるのはモチのロン(死語サーセン)。
ここでは退位後のお話をご紹介しましょう。

左遷が決まったとき、道真は
「ながれゆく 我は水屑(みくず)となりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」
(意訳:いわれのない罪で遠くへ流されていく私を、貴方様のお力で助けてください)
という歌を宇多法皇に送ったとされています。

宇多法皇は出家した後、仏道修行に励んでおり、比叡山や熊野三山に詣でていることが多く、京都を留守にすることがたびたびありました。
道真左遷が朝廷で決定されたとき、宇多法皇はそういう会議が行われているということを知らず、慌てて朝廷に向かっています。

しかし既に時遅く、
「一度決まったことですので……」
と言われてしまって、道真を助けることができませんでした。

道真がその経緯をすべて知っていたかどうかはわかりません。
が、最後の最後まで「法皇様ならなんとかしてくださる」と思っていたのでしょう。

宇多法皇/wikipediaより引用

宇多法皇の有名な逸話としてもう一つ、嵯峨源氏の一人・源融(みなもと の とおる)との話があります。
※ちなみに、宇多天皇の祖父・仁明天皇が融の兄なので、宇多天皇にとって融は大叔父にあたります。臣籍降下したりすると、血縁関係が一層ややこしくなりますね(´・ω・`)

ともかく……。
融は生前、現代の京都六条のあたりに「河原院(かわらのいん)」という広大な邸宅を作り、住んでいました。
その後、融の息子・昇(のぼる)が宇多法皇にこの屋敷を献上し、法皇がここに住むようになります。

そしてある日、河原院の西にある部屋で人の気配がしたため、宇多法皇は不審に思ってよく見てみました。
すると、公家の正装である束帯姿の男性が控えていたのです。

普通なら、ここで側仕えの人を呼ぶなり何なりするはずですが、宇多法皇は肝が座っていたようで、自ら「お前は誰だ」と問いかけました。

「この屋敷の元の主でございます」

宇多法皇は「では融(とおる)の大臣か」と重ねて問うと、男はやはり頷くので、法皇はさらに「何の用か」と尋ねます。
融が亡くなっていることは当然知っているはずですから、幽霊であることもわかるはずですが……一度、帝を務め、さらに仏門に入った方となると違いますね。

すると融の幽霊は
「ここは我が家なので住んでおりますが、院がおいでなので気がとがめております」
と答えました。
これはこれで、法皇に対して随分な言いようという気がしないでもありません。

宇多法皇も気分を害し、
「私が無理に奪い取ったのならともかく、お前の息子に献じられたから住んでいるのに、迷惑がるとは何事か!」
と一喝。融の幽霊は、それを聞いてかき消えたのだとか。

何だか情けない気もしますが、こんな話ができた理由は、融の生前の行いによります。

融は生前、河原院を非常に愛しており、陸奥の塩竈(現在の宮城県塩竈市あたり)の風景を模した庭園を作り、尼崎から毎月海水を取り寄せていたというほどでした。

「融ならば、自分が死のうと法皇に献じられようと、河原院を手放さないに違いない」
と世間に思われるほど執着していた――世間からはそう見えたというエピソードとなります。

幽霊が実在するかどうかはさておき、こういう話が伝わっていると、天皇や皇族も人間なんだなあという気がしますね。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「延喜・天暦の治」 醍醐天皇/wikipedia 村上天皇/wikipedia

 

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