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斎藤道三/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた 諸家

斎藤道三(さいとうどうさん)64年の生涯スッキリ解説!最期は息子に殺されたマムシの一生

更新日:

戦国キャラの人気トップ10を考えたとき、当落線上にいるのかな?というのがこの方。

斎藤道三(さいとうどうさん)――。

織田信長豊臣秀吉、あるいは武田信玄や上杉謙信たちの時代より少しだけ早い。

いわゆる戦国草創期の頃に【下剋上を体現した一人】として知られ、北条早雲なんかと一緒に語られたりしますが、実は早雲が「伊勢宗瑞」という名の室町幕府エリート武士だったことは先日お伝えしました通り。

【関連記事】北条早雲

今では、道三の方がより謎多き戦国大名となった感があります。
なんせ元々は油売りであり、そこから下剋上を繰り返して出世し、「美濃の蝮(まむし)」なんて通り名までつけられたりするワケで……。

いったい斎藤道三とは、どんな方だったのか?
早速、見てみましょう。

※「道三」と名乗ったのは晩年のわずかな期間ですが、最も有名なので統一します

 

元は【北面の武士】家系だった

下剋上の代表例とされ、さらには織田信長の妻・濃姫の父というビッグな経歴の斎藤道三。

「美濃の蝮(まむし)」という一歩間違えれば厨二病扱いされる異名だけでなく、「息子に殺される」という悲劇的な最期を遂げており、どこから見てもネタだらけな御方です。

生年は、一応この段階では俗説の1494年としておきます(詳細は後述)。

道三の先祖は、代々【北面の武士】を務めたということになっています。
北面の武士とは、もともとは比叡山の突撃を防止するため、院政の時代に登用された部隊であり、保元の乱あたりで話題になりますね。

が、父の代に何らかの理由で浪人となり、山城国乙訓郡西岡へ。
いったい何があったか意味不明ですが、道三は11歳で京都の妙覚寺に入って「法蓮房」を称したとされています。

ここもしばらくして去り、結局、還俗(僧侶から一般社会へ戻ること)。
西岡に帰ると今度は、油問屋の奈良屋又兵衛の娘と結婚して、「山崎屋」という屋号の油商人となりました。

ですので、生粋の商人でもないんですよね。
武士の家系だとしたら、元からその素養も備わっていたのかもしれません。

いずれにせよ油売りに従事しながら行商の旅にも出ていると、ある日、美濃でかつての弟弟子・日護房に再会、彼の紹介で美濃守護・土岐氏の老臣である長井長弘へ仕えるようになりました。

どう言ってとりいったのかは不明ながら道三の下剋上LIFEの始まりです。

長井長弘は、道三の才能と武技を気に入り、守護である土岐政房の長男・土岐政頼(盛頼・頼武とも)と、その弟・土岐頼芸(とき よりあき)に目通りさせました。
話がトントン拍子に行き過ぎな気もしますが、細かい経緯は記録されないので仕方ないですね。

このときの反応は、兄・政頼が「コイツ、只者じゃなさそうだから近寄りたくないわ」(超訳)とお断りモードだったのに対し、弟・頼芸は道三を気に入ったのだとか。
兄弟で真逆な評価というのも面白いですが、後々のことを考えるとさらに……。

土岐政頼/wikipediaより引用

 

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土岐頼芸が美濃守護となり邪魔になったのが……

土岐氏ではその後、家督争いが勃発します。

「トーチャン(政房)が、政頼よりも頼芸を可愛がり、跡を継がせたかったから」という定番トラブルです。
源氏のお家芸は「源」姓じゃなくても発動するんですね(´・ω・`)

結局ここでは土岐政頼が勝ち、美濃守護の座をゲット。
しかし、頼芸に気に入られていた道三としては、何とかして政頼を追い出して頼芸を守護にし、自分も成り上がりたいわけです。

そこでこっそりと戦支度を整え、大永七年(1527年)8月、5,500の兵で政頼に夜襲を仕掛けて、美濃から追い出します。政頼は命からがら、越前・朝倉孝景の元へと落ち延びていきました。
まぁ、ブッコロしてないだけ、まだ優しい気もします。

これで晴れて土岐頼芸が美濃守護であります。道三の目論見どおりなワケです。

しかし、実務は長井長弘らが請け負っており、土岐頼芸を守護にしただけでは道三にオイシイ話は回ってきません。
となれば邪魔者は決まってますよね……。

そ、そうです。
土岐氏代々の重臣であり、道三を頼芸に引き合わせた長井長弘さん。そもそも道三を取り立てた恩人のハズです。

しかし思い出してください、道三の厨二病な通り名を。
「マムシ」に躊躇なんぞはありません。

かくして享禄三年(1530年)正月。
道三は、政務怠慢など理由に長井長弘夫妻を殺害し、同家を乗っ取ってしまいました。

「長弘が越前の政頼と内通したので上意討ちにした」という説もありますが、はてさて。

 

難攻不落の稲葉山城に入る

長井家を乗っ取った道三は、本拠を稲葉山城に移動。
天文七年(1538年)に守護代の斎藤利隆(あるいは良利)が亡くなると、道三がその名跡を継いで斎藤氏を名乗るようになりました。

後に岐阜城として知られる稲葉山城。難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

下剋上の階段を一気に駆け上がった感じですね。
これで名目上は、美濃の名家の一員であります。

しかし、成り上がりが周囲にそう簡単に受け入れられるワケもなく、天文九年~十年(1540~1541年)には、土岐頼芸の弟や、斎藤氏、長井氏などと対立。
それでも生き残ったのですから、合戦の指揮能力が飛び抜けていたのでしょう。

そして天文十一年(1541年)。
道三はいよいよ美濃を奪い取ろうと立ち上がります。

相手は、土岐頼芸。
はい、自身の主君ですね。
長井長弘に続いて、その上の上司、しかも今度は守護をぶっ叩きに行こうというのです。

このとき道三が動員できた兵は、数千~1万前後と言われています。
実際は盛った数字で、もうチョイ少なかったでしょう。

もしも道三だけでこんな数の兵を用意できたのだとしたら、逆に土岐頼芸の不人気っぷりがハンパじゃありません。

そして翌1542年。
土岐頼芸のいる大桑城(おおがじょう)に道三が攻め込み、クーデターは無事成功。
頼芸は美濃を追い出されて尾張に逃げ、甥にあたる土岐頼純は母方の実家・朝倉氏を頼るため越前へ向かった。

 

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織田軍を見事返り討ち!そして婚姻へ

尾張と言えば信長を真っ先に思い浮かべるかもしれません。
この時代は信長のトーチャン・織田信秀の時代です。

土岐頼芸はそこに身を寄せ、再起を狙います。

具体的には、越前へ追い出されていた甥・土岐頼純と連絡をとりつつ、それぞれ身を寄せていた織田氏・朝倉氏の後楯を得て美濃へ侵攻。
朝倉軍は、名将・朝倉宗滴がやってきて、道三を挟み撃ちにします。
土岐氏も始めから親族で協力していれば、追放されることもなかったのではないでしょうか。

と、タラレバを言ってても仕方ありません。

一転、朝倉軍と織田軍に攻められピンチとなった斎藤道三。
朝倉宗滴に撃破され、さすがに厳しいかと思ったところ、稲葉山城下で織田軍を見事に返り討ちにします。

おそらくですが道三は、稲葉山城の防御に絶対の自信があったのでしょう。
この城は、眼下に広がる平野と川が一目瞭然で見下ろせる、いわゆる難攻不落の城でした。

岐阜城天守閣から眺めた長良川・鵜飼い大橋(現在の岐阜県岐阜市)

織田信長も、攻略に凄まじい労力を費やしたところで、その詳細は本サイト・お城野郎さんの記事に詳しく書かれています。

【関連記事】稲葉山城(後の岐阜城)を織田信長はどう攻略したか? その全貌を解説!
【関連記事】岐阜城の戦いとは? 織田信長の孫と池田恒興の息子が対決した関ヶ原の前哨戦

結果、土岐氏の念願はついぞ叶いませんでした。
織田信秀の嫡男・信長と、道三の娘・濃姫が結婚したのです。これを機に両家は和睦を結び、頼芸も程なくして尾張から追い出されるのでした。

【関連記事】濃姫(帰蝶)

頼芸は流れ流れて、近江や常陸、上総、そして甲斐にまで行っています。

時系列が前後しますが、最終的に頼芸は織田信長の甲州征伐の際、武田氏に身を寄せていたところを発見されています。

残念ながらこのときには病気で視力を失っていたとか。
旧土岐家臣である稲葉一鉄のはからいで美濃に戻ることができました。既に80歳を超えていましたので、さほど経たずに亡くなりましたが、故郷の土を踏めただけ良かった……ですかね。

 

道三が義龍を嫌っていたのも一因か

話を道三に戻しましょう。

後世から見ると「斎藤氏と織田氏の和睦が成立した時点で、道三による美濃の支配が確定した」といえます。
それから6年後に道三は隠居・出家しているので、頼芸が再起した場合は、斎藤義龍と戦うことになっていたでしょう。

皮肉なことに道三の最期は、その義龍によってもたらされます。

斎藤義龍/wikipediaより引用

有名なのは「義龍は誰かから”あなたは実は土岐頼芸様の息子なんですよ”と吹き込まれ、それを信じた義龍が親の恨みを晴らすために道三を殺した」というものですが、これはあくまで俗説。

とはいえ、鳥羽上皇崇徳上皇の対立が発端となって保元の乱が始まり、平治の乱に続き、源平の合戦から鎌倉幕府の創設に至ったように、この手の疑惑はいかなる影響を与えるか計り知れないところがありますから、親殺しを決意する一因にはなり得たでしょう。

義龍の場合は、別の理由もありました。
なぜか道三は、義龍を毛嫌いしていたといっていいほど冷たい評価をしていたのです。

例えば、「美濃は倅ではなく婿殿に譲る」というような手紙を信長宛てに書いていたり、あからさまに次男・斎藤孫四郎や三男・斎藤喜平次を可愛がって、義龍を廃嫡しようとしたり……。

信長と義龍の器が違うのは仕方ないにしても、だからといって自分の息子をないがしろにしても、いいことはありません。
むしろ、テキトーに義龍をおだてつつ、締めるべきところはしっかり締め、信長と手を組むように諭すべきだったのでは?

また、孫四郎や喜平次が可愛いのならば、兄弟間の争いで命を落としたり、旧土岐家臣につけ入れられることがないように、団結を説かなければならないはずです。

 

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弟二人を殺し、さらに長良川で決戦挑む

しかし、結局、道三にはそのどの手も打てませんでした。

蝮ほど頭のいい人が手を打てなかったのは不思議なものです。
やはり、代々の領主ではなかったために「一族の団結によって家と領地を守る」という概念がなかったのでしょうか。

義龍からすれば、正式に家督を譲られた上(譲ってない説もあります)、息子・龍興もいて跡継ぎに困っていないのに、このような冷遇ぶりは許せません。

道三から見て孫にあたる龍興が病弱で家督を継げなさそうだというなら話は別ですが、それならそれで義龍にもう一人か二人息子が生まれるのを期待するほうが穏当なやり方でししょう。
あるいはダメとなった時点で「じゃあ孫四郎か喜平次(あるいは彼らの息子)に」というなら、義龍の反感もそこまで大きくはならなかったはず……たぶん。

いずれにせよ、家族の中で孤立してしまった義龍は、父にも弟にも憎悪しか抱けなくなります。
そしてまずは弟二人を呼び出して殺害し、その後道三に戦を挑みました。長良川の戦いです。

事の次第を知った信長が自ら援軍に急行してはいたものの、それよりも早く道三の首と胴が離れてしまいました。
その義龍も五年後の永禄四年(1561年)には急死し、息子の龍興は信長に敗れ、最終的に美濃は織田氏のものとなります。

長良川の戦いから一連の出来事は以下の記事に詳しいのでよろしければご覧ください。

【関連記事】長良川の戦い

 

実は皇室にも血がつながっている!?

これは余談ですが、「美濃尾張=身の終わり」なんて言葉遊びがあります。

元ネタは平安末期
源義朝を討った長田忠致という武士が、時が流れて頼朝が挙兵した際に源氏軍へ参陣したところ、「働けば美濃尾張をやろう」と言われたことに由来します。

しかし、平家が片付いた後に頼朝は忠致を討ちました。
頼朝いわく「約束通り”身の終わり”をやろう」だとか……ダジャレじゃんとか言わない。

ただ、この周辺に、神話や歴史上の出来事が多いのもまた事実なんですよね。

◆神話の時代には、ヤマトタケルが伊吹山(滋賀県と岐阜県にまたがる山脈の主峰)の神をナメて返り討ちに遭いました

◆飛鳥時代には、壬申の乱における激戦地が不破の道(現在は”県指定史跡・不破の関跡”になっているあたり)でした

◆美濃と尾張を手に入れた信長は本能寺の変で斃れていますし、関が原の戦い本戦も美濃ですね

◆秀吉は信長死後に美濃で戦っていたことがありますが、領地にしていたことはないので除外ということで

◆ついでにいえば、江戸時代にこの辺を領していた尾張藩は、御三家筆頭でありながら、唯一・一度も将軍を輩出できませんでした

オカルト的な話ではありますが、ここまでいわくが重なるとちょっと不気味ですね。

もうちょっと地政学寄りのお話をいたしますと、古代には不破の関・逢坂の関(現・滋賀県大津市)・鈴鹿の関(現・三重県亀山市)の東を「東国」と言っていましたので、近畿圏と東方が交わる地点ともいえます。

だからこそ東西の陣営がぶつかり合うことが多く、上記のような歴史が生まれやすかったわけです。
そこに縁起云々を感じるかどうかは、皆様個々人の感性におまかせするということで。

最後に、道三の血統のお話を少しだけしておきましょう。

大名としての斎藤氏は龍興の代で終わりましたが、道三の血筋は複雑に枝分かれしています。
例えば、江戸時代には旗本になった者や、臼杵藩主になった系統など、実は道三の血は長く細く続いていました。

なんと、公家に嫁いだ女性の系統から皇室にも繋がっています。

ホントに歴史上の「滅亡」と「全滅」は全然違いますね。
何か新しい言葉を作ったほうがいいんじゃないかという気もしてきます。

んでここから先は、ちょいとマニア向けなお話。

近年、斎藤道三についての新資料が発表され、戦国ファンの心をザワザワさせているのをご存知でしょうか?

それがコレ。
「下剋上は道三が一人で成し遂げたものではなく、道三の前半生とされる時期のことは父親の功績だった」

そんな説が持ち上がってきて、また違った注目を浴びているのです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でも取り入れられたら面白いんですけどね。

道三の二人説が持ち上がってきたのは、近年見つかったとある手紙が発端です。
出自に深く関わることもあるので、少し長くなりますが詳しく見ておきましょう。

 

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斎藤道三は二人いた!? という信憑性の高い資料が

キッカケは、六角承禎(ろっかくじょうてい・六角義賢とも)の手紙。
近江守護である承禎が、永禄三年(1560年)7月に書いたもので、複数の家臣(平井定武や蒲生定秀など)に宛てられました。

永禄三年とは、道三の死去から四年後のことで、ほぼリアルタイムだったことから【信憑性が高い】として俄然注目を浴びました。

この一ヶ月ほど前には有名な【桶狭間の戦い】も起きています。

東海道における情勢が大きく変わりつつある中で、近江の大名である六角氏も、難しい時期に入っておりまして。
当時、六角氏の家督を継いだばかりの六角義治(承禎の息子)と、斎藤氏の姫(斎藤義龍の娘)との縁談が持ち上がりました。

このとき六角承禎が
「斎藤氏はイヤな成り立ちの家だから、縁を結びたくない!」
と手紙に記したのです。

「イヤな成り立ち」とは気になりますよね……。

そこには一体どんなことが書かれていたのか?
4つのポイントをピックアップしてみましょう。

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikipediaより引用

 

六角承禎の手紙に何が書かれてた?

ポイント① 土岐氏と六角氏は縁者だった

土岐氏とは、前述の通り、道三が下剋上を起こした相手です。
美濃源氏の末裔であり、鎌倉幕府が成立した頃に御家人になった由緒ある家でした。明智光秀の明智家もこの土岐氏の一つ(支流)とされています。

その土岐氏がなぜ六角と関係があるのか?
というと、大名として最後の当主・土岐頼芸(ときよりあき)の妻が六角承禎のきょうだいであり、それ以前の代にも六角氏から土岐氏へ猶子が行っていたのです。この時代の【土岐―六角】ラインは結びつきが強く、道三に下剋上を起こされた頼芸が六角氏に身を寄せたこともありました。

つまり六角にとって斎藤は、敵にも等しい相手なんですね。

ですから承禎は、家臣へ宛てた手紙の中で、
「ウチと土岐氏は親類だから、あの家の詳しい事情は知っている。斎藤氏がどんなことをして今の地位に至ったか、お前たちにも話しておこう」
なんて前置きみたいなものを入れておりました。

ポイント② 斎藤義龍の祖父・新左衛門尉は京都妙覚寺の僧侶だったが、還俗して西村を名乗り、次第に力を得て長井氏を名乗った

手紙には斎藤義龍の祖父だという「新左衛門尉」の話が書かれておりました。

義龍の父は斎藤道三です。
ゆえに、この祖父・新左衛門尉は、道三の父となります。

頭がこんがらがってしまいそうなので、簡略図を書いておきましょう。

【祖父】新左衛門尉

【父】斎藤道三

【子】斎藤義龍

これでスッキリしますかね。
問題はここからです。

この「新左衛門尉」の話が、これまで「道三の前半生である」とされていた内容と被っていたのです。
つまり二人説が正しければ、「新左衛門尉+道三」のミックスされた話が、斎藤道三単独の生涯として伝わっていたんですね。

そもそも道三の父について言及されている史料自体が貴重なんですが、この「新左衛門尉」が他の記録に登場している同名の人物と同一などであれば「道三の二代説」は本決まりになるでしょう。

ポイント③ 義龍の父・左近大夫(道三)は土岐氏を陥れ、土岐家臣から要職を奪い、斎藤を名乗り、美濃を手に入れた
ポイント④ しかし義龍と父・道三は義絶となり、義龍は親の首をとった

③④については道三の生涯としてすでにご説明した通りです。

手紙としては、道三めっちゃ嫌い!という、六角氏の愚痴みたいなもんですかね。
今でこそ、戦国時代の下剋上は「道三、スゲーヤツ!」という評価にもなりますが、当時の六角氏から見れば「どこの馬の骨かもわからん上に、主君を追い出したけしからん奴」でしかありません。

それを書いて縁談を阻止するのが手紙の目的だったんですが……今になって貴重な資料になるとは、世の中は何がどうなるか本当にわかりません。

 

どこまでが親で、どこからが本物の道三?

さて、そうなると次に
「今に知られる斎藤道三の功績は、どこまでが親で、どこからが本物の道三なの?」
と気になりませんか。

ここはまだ専門家の間でも意見がまとまっていないといいますか、史料が少なくてそれ以前の段階のようです。
なので、個人的な予測しかできないのですが……。

「そんなんどうでもいいから早く本題に入れYO!」という方はすっ飛ばしてくださいませ。

新左衛門尉こと長井新左衛門尉の生年は、今のところ明応三年(1494年)説と永正元年(1504年)説があります。
以前は「道三の生年がこのどちらかだろう」といわれていた年です。

また、天文二年(1533年)に「長井豊後という人物が病気になった」ことが公家の三条西実隆の日記に書かれています。
長井新左衛門尉がこの名前を使っていた可能性があるため、没年候補の一つとみなされています。

また、「長井新左衛門尉は享禄年間(1528~1531年)に没したという説もあります。

これらを合わせて考えると、新左衛門尉が明応三年(1494年)生まれとすれば30代、永正元年(1504年)生まれなら20代で亡くなったことになります。
当時としても早いほうではありますけれども、病死であれば不自然ではないでしょう。

となると、道三の生年はどうなるか?
これは息子である義龍の生年月日からある程度絞り込めるかと思います。

義龍の生年月日は、大永七年6月10日(1527年7月8日)です。5月10日説もあるようですが、年は変わらないのでそこは気にしない。

少なくとも、この一年前には道三が子供を作れる年齢になっていないワケで。
男性の成長過程を考えると、早くて13歳前後、当時の社会状況からして16歳ぐらいが妥当でしょうか。

となると、道三の生年は1510年前後あたりが現実的な路線かと思います。

これなら新左衛門尉が亡くなった直後に、道三は10代後半を過ぎていますから、当時の感覚では大人。
スムーズに引き継ぎができた、あるいは父親の存命中から二人で事にあたっていたとすれば、混同が起きるのも無理はありません。

ここから逆算すると、父親の新左衛門尉の生年は明応三年(1494年)説の可能性が高くなってきますね。
もしも新左衛門尉が永正元年(1504年)生まれの場合、道三は早くても1520年前後の生まれとなり、義龍の誕生と合致しなくなってしまいます。

また、道三は天文二十三年(1554年)に家督を義龍へ譲って出家しております。
1510年前後の生まれとすれば、この時点で40代半ばですから、当時の感覚では隠居にとうどよい頃合いでしょう。

gdgdになってしまいましたのでマトメます。

◆道三の父・新左衛門尉は1494年~1533年

◆道三自身は1510年前後~1556年

というのがワタクシ個人の見解です。

他の戦国武将や室町幕府の将軍と比較してみると、同世代の代表的武将はこんな感じです。

新左衛門尉は、毛利元就(明応六年=1497年生まれ)や森可行(森蘭丸らのジーちゃん、明応三年=1494年生まれ)。
道三は、十一代将軍・足利義晴(永正八年=1511年生まれ)や松永久秀(永正五年=1508年)など。

もちろん、新左衛門尉の生年がもっと前という可能性もありますし、結局は「確定できる史料が出てくるまでわかりません!」なんですが、皆さんはいかがお考えでしょう?

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「斎藤道三」
斎藤道三/wikipedia
松波庄五郎/wikipedia

 




1位 薩長同盟
倒幕のためじゃない!


2位 意外と優しい!? 織田信長さん


3位 甲斐源氏の重責とは?
武田信玄53年の生涯


4位 漫画『アンゴルモア』で
盛り上がる元寇のすべて!


5位 意外と知らない
源義経の生涯ストーリー


6位 史上最強の出世人だが
最期は切ない豊臣秀吉


7位 ゴツイケメンな幕臣
山岡鉄舟の信念


8位 藤原道長
出世の見込みなかった62年の生涯


9位 大政奉還から戊辰戦争
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10位 軍師の枠を超えていた!?
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