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【斎藤道三】
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難攻不落の稲葉山城に入る
長井家を乗っ取った道三は、本拠を稲葉山城に移動――。
天文七年(1538年)に守護代の斎藤利隆(あるいは良利)が亡くなると、道三がその名跡を継いで斎藤氏を名乗るようになりました。
下剋上の階段を一気に駆け上がった感じですね。
これで名目上は、美濃名家の一員であります。
しかし、成り上がりが周囲にそう簡単に受け入れられるワケもなく、天文九年~十年(1540~1541年)には、土岐頼芸の弟や、斎藤氏、長井氏などと対立します。
それでも生き残ったのですから、合戦の指揮能力が飛び抜けていたのでしょう。
そして天文十一年(1541年)。道三はいよいよ美濃を奪い取ろうと立ち上がります。
相手は、土岐頼芸です。
はい、自身の主君であります。長井長弘に続いて、自身と取り上げてくれた恩人、しかも今度は守護をぶっ叩きに行こうというのです。
このとき道三が動員できた兵は、数千~1万前後と言われています。
実際は盛った数字で、もうチョイ少なかったでしょう。
もしも道三だけでこんな数の兵を用意できたのだとしたら、逆に土岐頼芸の不人気っぷりがハンパじゃありません。
そして翌1542年。
土岐頼芸のいる大桑城に道三が攻め込み、クーデターは無事成功。頼芸は美濃を追い出されて尾張に逃げ、甥にあたる土岐頼純は母方の実家・朝倉氏を頼るため越前へ向かいました。
織田軍を見事返り討ち!そして婚姻へ
戦国時代の尾張と言えば、真っ先に織田信長を思い浮かべるでしょう。
しかしこの時代は信長のトーチャン・織田信秀の時代です。
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土岐頼芸はそこに身を寄せ、再起を狙います。
具体的には、越前へ追い出されていた甥・土岐頼純と連絡をとりつつ、それぞれ身を寄せていた織田氏・朝倉氏の後楯を得て美濃へ侵攻。朝倉軍は、名将・朝倉宗滴がやってきて、道三を挟み撃ちにします。
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土岐氏も始めから親族で協力していれば、追放されることもなかったのではないでしょうか。
と、タラレバを言ってても仕方ありません。
一転、朝倉軍と織田軍に攻められピンチとなった斎藤道三。朝倉宗滴に撃破され、さすがに厳しいかと思ったところ、稲葉山城下で織田軍を見事に返り討ちにします。
おそらくですが道三は、稲葉山城の防御に絶対の自信があったのでしょう。
この城は、眼下に広がる平野と川が一目瞭然で見下ろせる、いわゆる難攻不落の城でした。
後に、織田信長が美濃へ攻め込んだときも、攻略に凄まじい労力を費やしたところで、その詳細は本サイト・お城野郎さんの記事に詳しく書かれています。
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結果、土岐氏の念願はついぞ叶いませんでした。
織田信秀の嫡男・信長と、道三の娘・帰蝶(濃姫)が結婚したのです。これを機に両家は和睦を結び、頼芸も程なくして尾張から追い出されるのでした。
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頼芸は流れ流れて、近江や常陸、上総、そして甲斐にまで行っています。
時系列が前後しますが、最終的に頼芸は織田信長の甲州征伐の際、武田氏に身を寄せていたところを発見されています。
残念ながらこのときには病気で視力を失っていたとか。
旧土岐家臣である稲葉一鉄のはからいで美濃に戻ることができました。
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既に80歳を超えていましたので、さほど経たずに亡くなりましたが、故郷の土を踏めただけ良かった……ですかね。
道三が義龍を嫌っていたのも一因か
話を道三に戻しましょう。
後世から見ると「斎藤氏と織田氏の和睦が成立した時点で、道三による美濃の支配が確定した」といえます。
それから6年後に道三は隠居・出家しているので、頼芸が再起した場合は、斎藤義龍と戦うことになっていたでしょう。
皮肉なことに道三の最期は、その義龍によってもたらされます。
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有名なのは「義龍は誰かから”あなたは実は土岐頼芸様の息子なんですよ”と吹き込まれ、それを信じた義龍が親の恨みを晴らすために道三を殺した」というものです。
あくまで俗説ですが、親殺しを決意する一因にはなりえたでしょう。
それ以前の歴史を振り返ってみても「血の繋がり疑惑」による鳥羽上皇と崇徳上皇の対立が【保元の乱】そして【平治の乱】へと続き、ついには源平の合戦を経て鎌倉幕府の創設に至ったように、個人の疑惑が後世に与える影響は計り知れないところがあります。
義龍の場合は、別の理由もありました。
なぜか道三は、義龍を毛嫌いしていたといっていいほど冷たい評価をしていたのです。
例えば「美濃は倅ではなく婿殿に譲る」というような手紙を信長宛てに書いていたり、あからさまに次男・斎藤孫四郎や三男・斎藤喜平次を可愛がって、義龍を廃嫡しようとしたり……。
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信長と義龍の器が違うのは仕方ないにしても、だからといって自分の息子をないがしろにしても、いいことはありません。
むしろ、テキトーに義龍をおだてつつ、締めるべきところはしっかり締め、信長と手を組むように諭すべきだったのでは?
また、孫四郎や喜平次が可愛いのならば、兄弟間の争いで命を落としたり、旧土岐家臣につけ入れられることがないように、団結を説かなければならないはずです。
しかし、結局、道三にはそのどの手も打てませんでした。
蝮ほど頭のいい人が手を打てなかったのは不思議なものです。
やはり、代々の領主ではなかったために「一族の団結によって家と領地を守る」という概念がなかったのでしょうか。
ともかくその状況が引き金となり……。
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