斎藤道三

斎藤道三/wikipediaより引用

斎藤家

斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯

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斎藤道三
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斎藤道三は二人いた!? という信憑性の高い史料が

キッカケは、六角承禎ろっかくじょうてい六角義賢とも)の手紙でした。

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近江守護である承禎が、永禄三年(1560年)7月に書いた手紙で、複数の家臣(平井定武や蒲生定秀など)に宛てられています。

永禄三年とは、道三の死去から四年後のこと。

ほぼリアルタイムだったことから【信憑性が高い】として俄然注目を浴びました。

この一ヶ月ほど前には有名な【桶狭間の戦い】も起きています。

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東海道における情勢が大きく変わりつつある中で、近江の大名である六角氏にとっても難しい時期でした。

当時、六角氏の家督を継いだばかりの六角義治(承禎の息子)と、斎藤氏の姫(斎藤義龍の娘)との縁談が持ち上がります。

このとき六角承禎が「斎藤氏はイヤな成り立ちの家だから、縁を結びたくない」と手紙に記したのです。

「イヤな成り立ち」とは気になりますよね……。

そこには一体どんなことが書かれていたのか?

ポイント① 土岐氏と六角氏は縁者だった

ポイント② 斎藤義龍の祖父・新左衛門尉は京都妙覚寺の僧侶だったが、還俗して西村を名乗り、次第に力を得て長井氏を名乗った

ポイント③ 義龍の父・左近大夫(道三)は土岐氏を陥れ、土岐家臣から要職を奪い、斎藤を名乗り、美濃を手に入れた

ポイント④ しかし義龍と父・道三は義絶となり、義龍は親の首をとった

上記、4つのポイントに留意しながら、その内容を考察してみましょう。

 


六角承禎の手紙には何が書かれていたのか

土岐氏とは、前述の通り、道三が下剋上を起こした相手です。

美濃源氏の末裔であり、鎌倉幕府が成立した頃に御家人になった由緒ある家でした。明智光秀の明智家もこの土岐氏の支流とされています。

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その土岐氏がなぜ六角と関係があるのか?

というと、大名として最後の当主・土岐頼芸ときよりあきの妻が六角承禎のきょうだいであり、それ以前の代にも六角氏から土岐氏へ猶子が行っていたのです。

この時代の【土岐―六角】ラインは結びつきが強く、道三に下剋上を起こされた頼芸が六角氏に身を寄せたこともありました。

つまり六角にとって斎藤は、敵にも等しい相手なんですね。

ですから承禎は、家臣へ宛てた手紙の中で、

「ウチと土岐氏は親類だから、あの家の詳しい事情は知っている。斎藤氏がどんなことをして今の地位に至ったか、お前たちにも話しておこう」

なんて前置きみたいなものを入れておりました。

 


新左衛門尉→道三→義龍

手紙には斎藤義龍の祖父だという「新左衛門尉」の話が書かれておりました。

義龍の父は斎藤道三です。

ゆえに、この祖父・新左衛門尉は、道三の父となります。

頭がこんがらがってしまいそうなので、簡略図を書いておきましょう。

【祖父】新左衛門尉

【父】斎藤道三

【子】斎藤義龍

これでスッキリしますかね。

問題はここからです。

この「新左衛門尉」の話が、これまで「道三の前半生である」とされていた内容と被っていたのです。

つまり二人説が正しければ、「新左衛門尉+道三」のミックスされた話が、斎藤道三単独の生涯として伝わっていたんですね。

そもそも道三の父について言及されている史料自体が貴重です。

この「新左衛門尉」が他の記録に登場している同名の人物と同一などであれば「道三の二代説」は本決まりになるでしょう。

手紙としては「道三めっちゃ嫌い!」という、六角氏の愚痴みたいなもんですかね。

今でこそ、戦国時代の下剋上は「道三、スゲーヤツ!」という評価にもなりますが、当時の六角氏から見れば「どこの馬の骨かもわからん上に、主君を追い出したけしからん奴」でしかありません。

それを書いて縁談を阻止するのが手紙の目的だったんですが……今になって貴重な史料になっている。世の中は何がどう転がるか本当にわかりませんね。

 

どこまでが親で、どこからが本物の道三?

さて、そうなると次にコレが気になります。

「今に知られる斎藤道三の功績は、どこまでが親で、どこからが本物の道三なの?」

ここはまだ専門家の間でも意見がまとまっていないといいますか、史料が少なくてそれ以前の段階のようです。

なので、個人的な予測しかできないのですが……。

新左衛門尉こと長井新左衛門尉の生年は、今のところ明応三年(1494年)説と永正元年(1504年)説があります。

一方、道三の生年はどうなるか?

これは息子である義龍の生年月日からある程度絞り込めるかと思います。

諸々の計算を省きまして私なりの結論がこちら。

◆道三の父・新左衛門尉の生没年→1494年~1533年

◆道三自身の生没年→1510年前後~1556年

大永七年(1527年)に土岐頼政を追い出して、かなり飛躍した年は、道三の父あるいは道三自身の可能性がありますね。

その後の活躍はほとんど道三のものとなりますが、これは悩ましいところです……。

もちろん、新左衛門尉の生年がもっと前という可能性もありますし、結局は「確定できる史料が出てくるまでわかりません!」なのですが、皆さんはいかがお考えでしょう?

なお、大河ドラマ『麒麟がくる』で吉田鋼太郎さん演じる松永久秀が、斎藤道三のことを非常に買っている――そんな発言をされておりました。

二人共に【戦国三大梟雄】なんて言われたりもしますが(※もう一人は宇喜多直家)、最近では久秀の評価見直しも進み、アップデートが必要になってきています。

よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「斎藤道三」
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon
太田牛一/ 中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
斎藤道三/wikipedia
松波庄五郎/wikipedia

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