守護大名の記事で少し触れましたように、戦国大名として名を知られた一族には、大きく分けて3つのタイプがあります。
①歴史の表舞台へ一気に出た家
②元は名門だったが没落・滅亡してしまった家
③生き延びて江戸時代も続いた家
一つめのパターンは、北条早雲に始まる後北条氏や、美濃の斎藤道三で知られる斎藤氏。
二つめは武田信玄の武田氏や、朝倉義景の朝倉氏など。
三つめは細川氏や、その他多くの家……といったところでしょうか。
一族が細分化されるなどして、いくつかのパターンが重なるケースも見受けられます。
今回は二つめのケースに当てはまる家のうち、なんとも悲しい逸話を含んでいる【大内義隆(おおうちよしたか)】を見たいと思います。
目次
中国地方と九州の数カ国に影響力
大内氏は、日本の大名には珍しく、渡来人の末裔を自称している家です。
義隆の代には中国地方で数カ国に影響力を持つ、抜きん出た存在になっていました(勢力範囲は次段落で詳細を掲載)。
父親は大内義興。
母親は長門守護代・内藤弘矩(ないとうひろのり)の娘で、義隆は1507年に生まれてます。
義興は明応の政変のときにチラッと名前が出てきましたね。
母方の祖父である内藤弘矩は、「義興の家督相続に反対し、異母弟の高弘を推している」と讒言されて誅伐されてしまった人です。
しかし後日、弘矩の無実が発覚したため、責任を取る形で義興は弘矩の娘・東向殿を正室に迎えたのだそうで。
これ、内藤家や東向殿からすると地獄絵図ですよね……戦国時代にはよくあったことですが。
とはいえ、東向殿は実に穏やかな女性で、夫婦仲も悪くはなかったようです。
子供もたくさん生まれています。
となると家督争いのかほりがしますが、義隆は男きょうだいがおらず(一人いたけど早世した)、姉妹ばかりだったので、跡継ぎに関するトラブルはありませんでした。
衛生・医療環境の良くなかった当時、これは大名家としてなかなかのギャンブルなのですが、義隆は無事に成長、17歳以降は父と共に安芸へ出陣しています。
後には、毛利元就の地元としてお馴染み、現在の広島県あたりですね。
家がデカすぎ 代替わりごとに粛清していた
このころ大内氏にとって邪魔だったのが尼子氏。
出雲から山陽地方に進出しようとしており、ちょくちょくぶつかり合っていました。
が、決着がつかないまま、享禄元年(1528年)12月に父・義興が亡くなり、義隆が家督を継ぎます。
この時点で石見・安芸・周防・長門・豊前・筑前の守護と、左京大夫への叙任を受けました。
実は大内氏では、代替わりの際に親族・重臣の粛清が常態化していたのですが、義隆のときはそもそも家督を争う男兄弟がおらず、重臣の中にもそれらしき人がいなかったようで、穏やかに済んでいます。
それが後々に響いてくるのですが……まあ、時系列順に見ていきましょう。
上記の通り、当時の大内氏は中国地方西部~北九州にまでまたがる大大名です。
山口-大内氏本拠
周防-陶氏
長門-内藤氏
豊前-杉氏
石見-問田氏
という感じで治めていました。
周防と長門は本国である山口に近いこともあって、比較的安定していたのですが、石見などいささか不安定な地域ももちろんありまSu。
さらに、上記の世襲領主たちも決して忠実とは限らず、大内氏としては悩みのタネでした。
かといって一族の人間だけを配するのにも限りがあり、足元を手薄にしすぎるのも考えものです。
まぁ、いつの時代も上下関係で信頼感を築くのが難しいのは常ですよね。
中間管理職みたいなものです。
しかもトップで全国に睨みを利かせるべき将軍家は常に家督争いを繰り広げている状態ですから、大内氏のように数カ国を持つ大名は、自分で自分のシマをきちんとシメなければなりませんでした。
だからこそ、代替わりごとに粛清していたという面もあります。
乱暴な気もしますが、他に方法がないですからね……。
もちろん「お前謀反を企んでるな? ブッコロ^^」(超訳)だけでは恐怖政治になってしまい、崩壊するだけ。
費用や人命損耗もバカにできません。
そこで大内氏は、上記のような守護代たちを山口に常住させ、大内氏本体の中核を担わせました。
そして国元のことは、守護代のさらに代官にあたる人にやらせています。
室町幕府と守護大名の関係に似ていますね。
江戸時代でいうなら、水戸藩みたいな江戸常在の大名がちょっと似ているでしょうか。
こういうふうに、「何か似てる」ポイントを見つけるのも楽しいですよね。……え? 楽しくない? そっか(´・ω・`)
北九州の少弐氏を追い詰めて
次は、義隆本人が何をやっていたのかを見ていきましょう。
最初のうちは、北九州攻略を目標にしていました。
大内氏は大陸と貿易をして巨万の富を築いてきたので、海路の途上にある北九州をできれば自分のシマにしておきたいわけです。
仮に、もしこの辺でよその家同士の戦が起きて長引きでもすれば、大内氏の地元に影響がなくても経済的に大打撃を喰らうリスクがあります。
応仁の乱以降、大内氏を頼って身を寄せていた公家や商人も多かったので、彼らへの面子も保たねばなりません。
大大名であるだけに領国経営のためにもお金やモノは必要……ということで、大内氏の場合は金策も大きなウエイトを占めていたのです。
北九州における戦の相手は、主に少弐氏(しょうにし)でした。
少弐氏は筑前・肥前の大名で、藤原北家の血を引く名門です。
元は平家方でしたが、一ノ谷の戦いで源氏に投降して御家人となり、九州に根付いた家です。九州の大名はそういうところが多いですね。
そして元寇や鎌倉幕府倒幕の際も活躍するのですが、室町時代からは大内氏に圧迫されつつあり、一族の多くが戦死、あるいは肥前に押し込まれて滅亡ギリギリでした。
大内氏は九州の喉元ともいえる大宰府も押さえており、少弐氏の完全滅亡によって北九州制覇を狙っていたというわけです。
当然、少弐氏は反発します。
大内氏からするとそれはウザい。
そこでまた戦が起こる、という流れです。
大宰大弐の官職で大義名分をゲット!
義隆は、肥前で有力な水軍を持っていた松浦党を傘下に入れました。
北九州海域を勢力下におさめ、貿易ルートを確保したのです。
それでも細々と残っていた少弐氏を排除するため、義隆は違うアプローチをしはじめます。
これは義隆に限ったことではなく、金と領土が手に入ると、次に欲しくなるのが名誉です。
元から彼は、太宰府のナンバー2である「大宰大弐」の官職を欲しがっていました。が、簡単には朝廷から許可が降りず、焦れてもいました。
そこで義隆は、後奈良天皇の即位式費用を献金するなどして、さらにゴマすr……お願いを重ねます。
天文五年(1536年)5月。
長年の活動がやっと実を結び、大宰大弐の官職をゲット!
後奈良天皇は嫌がっていたようですが、朝臣に説得されて折れたようです。
これによって義隆に大義名分ができたので、同年9月になると少弐氏を攻め、結果、滅ぼすことに成功しました。
ちなみに、この翌年には十二代将軍・足利義晴から
「上洛して幕政手伝って♪」
と言われていたのですが、義隆は
「ウチ国元が忙しいんで行けません^^」
と断っています。
(※会話内容は全てイメージです)
すでに形骸化した幕府のために働くより、地元を発展させたほうが自分の家のためだと判断したのでしょう。賢明ですね。
あるいは、大宰大弐の官職を得た時点で
「俺はもう朝廷に認められたんだから、幕府なんかどうでもいい」
と思っていたのかもしれません。
実力でいえば朝廷のほうをナメてもおかしくはないのですが、そこはそれ、権威というやつです。……多分。
あの毛利も傘下におさめていた
天文九年(1540年)からは、安芸の毛利氏に攻めかかっていた尼子軍を追い払うため、毛利氏に加勢します。
吉田郡山城(現・広島県高田郡吉田町)を取り囲んでいた尼子軍に対し、その外側からつついて撤退させました。
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また、翌年には厳島神主家の友田氏を滅ぼして桜尾城を手に入れ、さらに佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を陥れて安芸守護家の名門である武田氏を実質的に滅ぼし、安芸の領国化をほぼ完成させています。
毛利元就が大内氏の傘下にいた頃、と考えてもいいかもしれませんね。
これらの戦績もあって、天文十年(1541年)の年末には従三位に昇格、公卿の一員となりました。
戦国時代は好き勝手に官位を名乗っていた大名や武将が多かったことで有名ですが、義隆は正式に朝廷から任じられたものです。
こうして名実ともに抜きん出た義隆は、この機会に尼子氏を完全に討伐してしまおうと考えました。
大内氏にとっては運良く、このころ尼子氏では謀将と名高い尼子経久が亡くなっており、力も弱まったと考えられたようです。
家中からも賛成の声に押され、天文十一年(1542年)正月、尼子討伐軍が出発。
今日では「第一次月山富田城の戦い」と呼ばれる戦が始まります。
このとき、安芸から出雲に向かうルートを使っており、備後や石見の豪族たちも従軍していまs。
当時の義隆の威光がうかがえますね。
大所帯かつ途中で厳島神社に寄って戦勝祈願などもしていたので、出雲に着いた頃には既に4月頃。
しかし、尼子氏の本拠である月山富田城に着く手前の城攻略に1ヶ月以上を費やしてしまい、月山富田城の手前に本陣を置いた頃には既に10月になってしまいました。
旧暦の10月ですから、そろそろ冬が見えてくる頃合いです。
天然の要塞とゲリラに悩まされ、攻略に失敗
月山富田城は、天然の要害をさらに要塞化したような場所でした。
加えて、尼子軍はゲリラ戦術も取り入れ、そう簡単には揺らぎません。
そもそも、城攻めは城方が有利なものですし、本拠であればなおのことです。
大内軍の旗色の悪さを悟った豪族たちの中からは、天文十二年(1543年)4月末に尼子軍へ寝返る者も出始めました。
このままでは攻略ムリ!と見て、義隆は5月7日に撤退を始めさせます。
しかし、撤退戦が難しいのは戦の定番。
尼子軍の追撃は激しく、大内軍は総崩れギリギリのところまで追い詰められます。
しかもこのとき、義隆と別行動・海路で撤退しようとしていた養嗣子の大内晴持が、船の転覆という事故で水死してしまうのです。
なんでも「水に落ちた兵が船に乗り込もうとするのを、船上の漕手が棹で払い落とそうとして、バランスが崩れた」そうです。なんじゃそりゃ!
こうして義隆の尼子征伐は大失敗に終わりました。
跡継ぎがいなくなりゲッソリ落ち込む(ヽ´ω`)
征伐の失敗は痛いことです。
合戦に参加した家臣や国人たちの不満が溜まるという外的要因だけでなく、今回は大内氏の内部に及ぼした影響が凄まじいものとなります。
将来を期待していた晴持が水死してしまい、すっかり戦がイヤになった義隆が、文弱に傾ききってしまうのです。
どこの家でも跡継ぎが偶発的な事故で当主より先に亡くなると、だいたい激変しますよね……。
例えば仙石秀久の采配ミスで長男を失い、すっかり落ち込んでしまった長宗我部元親などが有名です。
晴持は土佐一条氏から大内氏に来た人で、見目麗しく文武両道、蹴鞠や管弦も得意で利発という、まさに義隆が好むタイプでした。
なんせ義隆は、晴持の死後、幕府に願い出て「義」の字を賜り、「義房」という名前を贈っているほどです。
養子とはいえ、義隆がどれほど晴持に期待し、父として愛していたかがうかがえますね……(´;ω;`)ブワッ
「義」の字は大内氏の通字のようにも見えますが、元々は義隆の父・義興が将軍家からもらったものだったので、義隆もそれに倣おうとしたのでしょう。こういうのはトラブルになりやすいですから。
当主がこんな感じで落胆モードであれば、当然、家臣たちにも動揺は広がります。
この頃の大内氏内では、いわゆる武断派と文治派の対立が極まっていました。義隆は基本的には文治派で、さらに文治派の中核となっていたのは義隆の寵臣・相良武任(さがらたけとう)です。
これに対し、武断派の中心は陶隆房(後の陶晴賢すえ はるかた・以降はこちらで統一)です。
家中の文官・武官の対立が湧き上がり……
実は陶晴賢は、若いころ義隆の衆道の相手でもありました。
この頃はいい年なのでそういう関係ではなかったと思われますが、感情だけは残っていたと思われます。
まぁ「恋愛と友情は紙一重」「恋の火は、時として友情の灰を残す」なんてことも言われますし……主従間における忠誠心も、似たようなものなのかもしれません。
また、武任の娘は美女だったと伝わっているので、父親も見た目はいいほうだったのではないでしょうか。
武任のほうが陶晴賢よりも二回り近く年上なので、現代風にいうなら「ナイスミドル」とか「ロマンスグレー」みたいな、いい感じのおじさまだったのかもしれません。
そんなこんなで、陶晴賢の中では武任に対して
「日頃からお前のことは気に食わなかったんだよ!」
みたいな感情がじりじりと燃え上がっていきます。
ついでにいうと、武任は陶晴賢が自分を嫌っていることに気付いていたようで、自分の娘を陶晴賢の息子に嫁がせて懐柔しようとしたことがありました……が、完全拒否されてしまいます。
陶晴賢は優秀な武将ではあるのですが、「一度思い込んだら再評価しない」という融通の利かない面が強かったようです。
「身分の低い者には優しかった」という話もあるので、実利や名誉・立場が絡むと厳しい価値観になっていたんですかね。
とはいえ、この時点ではそこまで致命的な状況には至っていません。
毛利氏が東側を固め、九州からは肥前の龍造寺氏が「仲良くしましょう」(超訳)と言ってきたこともあり、大内氏の領地自体は拡大していました。
京風文化の華開き、位階も上級貴族並に高くなり
領地の大きさだけではありません。
大内氏の勢力下では、貿易によってもたらされた富と、義隆自身が学問・芸術を好む質だったため、山口を中心に京風の文化が強まっていました。
仏教についても、武士の多くが好んだ禅宗だけではなく、より歴史の長い天台宗や真言宗の僧侶を招いたりしています。
他、儒学や神道、雅楽、有職故実も自ら学んでおり、それらを教える公卿らの下向も歓迎、知行を与えたり経費をかけて厚遇しています。
そのおかげか、義隆の官位もガンガン上がり、天文十七年(1548年)には従二位にまで上っています。
位階ランキングで上位四番目であり、親王や内親王であれば「二品の宮」と呼ばれるほどの高さです。
【位階ランキング】
①正一位 ← 1番上
②従一位
③正二位
④従二位 ← ココ
つまり、義隆は戦国大名でありながら、天皇の子女と同格になったということです。
これは将軍以外では前例がないほどのことでした。
また、義隆は日民貿易を重視したこともあり、外国文化への理解もあるほうでした。
信仰こそしなかったものの、山口を訪れた宣教師フランシスコ・ザビエルに領内での布教を許しています。
当時の大内氏の領地が日本のおおよそ1/10あたることを考えると、ヘタしたら国民の1/10がキリシタンになってしまう可能性もありえたわけで、地味に危ないことでした。
実際には、その後の宣教師たちが
「日本人に説教しても、質問し返してくるからなかなか布教が進まない」
というような話を書き残しているので、そう簡単にはいかないんでしょうけど。
義隆の替わりに担ぐ神輿さえいれば……
武断派の陶晴賢からすれば、こうした流れもイライラの原因です。
義隆は、陶晴賢の謀叛によって最期をとげるのですが、謀叛の理由として、痴情のもつれの他に
「義隆様はすっかり柔弱になってしまわれた!
それもこれもあれも、全ては武任みたいなナヨっちい奴が媚を売るからに違いない!!
アイツを殺せば、義隆様はまた武士らしくなってくださる!
……それでもダメなら……」
みたいな考えがあったようです。
ちなみに、陶晴賢の父・陶興房(すえ おきふさ)は、義興の代から義隆が家督を継いでしばらくの間の重臣でした。
前述の通り、大内氏では代替わりごとの恒例行事みたいなペースで重臣の討伐をしていたのですが、義隆の代ではそれが行われていません。
もしも義隆が興房を誅伐していたら……。
痴情のもつれも息子・陶晴賢の謀反もなかった可能性があります。まあ、「IF」の話ですけどね。
そんなこんなで、募る陶晴賢のイライラ。
当初は「義隆を強制的に隠居させて、幼い義隆の息子・大内義尊(おおうち よしたか)を次の当主にする」という計画もあったようです。
しかし、義尊の母・おさいの方が元々義隆の正室である万里小路貞子の侍女だったこと、義隆と貞子の夫婦仲が良くなく、当時とは異例ともいえる離婚をしていること、おさいの方の素行に疑問があったことなどから、「義尊は義隆の実子ではない」という疑いがありました。
仕方がないので陶晴賢は別の神輿を探すことにします。
目をつけられたのが、かつて義隆の猶子になっていたことがある大内義長(当時は晴英)でした(義隆には当時もう一人息子がいたのですが、幼すぎて無理だと考えられたようです)。
追い込まれて自害 享年45
実は、義尊が生まれる前に「もしもこの先、義隆に息子が生まれなかったら」という条件付きで、義長が義隆の跡継ぎ候補になっていたことがありました。
そこに義尊が生まれたため、義長との縁組は一度解消されていたのです。
陶晴賢にとっては、渡りに船。
年齢・血縁・健康の条件が全て揃う義長を再び迎えるのがベストだと思われました。
こうなると、もはや止まりません。
既に大内氏の内側でも、陶晴賢の謀反は公然の秘密状態になっていたようで、しかし肝心の義隆は信頼しきっており、討伐どころか調べさえしていなかったという……。
天文二十年(1551年)頃には、「義隆親子の殺害と義長擁立」の路線が確定。
同年8月に実行され、9月1日には義隆が自害します。享年45。
息子の義尊は一度は逃げたものの、その日のうちに陶晴賢に殺されてしまいました。義隆の姉妹なども自害し、大内氏の縁者はほとんどいなくなってしまいます。
「大寧寺の変」と呼ばれる事件です。
ただし、義隆の息子で、この時点では助かった人もいました。
義尊よりも幼かった大内義教(よしのり・亀鶴丸)と、当時生まれていなかった大内義胤(おおうちよしたね)です。
義教は同年11月に捕らえられて処刑されましたが、一応生存説もあります。
義胤は石見に逃れて生き延びたようですが、詳しい生涯がわかっていません。この状況では、そのほうが幸せかもしれませんが。

大寧寺(長門市)にある大内義隆主従の墓所/photo by TT mk2 wikipediaより引用
もしも滅亡しなけりゃ後の毛利躍進も?
当時の大内氏で一番長生きしたのは、おそらく義隆の母・東向殿です。
大寧寺の変の時点で80歳を超えていたとも言われ、そのためか陶晴賢も追手を差し向けてはおりません。
東向殿が亡くなったのは、永禄二年(1559年)とされています。
孫の大内義長よりも後のことでした。
義長は毛利氏に敗北の後、自害を強要されてこの世を去っているのです。
「子に先立たれる」のは戦国時代にはままあったことですが、孫までというのは、輪をかけて悲しい話ですね……。
「東向殿が優しすぎたから義隆も似たのだ」という見方もあるようですけれども、少なくとも尼子氏にボロ負けするまでの義隆はそれほどでもありません。
やっぱり本人の切り替え方がマズかったのでしょう。
そもそも豹変した理由も義理の息子を失ったからですし……晴持が亡くなってから実子・義尊が生まれるまで20年以上は経っています。
大内氏を滅ぼさないためには、晴持が亡くなった後、できるだけ早い段階で義隆に息子が生まれるのが一番だったでしょう。
その場合、あの毛利元就も、今日語られているほどの立場にはならなかったのかもしれません。
陶晴賢は、厳島の戦いで元就に滅ぼされ、そして中国地方に毛利王国ができるのでした。
【関連記事】厳島の戦い
長月 七紀・記
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【参考】
国史大辞典「大内義隆」
大内義隆/wikipedia