伊達稙宗/wikipediaより引用

伊達家 その日、歴史が動いた

伊達稙宗(政宗の曾祖父)がカオス過ぎ!天文の乱を機に東北も戦国大混乱へ

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天文の乱がなければ謙信の上杉家当主もなかった!?

こうして家中に不穏な空気が漂う中、天文十一年(1542年)、稙宗は鷹狩りの帰路で息子である晴宗に襲撃され、とっ捕まって幽閉されてしまいます。

おそらく晴宗としては、トーチャンを無理やり隠居させて当主になり、「代替わりしたから、親父がやろうとしてたことは全部帳消し!」とするつもりだったのでしょう。

が、今度は、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)が稙宗を救出したため、話が余計こじれてしまいます。

宗朝は若い頃から稙宗の世話になっており、後には殉死したほどの人物です。
このときも「殿の窮地をお救いしなければ!」と忠義に燃えていたのでしょうね。

これをきっかけとして「天文の乱」というカオスな戦が始まってしまいます。

そもそも「父 vs 子」という構図です。
その上に、奥州のほとんどが親戚同士になっていたため、どこを切り取っても「親戚 vs 親戚」という骨肉の争いに発展。
もはや何のために養子や嫁をやったのかわからない有様です。

しかもそう仕向けた張本人が火種だというのです。
養子や嫁に行った子供たちも「オヤジ何してんだよ!」と言いたかったことでしょう。

当初は稙宗方が有利でしたが、稙宗の娘婿(の一人)・蘆名盛氏が晴宗方に寝返ってからにわかに形勢が逆転します。
最終的には、天文十七年(1548年)、十三代将軍・足利義輝が仲裁し、稙宗が晴宗に降伏して家督を譲ることで収まることとなりました。

しかし、この戦のせいでこれまで支配下に置いてきた大名が次々に独立してしまい、伊達家の勢力は一気に落ちることになります。
身も蓋もない言い方をすると、「せっかく自分で味方につけた家を、ささいなワガママで全部手放してしまった」ということになってしまったのです。

ちなみに、天文の乱の発端の一つだった実元の上杉家への養子入りはご破算となり、定実は長尾景虎=上杉謙信に名跡を継がせることになっていきます。

上杉謙信/wikipediaより引用

つまり、稙宗の「100人部下つけちゃう♪」発言がなければ、謙信は上杉家の当主にならず、実元の下かつ伊達家の下になっていた可能性がありますね。

謙信の性格上、家中から推されれば実元に逆らって当主になった可能性もありますが……そこまでいくと「IFのIF」なのでそのへんにしておきましょう。

 

結果的に、政宗を補佐する成実も誕生で、伊達家的にはOK?

天文の乱以降、奥州ではgdgdの戦が多発します。

どういうことか。簡単に図式化しますと……。

①A家とB家がトラブる

②戦が始まる

③「親戚だからこの辺で手打ちにしよう」or「雪の時期だからこの辺で(ry」という話になる

④一応戦をやめる

⑤しばらく経って最初に戻るor別の家と似たような戦を始める

⑥エンドレス\(^o^)/

こんな感じです。
しかもこれが大名同士だけでなく、親子間でも起きます。

関東も有力者が出なかったために秀吉の統一まで戦乱が長引きましたが、東北の場合は半分以上、稙宗の失策でgdgdになったようなものかもしれません。
稙宗の曾孫である政宗が、小手森城(現・福島県二本松市)で撫で斬りを行ったのは、こうした悪習を断ち切るためでもありました。

メリットがあったとすれば、実元がその後(たぶん)異心なく、兄・晴宗に仕えたことでしょうか。

実元は晴宗の娘(実元からみて姪っ子)を正室に迎え(させられ)、息子・成実をもうけています。
政宗の家臣として名高く、現代でも人気の高い伊達成実ですね。

成実は政宗のイトコとしてよく支え、「成実記」という政宗の説話集を書いています。
一時期、出奔したことがありますが、その辺もまた後日ということで。

伊達政宗/イラスト・富永商太

稙宗本人は、その後永禄八年(1565年)で亡くなるまでおとなしくしていたようです。

政宗が生まれる二年前のこと。
もし顔を合わせる機会があれば、政宗は「ひいじーちゃん勘弁してよ」くらいは言いたかったでしょうね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
伊達稙宗/wikipedia
文化遺産オンライン

 



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