内閣総理大臣在任時の鈴木貫太郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

鈴木貫太郎は「天皇に唯一”お願い”された男」その不屈の生涯とは?

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明治・大正・昭和の三年号は120年ほどしかありません。
となると、その時期の歴史的事件をすべて体験した世代もいたということであり、過酷な運命をたどった方もおりました。

昭和二十三年(1948年)4月17日に亡くなった鈴木貫太郎もその一人です。

終戦時の総理大臣ということでご存知の方が多いですかね。
彼の生涯はまさに【近代日本の縮図】といってもいいような流れでした。

 

関宿の出=旧幕府の手先

鈴木が生まれたのは慶応三年12月24日(旧暦)。
誕生日直前に大政奉還(1867年10月)が実施され、まさに江戸幕府が終わろうとしていた年のことでした。

家は関宿藩(せきやどはん/現・千葉県野田市の北端)の代官をやっていたので、そこそこな身分といっていいでしょう。
それが鈴木にとっては仇になってしまいます。

というのも、関宿藩は交通の要衝であったことから代々譜代大名が治めることになっており、当然、明治新政府からは
【関宿の出=旧幕府の手先】
なんて見方をされていたものです。

鈴木の年齢からして、幕府のご恩なんて関係なさそうなもんですが、海軍に入ってからなんやかんや言われたとか。

近代化を謳う明治の軍隊がそれでいいのか?

鈴木としても「んなもん知らんがな(´・ω・`)」としか言いようがなかったでしょう。

 

【日清戦争】の直後であり【日露戦争】の直前であり

進級その他でうんざりするほどの差別を受けた鈴木は、一度海軍を辞めようとします。

が、とき折りしも【日清戦争】の直後であり【日露戦争】の直前です。

北の大国と一戦交えそうだ――。
そんな空気は国内でも日に日に強まっていたらしく、地元の父親からは手紙も届きました。

「軍に入ったからには、国を守るためにしっかり働け」
そんな父の言いつけに従い、辞職を思いとどまった鈴木は、気合を入れて日露戦争に臨みます。

部下から「鬼の貫太郎」「鬼の艇長(船長)」「鬼貫」と恐れられていた鈴木。
猛訓練の末、日本海海戦を勝利に導くことに成功します。

鬼鬼言い過ぎな気もしますが、他に形容詞が思いつかないくらいおっかなかったんでしょう。
普段は温厚な人でしたので、豹変っぷりがあだ名を導いたのかもしれません。

日露戦争後はドイツへ駐在員として赴任し、贈賄事件の後処理に当たりました。
この頃には偏見の目で見られることもなくなっていたようで、順調に出世していきます。

 

天皇の侍従に

時は流れ、昭和四年(1929年)。
昭和天皇ご夫妻の希望で、鈴木は全く違う仕事に就くことになりました。

侍従長――簡単に言えば宮中お世話係のリーダーです。

なぜ根っからの軍人だった鈴木が指名されたのか?
それはよくわかりませんが、既に陸軍が張作霖爆殺事件(昭和三年・1929年)を起こした後ですから、海軍出身者をそばに置くことでバランスを取ろうという狙いだったのかもしれません。

本人は侍従の仕事には向いていないと思っていたそうです。
実務については経験豊富な人に任せ、主に昭和天皇の相談役を務めていたようです。

鈴木は昭和天皇より30歳以上の年上でしたし、明治の激変を生きてきた人物として頼れる人物であるとお考えだったのでしょうか。
しかし、これによって鈴木は生死の境を彷徨うことになります。

昭和十一年(1936年)の二・二六事件では「君側の奸」(主君の側のけしからん奴)というレッテルを貼られ、殺害ターゲットの一人に選ばれてしまったのです。

 

二・二六事件で絶命寸前

左足・左胸・頭部に銃弾を受け、さらに軍刀で止めを刺されかけた寸前。
妻のたかが身を挺して庇ったとされます。

しかもその庇い方がスゴイ。

「老人ですから、止めを刺すのはやめてください。どうしてもというなら、わたくしが致します!」
そんな台詞だったというのですから、襲撃者達も引かざるを得なかったでしょう。

襲撃班のリーダー・安藤輝三が鈴木と以前話したことがあり、最終的にトドメを刺す気がなくなってしまったという理由もあります。

なら、そもそも襲うなよ……という気になりますが、実際に発砲命令を出したのは安藤ではなく、撃ったのも兵卒だったので仕方ない。

というか「君側の奸」って主君が判断することであって臣下が決め付けるものじゃないと思うんですけども。
この重大すぎる勘違いで、いったい歴史上何人の忠臣が殺されてしまったのか。

 

終戦まぎわに総理大臣に

まぁ、それはさておき太平洋戦争終結の年――。
昭和二十年(1945年)4月、鈴木は総理大臣に任命されました。

このとき鈴木は枢密院(天皇が各所へ質問するときに通す役所のようなもの)の院長を務めていたため、またしても全く違う仕事を命じられたことになります。

枢密院自体が天皇の信任が厚くなければできない仕事ですし、総理となればなおさら。
昭和天皇は本当に鈴木を頼りにしていたのでしょう。

他の重臣達もほぼ異議はなく、辞退しようとする鈴木に対し
「もう他に人はいない。どうか頼む」
とまで仰っていたそうです。

これを指して鈴木を「天皇に唯一”お願い”された男」と言うこともありますね。

このとき既に鈴木は77歳。
現在に至るまで最高齢の総理就任です。

1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣/wikipediaより引用

 

またしても凶刃に襲われ

日に日に悪化する情勢に対し、終戦工作を続け、ソ連の裏切りにより一時頓挫。
国内外のマスコミがポツダム宣言について穿った報道をしたことも相まって、さらに状況は悪化します。

鈴木は最終的に「天皇の名の下に起きた戦争は、天皇の名によって終わらせるほかない」と考えます。
そうでなければ国民が納得せず、更なる死者が増えることを懸念してのことでした。

これは昭和天皇にも受け入れられ、玉音放送が決定されます。

が、鈴木をまたしても凶刃が襲います。

終戦に納得いかない一部の軍人が降伏阻止を図り、鈴木をはじめとした要人の殺害とクーデターをしかけたのです。
間一髪で鈴木は助かりましたが、敗戦と事件の責任を取り、内閣ごと辞職しています。

その後は「敗軍の将である」ということで積極的に政治へ関わろうとはしませんでした。
二回暗殺されかけて命が惜しくなっただけではなく、元とはいえ軍人が政治に関与することは相応しくないと考えたのでしょう。

自ら「敗軍の将」という単語を出すくらいですから、実質的にはとっくのとうに軍を離れていても、自分は「軍人」であるという意識が残っていたと思われます。

 

肝臓がんによって80歳で逝去

こうして日清・日露戦争から太平洋戦争という、日本史上最も大きな苦難の時代を生き抜いた鈴木。
最後は肝臓がんによって80歳で亡くなりました。

時代的にも役職的にも、おそらく気の休まる日はほとんどなかったことでしょう。

教科書などでよく見かける、鈴木の総理大臣時の写真にはその生き様がよく表れているように思われます。

内閣総理大臣在任時の鈴木貫太郎/wikipediaより引用

憔悴しきったと見ることもできますし、国家最大の危機に対し決然とした面持ちであると捉えることもできるでしょう。

などとエラソーに言っているワタクシも、ただ暗記させられた学生時代には特に何も感じられませんでした。
今改めてお顔を拝見すると、一体どのような気持ちでそれぞれの職務を務めておられたのだろう、と考えてしまいます。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
鈴木貫太郎/wikipedia

『鈴木貫太郎自伝 (中公クラシックス)』(→amazon link

 



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