ウィリアム一世/Wikipediaより引用

イギリス フランス その日、歴史が動いた

『ノルマン・コンクエスト』とは?英仏のゴタゴタからノルマン朝始まる

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「不良が更生してマジメになった」という話はたまに聞く一方で、その逆「いじめられっ子が不良になって暴れまわった」とか、あまり聞きませんよね。

現実にはそういうケースもあると思いますし、歴史においても後者のケースがありました。

”いじめられっ子”は後の大英帝国ことイングランド。
そしていじめていた方は、何かと因縁のあるフランスの人です。

この辺のことをまとめてノルマン・コンクエストといい、そもそもは1066年(治暦二年)9月28日にフランス人・ウィリアム1世がイングランドへ攻め込んだのが発端でした。

フランスにいた頃はギヨームと名乗っていたのですが、ややこしいのでいつも通り後のほうのお名前で統一しますね。

 

北欧のデーン人に征服されていた

イングランドはそれまでもイングランド人の国があったわけではありませんでした。

北欧はデンマークからやってきたデーン人というゲルマン民族の一部族が海を渡ってきていて、やはり征服されていたのです。抵抗してはいますけども。

つまりトップがすげ変わっただけで、一般民衆は征服されていた期間を含めてイングランド人のままということになります。
「国家は国民の民族に基づく」という考え方であれば、イングランドはずっとイングランド人のものと考えることもできますね。

海を渡ってきた異民族に二度も征服されていれば、そりゃあ後々大航海時代になって似たようなことをやるのもうなずけます。
攻められた方は大迷惑ですけど……。

そもそも、なぜフランスの人がブリテン島(イギリスの大部分を占めるあの島)へ行ったのか?
というと、これまた難解で「はぁ?」と反応するほかない経緯がありました。

 

イングランド最初の王朝はノルマン朝

当時のイングランドは、王様が亡くなったばかりでゴタゴタの真っ最中。
フランスはフランスでお家騒動の真っ最中。

そこにフランスのハロルドという人が「ウチの妹の旦那がイングランド王やってたけど、この前死んだから次は当然俺が王様な! 決定!!」(超訳)とのたまったので、さぁ大変なことになってしまいます。

かつてドーバー海峡を渡ろうとして難破したところを助けてやっていたウィリアム1世としては「アイツ何言っちゃってんの?」と思ったことでしょう。

また、ハロルドの弟であるトスティという人もこれを不服として、二人はブリテン島に出兵したのでした。

しかしこの二人は協力関係にはなく、ハロルドを含めた三つ巴状態。
ですので、まずウィリアム1世はトスティと戦ってケリをつけた上でハロルドを片付けにかかりました。

途中で「味方は騎兵中心なのに、歩兵が主力のイングランド軍に押される」という摩訶不思議な事態も起こりましたが、最終的にはウィリアム1世が勝利を収め、ハロルドを討ち取ります。

こうしてイングランド最初の王朝は、ウィリアム1世の地元であったノルマンディー地方の名を取って”ノルマン朝”と呼ばれるようになりました。

つまり、彼以降のイングランド王はフランス人の血がちょっと入っているわけです。
そりゃ百年戦争やらなんやらで大陸側の領土を欲しがりますよね。

 

 親戚へ攻めこむのも欧州では日常茶飯事

この影響でノルマン朝では長くフランス語を上流階級の言葉として重用していましたが、上述の通り国民はイングランド人なので、徐々にフランス語の単語を取り込んだ英語が広まっていくことになります。

19世紀になってイギリスとフランスは「ドイツ何とかしようぜ」ということで手を組みます。その頃には王様の血筋が全く違うものになっていたからうまく行ったのかもしれません。

ちなみにその頃のイギリス王家はドイツ系なので親戚を攻めるようなものですが、ヨーロッパでは日常茶飯事なので大丈夫だ、問題ない。

むしろ、ずっとケルト系の民族だったイングランド以外の地域=スコットランド・ウェールズ・アイルランドなどのほうが問題でした。

独立騒動はいつでも燻っている感じで、そりゃ民族が違うんだから反発も起きますよね。
歴史的政治的な問題もありますし。完全に諦めたわけでもなさそうですし、これからどうなることやら。

長月 七紀・記

【参考】
ウィリアム1世/Wikipedia

 



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