斎藤利政(斎藤道三)が中国の兵法書『孫子』を愛読している――そんなセリフが2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でありました。
あの有名な「風林火山」も『孫子』から来ており、ドラマなどでも引用されるシーンが見られます。
世界レベルで見ると、本国の『孫子』マニア・曹操は、袁紹との決戦中ですら注釈をつけていたというのですから筋金入り。
フランスの英雄・ナポレオンまで読んでいたなんて話もあるほどです(諸説あり)。
それにしても……。
いったい孫子の何がそこまで凄いのか?
今なお日本の書店に並び、ビジネス書としてのノウハウも提案し続けている――。
『孫子』の真髄を考察してみましょう。
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『孫子』は中国最古にして最良 世界屈指の「兵法書」
中国には「武経七書」とされる七種の兵法書があるとされてきました。
それが以下の通りです。
『孫子』
『呉子』
『尉繚子』
『六韜』
『三略』
『司馬法』
『李衛公問対』
この中でも『孫子』こそ最善であるという評価が定着。
まずは同書の作者である孫武(紀元前6世紀)の、嫌すぎるプレゼン術『孫子姫兵を勒す』から学んでみましょう。
それはざっと以下のような話です。
あるとき呉王・闔閭(在位前515~前496)は孫武にこう言いました。
「先生の著書はざざっと読んでみました。大したもんですねえ。でも、実践テクニックとしてはどうなんでしょう。そうだ! 余の可愛い美女180人を訓練してみてくださいよ」
孫武は、後宮の美女を二手に分け、指揮官役を任命、訓練を開始しました。
しかし、どうにもうまくいきません。
王の寵愛を受けて来た女性たちですから、真面目にやる気がありません。何かあるごとにいちいち笑ってしまい、ダメなのです。
そこで孫武はこう宣言しました。
「こうもだらけきって訓練ができないのは、指揮官が無能だからですね。よって指揮官二名を処刑します」
これに焦ったのが闔閭です。
「待ってぇええええ! その子たちは余のお気に入りなんだ、死んだらご飯の味もわからなくなるから殺すなーッ!」
闔閭が助命嘆願しますが、孫武は構わず斬首。
この結果に驚いた寵姫たちは、途端に身が入り、猛特訓に励んで強い兵士となりました。
「なんということでしょう! 彼女らは素晴らしい兵士になりました、どんな激戦地だって進軍します!」
そうビフォーアフターを誇る孫武に、闔閭は引きつった顔を浮かべています。
「やっていいことと悪いことの区別、わっかんねーかな……てめえと同じ現場だけは入りたくねえわ……」
しかし孫武は動じません。
「ほへー、結局口だけなんですね。真面目に戦争して勝利する気ないんで?」
「うぐぐぐぐぐ……」
闔閭がどれだけ腹が立ったことでしょう。
殺す以外に、規律を守らせる手段はなかったのか?
よりにもよって、トラウマになりそうなことをしなくてもよかったのでは?
とはいえ、一理あることは確か。結局彼のことを採用し、呉は強くなります。
楚に勝利を収め、北は斉、晋に脅威を与え、天下にその名をとどろかせたことは史実なのです。
いかがでしょう。
こんなプレゼン術を真似する勇気がありますか?
そこは冷静になったほうがよさそうですよね。
『孫子』と『孫臏兵法』は別の書物
そんな孫武の子孫に、孫臏(前4世紀後半)がおります。
斉に仕えていた孫臏は、同僚の龐涓に陥れられると、魏で「臏(両足の膝蓋骨を切り取られる酷刑)」に処せられ、歩けなくなりました。名はそこから取ったとされています。
たとえ歩けずとも軍略に優れていた彼は、斉・威宣王に重用されました。
そして前341年には【馬陵の戦い】で宿敵・龐涓を打ち破る戦果をあげるのです。
孫臏は、なまじ孫氏なだけに『孫子』の作者はどちらなのかとされてきました。
これは決着したと言えます。
1972年、臨沂・銀雀山の漢代墓葬から竹簡資料が出土し、孫臏学派の兵法書が大量に発見されたのです。
そこを踏まえまして、本稿では孫子=孫武として、孫臏とは区別して扱いますのでご了承ください。
孫氏の子孫に『三国志』の孫堅がいるとされてはおります。
ただ、陳寿ですら、そこをぼかして記述しているほど。
劉備の「漢王朝の子孫である」という主張と同様、信憑性はかなり低いものです。
孫氏はむしろ名門ではありません。
地元に根付いていた名門「呉郡四氏」(顧・陸・朱・張の四氏、陸遜の陸氏らを含む名門)との軋轢があったとされています。
孫氏の盛った話はそれとして、『三国志』の英雄たちと『孫子』について話を進めましょう。
『孫子』は『三国志』にも大いに関係あり
『三国志』において、とにかく『孫子』と関わりが深いのが曹操です。
長い戦乱の中、著作が散逸しがちな中国大陸。
そんな中、コレクター魂みなぎる曹操は『孫子』を集め、しかも自らノリノリで注釈を入れました。
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当然ながら暇だったわけではない。
群雄が割拠し、宿敵・袁紹との対決が迫る時期に、注釈を入れていたようです。
そのおかげもあってか。
曹操は当時でもトップクラスの強さを誇りました。自分自身でバリバリに作戦を立て、家臣とはその練り込みをするわけです。
この注釈を入れるという作業そのものが、なかなか重要でして。
『三国志』そのものも制約があって物足りない――そんな陳寿の記述に対する裴松之の注あってこそと言えます。
ところが後世の人間は、この『魏武注孫子』に複雑な思いを抱くこととなります。
「こいつ(曹操)が集めて注釈入れなければ、ここまでしっかり残っていないと思うんだよね……」
「でも、こいつ嫌いだわ〜。人間のクズでしょ」
「わかるわ! こいつ以外、例えば諸葛亮様あたりが注釈つけていて欲しかったよね!」
「諸葛亮様の兵法書の方が絶対いいって!」
「それにこいつ性格がアレだもんな。絶対なんか変な改変しているよ!」
そんな改竄疑惑を抱かれていた曹操。
現在では書簡の発掘も進み、真面目に注釈をつけていたということが判明するようになりました。よかったですね、おめでとうございます。
ちなみに「アイツはクズだから偽の墓もあるんだよ! しかも罠まみれだかんね!」という疑惑も解消されました。
しかも、贅沢とは無縁のシンプルな埋葬スタイルが称賛。
発掘が大きく歴史を変えました。
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信玄が「風林火山」を掲げた真の理由
さて『三国志』から時代と国を一気に飛ばしまして。
『孫子』といえば、武田信玄。
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特に旗に記された「風林火山」の文字は有名です。
これを、字義だけでとらえていると、見えてこないこともあります。
あの旗で信玄がアピールしたかったこととは?
それは「俺は『孫子』マスターだ!!」という自信です。
なんせ戦国時代は、明からの輸入品がステータスシンボルでした。
明サイドの海禁政策もあり、プレミアはどんどん高まっていったため「どんなガラクタでも、日本に持ち込めば高値がつくぞ!」なんてことすら言われていたこともあったほど。
戦国時代のリッチ層は、明からの食物を楽しみ、書籍や茶器集めで楽しんでいたのですね。
そんな時代に、漢籍である『孫子』を取り寄せ、マスターしているとアピールすることで己の物流パワーを自慢し、敵に威圧すら与える。
いわばステータスシンボルとして見せつけよう!という信玄の気持ちがそこにあったんですね。そして……。
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