ポーリーヌ

ポーリーヌ/wikipediaより引用

世界史

ポーリーヌの美貌と奔放~ナポレオンの妹がこんなにエロいはずが

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ポーリーヌ
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そんな噂は、当時でも恰好の話題となりました。

「あんなに美人でエロい妹なら兄だって、ねえ」

ナポレオンの妻ジョゼフィーヌまでもが、ナポレオンとポーリーヌの仲を訝しむ有様です。

ジョゼフィーヌはナポレオンが妹と「親密に抱き合う」場面を見て泣き崩れてしまったとかなんとか。

ポーリーヌはジョゼフィーヌが大嫌いで、ことあるごとに嫌がらせをしました。

そんな嫌がらせには、美女を愛人としてみつくろって兄に紹介することまで入っていました。そうした行動が周囲を誤解させたとしてもおかしくはありません。

1810年、ジョゼフィーヌが離婚された際には、ポーリーヌは大喜び。

その一方で、兄が再婚すると、再婚相手に夢中にならないかとやきもきしています。

この兄の結婚相手を異常なまでに気にして憎む性格も、「あの兄妹はあやしい」という噂の一因なんでしょうね。

また、ポーリーヌとナポレオンは、マウストゥーマウスのキスをすることもありました。

ナポレオンは「これはコルシカの習慣だ」と弁明しましたが、周囲からは「そりゃないでしょ!」と思われてしまいます。そりゃそうっすな。

悪意を持つ人々はこっそりと、彼女を「メッサリナ(娼館に入り浸ったとまで言われたローマ帝国クラディウス帝妃)」と呼んだほどでした。

 

帝国の衰退、そして兄ナポレオンの退位

そんなポーリーヌの愛人の一人に、若い軽騎兵カヌーヴィルという男がいました。

彼は軽率だったらしく、あるあやまちを犯します。

ナポレオンはロシア皇帝のアレクサンドル一世から、黒貂の毛皮を使ったコートを贈られていました。

そのうち一着がポーリーヌに譲られます。ポーリーヌはこれをダイヤモンドのボタンをつけた騎兵の上着に作り直し、カヌーヴィルに与えました。

カヌーヴィルはこの上着を身につけ、よりによって皇帝の閲兵に参加したのです。

さすがにこの行為にはナポレオンも激怒!

カヌーヴィルはイベリア半島からロシアまで、ヨーロッパ各地に飛ばされ続け、1812年のロシア遠征で命を散らします。ポーリーヌはその死を嘆きましたが……そうは言っても、彼が戦地にいる間には数々の美男と浮き名を流していたのでした。

カヌーヴィルの命を奪ったロシア遠征は、彼だけではなくフランス帝国そのものにも打撃を与えていました。

もしかすると兄の天下も、そう長くはないかもしれない。そう考えたポーリーヌは、宝石類をため込みいざという時のために使おうと決めていたのでした。

そして彼女の予感は当たります。

1814年、ナポレオンは退位に追い込まれたのです。

栄光を共にするのはたやすくとも、苦難を分け合うのは難しいもの。きょうだいも含めて、ナポレオンの周囲に群がっていた人たちは、あるいは顔を背け、あるいは裏切りました。

彼らの胸中にあるのはナポレオンと距離を置き、生活レベルと安寧を保つことばかりです。

もっとも彼らにも言い分はあるでしょう。

ナポレオンがイタリア遠征で頭角を現してからおよそ20年。勇者が疲れ果て、剣を置きたいと願うまでには十分過ぎる歳月でした。

血気盛んだった将兵たちも傷つき疲れ果て、栄光より休息を求めていたのです。

ナポレオンはエルバ島に流されました。

ポーリーヌもパリにある宮殿を去らねばなりません。

その壮麗な宮殿には、ナポレオンの宿敵・イギリスが誇る「鉄の公爵(アイアンデューク)」ことウェリントン公アーサー・ウェルズリーが住むことになりました。ポーリーヌが甘い夢を見た豪華なベッドに、公爵が眠ることになったのです。

ポーリーヌは自身の没落より、兄の心配をしていました。

彼女はエルバ島に流された兄のために、細々とした生活用品を用意し送ると、自ら島に向かい点検しました。

かつては兄に反抗したポーリーヌですが、エルバ島では兄の言うことを忠実に守り、「慰めの天使」の役割を果たしたのです。

ナポレオンの前妻ジョゼフィーヌはこの少し前に世を去り、後妻のマリア・ルイーゼは島を訪れようとしません。ポーリーヌと愛人のマリア・ヴァレフスカだけが、数少ない天使たちでした。

ポーリーヌは踊り、時にはナポレオンの部下の将軍に色目を使いながらも、兄の生活に潤いをもたらそうとしました。

かように兄を慰めていたポーリーヌですが、不安もありました。

兄は何か妄想しているらしい、上の空だと感じていたのです。

ポーリーヌ・ボナパルト/wikipediaより引用

そしてついにその日が訪れます。

「私はエルバ島を脱出し、パリに戻る」

ナポレオンの決意を聞いたポーリーヌは動揺します。

そうなったらきっともう、二度と兄には会えないだろう……。

それでもポーリーヌは兄を止めることなく、いざという時のために取って置いたダイヤモンドのネックレスを兄の軍資金として捧げたのでした。

いざという時には心根の優しい一面も持ち合わせていたのですね。

ポーリーヌの予測通り、ナポレオンはワーテルローの戦いで敗北しました。

百日天下の終焉です。

ナポレオンにとどめを刺したのは、ポーリーヌの宮殿で寝起きしていたあのウェリントン公でした。

今度はエルバ島のような近場ではなく、絶海の孤島セント・ヘレナ島に流されてしまうナポレオン。

ポーリーヌすらそこに行くことはできません。

兄妹永遠の別れでした。

 

「着る服だのパーティだの考えていればいい」

ナポレオンの百日天下で、どれほどの血が流れたか。

ナポレオン本人だけではなく、その軍資金を提供したポーリーヌにも厳しい目が向けられました。

彼女の行動は厳しい監視下に置かれます。

そして夫のカミッロは、ついに妻に離婚をつきつけます。

度重なる不貞、馬鹿に仕切った言動に耐えてきたのは、ポーリーヌが皇帝の妹であったから。誰もがひれ伏したヴィーナスのような美貌にも、少し翳りが見えて来ました。

ほっそりとした肢体には肉がつき始めて来ています。

カミッロには既に愛人がおり、彼はその人と結婚したかったのです。

「あの女は18のギャルみたいなドレスだけど、メイクの下は三十路女だよ」

この当時、ある人はポーリーヌをこう批判しています。

ポーリーヌも無能な夫には嫌悪感しかありませんし、エルバ島からは「私たちは性格があわない。このまま別居しましょう」という手紙をカミッロに送っていました。

しかし皇妹という称号を失った今、ボルゲーゼ大公妃としての地位と財産は絶対につなぎとめねばなりません。

1816年、両者はとりあえず歩みより、離婚は回避。ポーリーヌは莫大な財産と宝石の一部を所持することが認められました。

それまではフランスに暮らしていたポーリーヌも、もはやそこに居場所はありません。

改めてローマ貴族として君臨しなければならない、と張り切ったポーリーヌは、連日連夜派手なパーティを繰り広げます。

彼女は自らの美貌、兄の戴冠式でも身につけていた宝石、そしてあのカノーヴァのヴィーナス像を来客に披露することを楽しみにしていました。

その一方で、絶海の孤島セント・ヘレナにいる兄を忘れたわけではありません。

ポーリーヌはその魅力で、兄を捕らえているイギリスの政治家貴族たちを魅了し、悲惨な待遇改善のために運動をしていたのです。

ナポレオンを憎んでいるイギリス人たちも、彼女の前ではその魅力に屈服するほかありません。

かつては宝石を、そして今度は「ヨーロッパの宝石」と讃えられた美貌で、兄を救おうとしました。

しかし、その願いは届きませんでした。

セント・ヘレナから兄が酷い病に苦しんでいるという知らせを聞くのです。

絶望の底に落とされるポーリーヌ。陽気で勝ち気な性格も弱まり、輝くような美貌も衰えてしまいます。

すっかり痩せて頰の肉も落ちたポーリーヌは、あんなに誇りに思っていたヴィーナス像を来客に見せることすらやめました。

全盛期の完璧なスタイルと、今の衰えた肉体を、来客が比べてあざ笑うのではないか。

彼女はそう疑うようになったのです。

その頃、ポーリーヌの努力はようやく実りました。

ナポレオンの母レティツィアと叔父の一人は、迷信にのめり込んでナポレオンがセント・ヘレナから脱出したと信じ込み、彼に適切な医師を送ることを妨害していたのです。

ポーリーヌと弟のルイはやっとこの勘違いを撤回させることに成功しました。

セント・ヘレナを訪れた医師は、ナポレオンに「妹君がいつでもセント・ヘレナに来れる」と伝えました。

が、ナポレオンは、この惨めな姿を妹に見せるわけにはいかないと断ります。

「妹はローマにいさせなくてはならない。あの子は今でも若く、美しいかね?」

「えぇ、ポーリーヌ様はいまだ美しい方です」

「それはいい。あれは相変わらず着る服だのパーティだの、そういうことだけを考えていればいいのだ」

実のところポーリーヌは、今やドレスやパーティよりも、兄の健康が気がかりでなりませんでした。

セント・ヘレナから兄がいよいよ死に瀕しているという手紙を受け取ったポーリーヌは、イギリス政府に兄の待遇改善を求める手紙を書き、ロンドンに乗り込もうとします。

しかしポーリーヌがロンドンに乗り込む前、1821年5月、ナポレオンはその波乱の生涯を終えてしまいます。

享年51。

「イギリス人は人殺しよ!」

ポーリーヌはイギリスへの敵意を剥き出しにし、復讐を誓います。

それ以上に彼女の心を占めていたのは、兄に二度と会えないという絶望感でした。兄のことを思い生きてきた彼女は、目標を失ってしまったのです。

ナポレオンという人物が亡くなると、ポーリーヌらボナパルト一族への監視もなくなりました。

他の一族がアメリカに渡る等、新天地を求める中でポーリーヌはヨーロッパに残りました。彼女は自邸で残された一族の人々や来客を歓迎し続けました。

時代は移り変わります。

ファッションリーダーだったポーリーヌも、いつの間にか流行遅れになっていました。

彼女が若い頃流行した「体のラインがあらわになるドレス」も、今では悪趣味なものでしかありません。

20年間続けてきた人前で入浴する習慣は、かつてはセクシーで挑発的なものとして受け止められましたが、今では変人の行為とみなされました。

彼女はまだ美貌や気品を保ち、人々を魅了していましたが、歳月、病、そして愛する者たちの死は、その輝きを確実に蝕んでいたのです。

1825年、ポーリーヌは夫カミッロとようやく和解し、同居することになります。

しかし肝臓癌が肉体を蝕んでいました。

病に苦しめられた彼女は、己の死を悟ると、自らの遺品をどう分配するか口述筆記させ、防腐処理した遺体が身につける衣装や装身具を出し、鏡で己の姿を確認しました。

最期まで周囲が驚くほど優雅な態度を取り、1825年6月9日、44才の生涯を終えます。

皇帝が心配し、かつ賞賛し続けた「ヨーロッパ一の美女」は、その最期まで美しく演出したのでした。

 

彼女ほど自分の美貌を楽しんだ人はいない

結局、ポーリーヌ・ボナパルトって何なのだ?

そんなツッコミがあると思います。

マリー・アントワネットのような没落後の悲劇にも遭わず、最期までエレガントであった人生。

綺麗なドレスと宝石と、パーティにイケメンの愛人だらけという、まさしくセレブの生き方。

その一方で兄への献身的な愛情は高い人気を得ているそうです。

「彼女ほど自分の美貌を楽しんだ人はいない」という評価がぴったりですね。

そして彼女の人生から見えるナポレオン像。

そこにいるのは偉大な皇帝や冷酷な軍人というよりも、心配性で今風にいえばシスコン気味の兄という姿です。

「ポーリーヌは着る服だのパーティだの、そういうことだけを考えていればいいのだ」

この言葉からは兄の妹への深い愛情がうかがえます。

妙な噂が立ったのも納得してしまいます。

献身はそれなりにあるけれど、貞節や謙虚、そんな淑女としてのふるまいからは遠いポーリーヌ。

それでも彼女は気ままに美しく振る舞い、兄はじめ多くの男性たちの心をつかみました。

カノーヴァのヴィーナス像とともに、そんな彼女の人生は今でも輝きを保っているのです。

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文:小檜山青

【参考文献】

フローラ フレイザー/中山ゆかり『ナポレオンの妹』(→amazon

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