1493年6月9日(明応2年閏4月25日)は畠山政長が自害した日です。
いわゆる【明応の政変】で起きた出来事の一つであり、自害へ追い込んだのは細川政元。
実は、戦国時代の始まりが【応仁の乱(1467~1477)】ではなく、この明応の政変だとする見方もあるぐらい、重要な出来事だったりします。
それは一体どんな争乱だったのか。
明応の政変で起きた一連の出来事を振り返ってみましょう。
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まずは足利将軍の系図をチェック!
明応の政変、まずは三行で説明しておきましょう。
意味合いとしては「クーデターが起きました」だけで済んでしまうのですが、そこは何かとマイナス要素が連鎖する室町時代のことですから、経過を追えば追うほどツッコミどころがゴロゴロ出てきます。
まずは当時の政局から見ておきましょう。
10代将軍・足利義稙は、応仁の乱で西軍に擁立された足利義視(よしみ)の息子です。
田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる
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8代将軍・足利義政にとっての甥っ子であり、九代将軍・足利義尚にとってのイトコですね。
いったんその辺りの系図を見ておきましょう。
応仁の乱が西軍に不利な状態で終わったため、義視&義稙親子は美濃の守護・土岐成頼のもとへ落ち延びていきました。
しかし、九代将軍・足利義尚が長享三年(1489年)に若くして亡くなり、さらには兄弟もいなかったため、将軍の位がポッカリ空位。
田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる
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「最も血筋の近い人物が将軍位を継承すべき」という考えにのっとって、義稙が京へ迎え入れられたのです。もちろん、父である義視も一緒に……。
と思ったら、ここで別の候補者が現れるという、新たな問題が出てきました。
義視の息子である義稙はイヤなんだよ~
新たな候補者とは、足利義澄のこと。
義政や義視の兄である堀越公方・足利政知の息子で、京都の天龍寺香厳院主となっておりました。
まだ存命中だった足利義政や管領・細川政元からすると、義視は応仁の乱でドンパチしたばかりの相手ですから、その息子である義稙にはそう簡単に将軍位を渡したくない。
田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる
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そんな理由から義澄が引っ張り出されたのです。
室町幕府って、中枢人物の野望が剥き出しですよね……(´・ω・`)
彼らの父親は、政知・義政・義視という兄弟ですから、それぞれの息子たち義澄・義尚・義稙たちは全員イトコ同士の関係です。仲良くすりゃいいのに、権力や利害関係者が絡むとそうは簡単にいきません。
しかもこのときは他の要因も関係してきました。
足利義政の正室・日野富子から見ると、足利義稙は、彼女の血縁で甥っ子(義稙の母が富子の妹)だったので、富子は義稙を強く推したのです。
そして、義尚亡き後、政務に復帰していた義政が延徳二年(1490年)正月に亡くなると、義視の出家などを条件として、義稙の十代将軍就任が決定。
富子のおかげで将軍職が決まったようなものなので、富子の発言力は依然として強いままでした。
そのため、本来、幕政を取り仕切る立場の細川政元や伊勢貞宗たちは、義視&義稙親子との対立を強めていきます。
貞宗は、前将軍の義尚を養育した人物でもあり、富子の信任も厚かったのですが……貞宗の父・伊勢貞親が富子や義稙と因縁がありまして。貞親は、義稙の父である義視殺害を進言したことがあったのです。
結果、富子や義稙に睨まれ、そのせいか身を引いてます。
そして息子の貞宗も、義稙の将軍就任からほどなくして、政所頭人を辞任することになりました。
齢すでに40代半ばを過ぎていたため、年齢的に不自然ではありませんでした。
なんかあったら義澄を将軍にしちゃうからね!
しかし、富子のせいで話がこじれていきます。
「息子の義尚が住んでいた小川御所(小川殿)を義澄に譲渡する」なんてコトを言い出したのです。
義尚は短い在職期間ではありましたが、れっきとした九代将軍です。
その屋敷を受け継ぐということは「次はこの人が将軍です!」と暗に示すことになります。
血筋からして、義澄が将軍になる可能性はなくもない……というところですが、このタイミングでこれをやるということは、富子が次のような意思表示位したことを意味します。
「義稙に何か落ち度があったら、すぐ引きずり下ろして義澄を将軍にしちゃうからね♪」
これに対して義稙ではなく父の義視が大激怒。
さほど時間の経たないうちに富子に無断で小川御所を壊し、土地を差し押さえてしまいました。
応仁の乱(1467~1477)の頃から悪化していた義視と富子の関係は、これで完全に修復不可能になりました。
なぜか六角征伐に反対する政元
義視は延徳三年(1491年)の年始に亡くなり、この流れで富子と義稙の関係は悪いまま固定されます。
義稙は義稙で、前管領・畠山政長に接近したりして、いずれ対立は避けられそうになく……そんな緊張を和らげようとしたのか、それとは別に「こうすべき」と考えたのか。
義稙は、義尚の政策を引き継ぐような動きをしはじめます。
まずは近畿における国一揆収拾のため、父が亡くなったその年に、近江の六角討伐へ乗り出します。これは義尚がやり残したことでもありました。
しかし、また別の対立が強まってしまうから室町幕府ってややこしや。
管領・細川政元は、六角征伐には反対をしておりました。
義尚存命中にそんなことはなかったので、このタイミングでいきなり反対し始める理由がよくわかりません。
義稙が「六角征伐再開するからお前も参加しろ」といい出したとき、政元は修験道修行を兼ねた東国旅行をしていたところだったので「あの若造に邪魔された!」とでも思ったのでしょうか。
その修験道狂いが後に自分の身も滅ぼすのですが。
田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる
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とはいえ、この時点で政元一人では将軍の意向を覆せる状態ではありません。
多くの大名が参加し、政元も名代として家臣の安富元家を参加させます。
元家は六角軍に大敗してしまったため、義稙に『普段から口うるさいくせに弱々じゃねーか。細川氏なんていらなくね?』と思われ、他の大名を頼るキッカケを作らせてしまうのでした。
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