明応の政変

足利義稙(左)と細川政元/wikipediaより引用

細川家

戦国時代の始まりともされる明応の政変~細川vs足利で近畿の争いはドロ沼へ

1493年6月9日(明応2年閏4月25日)は畠山政長が自害した日です。

いわゆる【明応の政変】で起きた出来事の一つであり、自害へ追い込んだのは細川政元

実は、戦国時代の始まりが【応仁の乱(1467~1477)】ではなく、この明応の政変だとする見方もあるぐらい、重要な出来事だったりします。

それは一体どんな争乱だったのか。

明応の政変で起きた一連の出来事を振り返ってみましょう。

 


まずは足利将軍の系図をチェック!

明応の政変、まずは三行で説明しておきましょう。

室町時代の明応二年(1493年)春

・管領の細川政元が

・十代将軍の足利義稙を引きずり下ろしたクーデター

 

意味合いとしては「クーデターが起きました」だけで済んでしまうのですが、そこは何かとマイナス要素が連鎖する室町時代のことですから、経過を追えば追うほどツッコミどころがゴロゴロ出てきます。

まずは当時の政局から見ておきましょう。

10代将軍・足利義稙は、応仁の乱で西軍に擁立された足利義視(よしみ)の息子です。

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8代将軍・足利義政にとっての甥っ子であり、九代将軍・足利義尚にとってのイトコですね。

いったんその辺りの系図を見ておきましょう。

応仁の乱が西軍に不利な状態で終わったため、義視&義稙親子は美濃の守護・土岐成頼のもとへ落ち延びていきました。

しかし、九代将軍・足利義尚が長享三年(1489年)に若くして亡くなり、さらには兄弟もいなかったため、将軍の位がポッカリ空位。

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「最も血筋の近い人物が将軍位を継承すべき」という考えにのっとって、義稙が京へ迎え入れられたのです。もちろん、父である義視も一緒に……。

と思ったら、ここで別の候補者が現れるという、新たな問題が出てきました。

 


義視の息子である義稙はイヤなんだよ~

新たな候補者とは、足利義澄のこと。

義政や義視の兄である堀越公方・足利政知の息子で、京都の天龍寺香厳院主となっておりました。

まだ存命中だった足利義政や管領・細川政元からすると、義視は応仁の乱でドンパチしたばかりの相手ですから、その息子である義稙にはそう簡単に将軍位を渡したくない。

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そんな理由から義澄が引っ張り出されたのです。

室町幕府って、中枢人物の野望が剥き出しですよね……(´・ω・`)

彼らの父親は、政知・義政・義視という兄弟ですから、それぞれの息子たち義澄・義尚・義稙たちは全員イトコ同士の関係です。仲良くすりゃいいのに、権力や利害関係者が絡むとそうは簡単にいきません。

しかもこのときは他の要因も関係してきました。

足利義政の正室・日野富子から見ると、足利義稙は、彼女の血縁で甥っ子(義稙の母が富子の妹)だったので、富子は義稙を強く推したのです。

そして、義尚亡き後、政務に復帰していた義政が延徳二年(1490年)正月に亡くなると、義視の出家などを条件として、義稙の十代将軍就任が決定。

富子のおかげで将軍職が決まったようなものなので、富子の発言力は依然として強いままでした。

そのため、本来、幕政を取り仕切る立場の細川政元や伊勢貞宗たちは、義視&義稙親子との対立を強めていきます。

貞宗は、前将軍の義尚を養育した人物でもあり、富子の信任も厚かったのですが……貞宗の父・伊勢貞親が富子や義稙と因縁がありまして。貞親は、義稙の父である義視殺害を進言したことがあったのです。

結果、富子や義稙に睨まれ、そのせいか身を引いてます。

そして息子の貞宗も、義稙の将軍就任からほどなくして、政所頭人を辞任することになりました。

齢すでに40代半ばを過ぎていたため、年齢的に不自然ではありませんでした。

 


なんかあったら義澄を将軍にしちゃうからね!

しかし、富子のせいで話がこじれていきます。

「息子の義尚が住んでいた小川御所(小川殿)を義澄に譲渡する」なんてコトを言い出したのです。

義尚は短い在職期間ではありましたが、れっきとした九代将軍です。

その屋敷を受け継ぐということは「次はこの人が将軍です!」と暗に示すことになります。

血筋からして、義澄が将軍になる可能性はなくもない……というところですが、このタイミングでこれをやるということは、富子が次のような意思表示位したことを意味します。

「義稙に何か落ち度があったら、すぐ引きずり下ろして義澄を将軍にしちゃうからね♪」

これに対して義稙ではなく父の義視が大激怒。

さほど時間の経たないうちに富子に無断で小川御所を壊し、土地を差し押さえてしまいました。

応仁の乱(1467~1477)の頃から悪化していた義視と富子の関係は、これで完全に修復不可能になりました。

 

なぜか六角征伐に反対する政元

義視は延徳三年(1491年)の年始に亡くなり、この流れで富子と義稙の関係は悪いまま固定されます。

義稙は義稙で、前管領・畠山政長に接近したりして、いずれ対立は避けられそうになく……そんな緊張を和らげようとしたのか、それとは別に「こうすべき」と考えたのか。

義稙は、義尚の政策を引き継ぐような動きをしはじめます。

まずは近畿における国一揆収拾のため、父が亡くなったその年に、近江の六角討伐へ乗り出します。これは義尚がやり残したことでもありました。

しかし、また別の対立が強まってしまうから室町幕府ってややこしや。

管領・細川政元は、六角征伐には反対をしておりました。

義尚存命中にそんなことはなかったので、このタイミングでいきなり反対し始める理由がよくわかりません。

義稙が「六角征伐再開するからお前も参加しろ」といい出したとき、政元は修験道修行を兼ねた東国旅行をしていたところだったので「あの若造に邪魔された!」とでも思ったのでしょうか。

その修験道狂いが後に自分の身も滅ぼすのですが。

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とはいえ、この時点で政元一人では将軍の意向を覆せる状態ではありません。

多くの大名が参加し、政元も名代として家臣の安富元家を参加させます。

元家は六角軍に大敗してしまったため、義稙に『普段から口うるさいくせに弱々じゃねーか。細川氏なんていらなくね?』と思われ、他の大名を頼るキッカケを作らせてしまうのでした。

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