明応の政変

足利義稙(左)と細川政元/wikipediaより引用

細川家

戦国時代の始まりともされる明応の政変~細川vs足利で近畿の争いはドロ沼へ

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政長vs基家 畠山の内紛に介入したところ

戦いは、幕府軍が無事に勝利。

六角行高は近江から甲賀へ、甲賀から伊勢へ落ち延びます。

徐々に不穏になっていく義稙と政元の関係は、その二年後、義稙が【河内の畠山基家(義豊)討伐命令】を出したときにも続いていました。

畠山に対する討伐命令が出た理由は、例によってお家騒動です。

応仁の乱の発端となった争いが未だに収まっておらず、畠山政長の依頼に応じて、畠山基家を叩きにいったのでした。

この時点で既に20年以上も家督争いをしているわけで、よくまぁ、家そのものが滅びないもんだなぁと不思議レベルですわな。というか、すでに、何のために争ってるのかわかってなさそうです。

そんな畠山基家討伐に、政元が反対した理由がゲスい。

畠山氏が細川氏と同じ「三管領」に数えられているからです。

つまり『せっかくライバルがお家騒動で潰れそうなのに、討伐軍を派遣して、畠山の争いを鎮静化させるんじゃねぇ!』というワケですね。

義稙は畠山政長に肩入れして、畠山を味方に引き入れる気でした。それで畠山がチカラでもつけたら、細川政元にしてみれば由々しき事態であります。

ただ、細川家でも跡継ぎ問題があって、人のこと言ってる場合か?状態なんですけど。

そんな政元の考えがわかりきっていたのか。

義稙は予定通り畠山討伐を行いました。

順調に勝ち進んでいたところ、ここで政元が大胆なことをし始めます。

「畠山氏の再統一を避けるため、討伐対象の基家と結託する」という、みみっちい嫌がらせみたいなことをやってのけたのです。

いや、そんな簡単なものじゃないですね。

別の言い方にしますと

「足利氏の流れを汲む名家の人が、幕府ナンバー2の座を維持するため、幕府トップの将軍に逆らう」

という宣言をしたようなものです。

しかも政元は「長期的な視野がない割に頭がよく、行動を起こすときは迅速」というタイプでした。

彼はすぐさま、義稙に不満を抱き始めた伊勢貞宗や、赤松政則などの大名、実質的には女将軍状態の日野富子まで味方につけるのです。

自分を高めるんじゃなくて、誰かを引きずり下ろそうとする政治って何なの……って現代も本質的には変わりませんかね。

かくして明応二年(1493年)4月22日、政元はついにクーデターを決行するのでした。

 


義稙の返り咲きを封じるため徹底的に!

一般的にクーデターとは、対象を粛清するなり、軍隊を掌握することをイメージするかもしれません。

しかしこのとき、その対象である足利義稙は河内におりましたので、【嘉吉の乱】のように「将軍をブッコロして終わり!」とはなりません。

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代わりに政元は、神輿候補(将軍候補)の足利義澄を保護した上で、義稙派の人物の屋敷や、義稙の弟たちが僧侶となっていたお寺を襲撃・破壊して回りました。

この流れで義稙の弟・慈照院周嘉(じしょういんしゅうか)なども殺害されています。

要するに「義稙の留守中、その味方となりえる人物をMINAGOROSHIにして、後ろ盾や後継者を全て封じた」のですね。

日本史上でも稀に見る鬼畜ぶりと言わざるを得ません。

当時の記録では「富子が直接指揮を取り、政元にクーデターを起こさせた」というようなことも書かれていますが、あったとしても「富子がGOサインを出した」ぐらいでは?と思います。

富子がそんな冷酷な指示を出せる人物ならば、応仁の乱が始まる前にやっていたような気がするからです。

彼女は意外に人の命は取っていない(少なくとも直接は)。

それでも「主導した」と書かれてしまったのは、世間的なイメージとして「あの女ならやりかねない」という固定観念があったからなのかもしれません。

そして政元は、上記のヒャッハーを実行したその日のうちに「義稙を廃して義澄を11代将軍に擁立する」と公表し、一週間後には正式に将軍位を継承させました。

 


実は厭戦気分が漂っていた将軍様御一行

クーデターによって、諸大名や、室町幕府内の奉公衆(将軍直属の武官)・奉行衆(将軍直属の文官)は当然大混乱です。

義稙に従軍して河内にいた大名らに対しても、伊勢貞宗から「もう将軍は義澄様なので、直ちに従うように」という書状が送られました。

これでどうなったか?

実はこの頃、河内の陣中では厭戦気分が漂っていました。

六角征伐からさほど時を置かずにまた動員されたので、兵糧をはじめとした戦費の負担が膨大なものになっていたのです。

一度ならともかく、二度も多大な出費を強制されれば、そりゃイヤにもなりますよね。この介入は将軍が音頭を取っているわけで、「もうちょっと空気読んでよ、上様」と思われても仕方のないことです。

そこに「クーデターしたんで、そこにいるその人はもう将軍じゃないよ^^」なんて知らせが届けば、まさに渡りに船というもの。

大名たちはほとんど全員が京へ戻り、義澄を戴きました。

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つまり、義稙には味方がほとんどいなくなってしまったのです。残ったのは、最初から親しくしていた畠山政長くらいで……。

まあ、もともとは畠山政長が足利義稙に懇願して河内征伐を始めさせたわけですから、ここで裏切ったら道理も何もなくなっちゃいますね。

それでなくても政長は、政元(細川氏)とライバル関係だったわけですし。

この辺の展開や世情が伺えそうな動きをしている大名が二人いるので、簡単にご紹介しておきましょう。

 

そのころ赤松と大内は……

一人は赤松政則です。

赤松政則/wikipediaより引用

赤松氏は嘉吉の乱の首謀者として幕府に討伐されましたが、応仁の乱の前に傍流の赤松政則を当主として、細川勝元が主導する形で復興されていました。

これが応仁の乱の中心人物・山名宗全(持豊)と細川勝元が対立する原因の一つにもなっています。

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ともかく政則としては「今度こそ我が家を守り抜かねばならん! 失敗は許されない!!」と思っているわけです。

結果、このクーデターまでの間に細川政元の姉と結婚して縁戚になっていました。政元とその姉は勝元の息子ですから、政則からすると「家を再興させてくれた大恩人の娘をいただいた」ことになります。

となると、それまでの関係が良かろうが、主従であろうが、事があれば政元につかざるをえない。

というか、むしろ最初からそのつもりだったとしてもおかしくありません。

もう一人は、周防・長門守護である大内政弘の長子・大内義興(おおうち よしおき)です。

大内政弘は、応仁の乱の際、最後まで足利義視&義稙についていましたが、この頃には体調が優れなくなっていたようで、代わりに息子の大内義興を河内征伐に参加させていました。

そのため河内の大内軍は

「まだ家督を継いでいない若殿様が、クーデターという未曾有の展開に独力で対応しなければならない」

という事態に陥るのです。

大内義興/wikipediaより引用

正弘であれば、おそらく義稙に味方することを選んだでしょう。

しかし、まだ幕政の荒波に揉まれていない義興は判断が付きかねたものか。

「兵を兵庫まで引き上げて様子を見る」という、何とも中途半端な対応をしました。

一説には「政元方が京都に滞在していた義興の妹を人質にとり、義興が義稙に味方しないよう脅迫した」ともいわれています。

もしこれが本当だったら、ゲスいにもほどがありますね。

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