明応の政変

足利義稙(左)と細川政元/wikipediaより引用

細川家

戦国時代の始まりともされる明応の政変~細川vs足利で近畿の争いはドロ沼へ

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義稙にもまだ8,000の畠山兵がいる

では京都を追い出された足利義稙は?

というと、まだ畠山政長の兵8,000がおり、士気も高かったため、徹底抗戦の空気が漂っていました。

少し経ってから、赤松政則と大内義興が「義澄様を義稙様の猶子にして、跡を継いでいただくことにすれば丸く収まるのでは?」という案を出しましたが、これは交渉まで行かずに終わっています。

クーデターを起こす前に政元がこれを思いついていれば、もう少し穏便に済んだかもしれません。

義稙も子供に恵まれず、当時は次の将軍候補が決まっていませんでしたから、義澄を猶子にする案も実現不可能ではなかった……と、この辺は「IF」の話になってしまいますので、時系列を進めましょう。

もう一つ注目すべきは、朝廷の動きです。

意外なことに、朝廷は紆余曲折の後、このクーデターを受け入れています。

これが後ろ盾に感じられたのか。細川政元は、畠山政長の討伐に向けて、諸大名から兵を集めて4万ほどで河内へ出陣します。

実質的には義稙討伐ですよね、これ。

義稙と政長は、正覚寺(大阪市平野区)に籠城して徹底抗戦の構えを取りました。

籠城するからには、援軍のアテがあるわけです。実は、政長の領国の一つ・紀伊から数千~1万の援軍が来る予定でした。

しかし、赤松政則によって足止めされ、合流できません。

そしてその間に食料が尽きかけ、義稙と政長、兵の士気は急落してしまいます。そんな状態で総攻撃をかけられたらどうなるか?……って言うまでもありませんね。

政長は重臣らと共に自害。

前述の通り、それが1493年6月9日(明応2年閏4月25日)であり、政長らの死を見届けた後、足利義稙も投降しました。

 

義稙が軍事行動にこだわったのも理由あり

一応のカタチはついたものの政元は手を緩めません。

義視と義稙の後ろ盾になっていた公家の葉室光忠(はむろ みつただ)を殺害。

政長の嫡子・畠山尚順だけは正覚寺から紀伊に落ち延び、後々まで義稙に味方し続けました。

単に【クーデターを起こされた将軍】と習うと、『どんだけダメな人だったのよ?』と思われがちですが、敗戦後にも味方がいたというあたり人徳というか将軍の素質はあったのかもしれません。

ここはやはり細川政元の企てが上回ったというところで。

同時に「義稙が軍事行動にこだわらなければよかったんじゃないの?」とツッコミを入れたくなる方もおられるでしょう。

むろん義稙にもきちんとした理由があります。

義稙は棚ぼた的な偶然で将軍になったため、自身の支持勢力が心もとない状態でした。

それを巻き返すためには、

「政元の影響を弱める」

「他の大名から絶対的な支持を取り付ける」

ことが不可欠であり、それには軍事行動が一番手っ取り早かったのです。

幸い(というのもビミョーですが)、先代将軍・足利義尚のやり残した六角征伐がありました。

これをうまく片付ければ!

と思って実行に移し、諸大名からの評価が爆上がりしたものですから、「この際一気に人気を取り付けて、政元を幕政から締め出そう!」と考えてしまったのですね。

畠山氏のゴタゴタは、ちょうど河内という近場で起きていましたし、介入するには絶好の機会でもありました。

また義稙は、政元の対抗馬として、阿波細川氏(細川氏の傍流)の当主・細川義春を引き立てていました。

足利将軍家の通字「義」を与えているのも味方に引き入れるためです。

それまでに細川氏の本家にあたる京兆家ですら、「義」の字を与えられたことはありませんでした。

永享の乱でもそうでしたが、この「字を与えられる(偏諱)」のは、名誉があるぶん火種にもなりやすいんですよね。

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結果として、同じように焦っていた政元が先に行動に出てしまい、明応の政変が引き起こされてしまいました。

こういうのは「先んずれば人を制す」と言っていいんですかね。なんか違う気が……。

義稙は諸大名からの信望は得つつあったのですから、もう少しゆっくり・内密に事を運べば、政元の力を弱めるくらいはできたような気もします。

粘りに粘れば、政元はいずれ跡継ぎ問題で自爆していたでしょう。

実は義稙と政元は同い年(文正元年=1466年)生まれなので、後は寿命との勝負になりますかね。

 

その後の幕府や義稙は?

事後の幕府と義稙の動きも見ておきましょう。

このクーデターで、細川政元は幕政掌握におおむね成功しました。

同時に、奉公衆などの将軍直属の軍事的基盤が崩壊し、将軍はほぼ完全に傀儡化。

この後に政治を主導しようとした将軍や、協調していたと思われる時期もありますが、大勢とはならず「神輿」のまま、室町幕府自体が緩やかに崩壊していきます。

ちなみに追い出されて北陸へ逃げた義稙のほうは、この後も政元討伐を訴えておりました。

その呼びかけに応じて、能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏などが集結したことがあります。九州の大友氏など、直接の参加はせずとも協力する大名もいました。

政変直後の時点では、まだ「将軍」の権威は生きていたともいえます。

当然ながら、政元にとっては非常にマズイことです。

ただちに越中へ軍を派遣するのですが、越中勢との戦いで大敗北を喫し、逆に追い払われてしまいます。

結果、越中とその周辺は完全に義稙方となり、政元、ひいては幕府も手を出せなくなってしまいました。

しかしそれ以上は事態が進展せず、明応七年(1498年)に義稙は越前の朝倉氏を頼り、兵を動かしました。

このときは延暦寺や高野山まで味方につけて、近江まで進出。そこに、かつて自らが追い出した六角高頼がたちはだかり、ものの見事にリベンジされてしまいます。

その後の義稙は一度河内に逃げ、さらに大内氏を頼って周防へと流れていきました。

わずかに残った幕府の組織では、政所頭人かつ山城守護の伊勢貞陸(貞宗の子)が政元に対抗するようになります。

彼は富子の要望で義澄を後見しており、義澄や政元の決定も、貞陸が書類を発行しなければ実行されないという立場でした。ゆえに対抗馬になり得たのです。

ちなみにこの間、近隣では教科書でもおなじみの【山城の国一揆】が勃発。

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貞陸も政元も、一揆に参加した国人を味方につけようと工作しています。

結果として一揆は収まるのですが、反比例するかのようにカオスは加速しました。

だから、なんで普通に一揆を収めようとしないの?ってやつで……(´・ω・`)

 

傀儡としたはずの義澄と対立が深刻化

近畿圏での他の問題としては、畠山氏の内紛が続いたことが挙げられます。

畠山氏の内紛は尾州家(政長)と総州家(基家)の対立でしたが、明応の政変で政長が自害したため、基家が政元に後押しされる形で家督を継ぎました。

しかし、紀伊に逃れていた政長の長男・尚順が粘り強く抵抗、明応八年(1499年)に基家を討ち果たします。

これにより、尚順は紀伊~河内に渡る一大勢力を築き、義稙とも連絡を取りながら機会をうかがっていました。

結果としてこれは成功しませんでしたが、政元はジリジリしていたようです。

掌握したはずの幕府中枢でも、少しずつ政元の思惑からズレはじめました。

傀儡として擁立したはずの将軍・義澄が、成長するに従って自ら政務を取ろうという意志を見せ始め、両者の対立が深刻化していったのです。

ちなみに、細川氏の中でも分裂が始まりかけていました。

まぁ、その原因の6割くらいは政元が【修験道に傾倒しすぎて子供を作らなかった】せいなんですが。

じっくりゆっくり義稙に毒を盛って体調不良と見せかけて暗殺し、その間に自分の家のことも片付ける……という方針を取れば、政元の一人勝ちになったかもしれません。

まぁ、その辺の詳細は、馬渕まり先生の記事をご覧ください。

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明応の政変は結局、

「将軍家も畠山氏も細川氏も分裂して、近畿一帯を混沌に陥れることになってしまった」

という「誰得?」な出来事でした。

この状態は約75年後、織田信長が十五代将軍・足利義昭を奉じて上洛するまで続きます。

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長月 七紀・記

【参考】
『国史大辞典』足利義稙 細川政元 足利義澄 日野富子
明応の政変/wikipedia

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