こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【呉三桂】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
陳円円、敵の手に落ちる
事態は悪化しました。
北京には反乱軍が襲いかかり、明王朝は最期のときを迎えます。
1644年3月19日、ついに反乱軍が宮中まで乱入しようというその時。急を告げる鐘を崇禎帝は必死で鳴らします。
しかし駆けつけたのは、宦官の王承恩ただ一人でした。
もはやこれまで。
崇禎帝は「なぜ我が家に生まれたか!」と叫びながら、娘二人に斬りつけました。そのうち一人は腕の切断だけで生存します。
帝は自ら首をくくり、崩御。妃たちも後を追いました。
李自成とその部下たちは、意気揚々と都を闊歩します。
そしてそこで生まれたのは、リアル北斗の拳状態。略奪に次ぐ略奪でした。
李自成配下でも凶暴な将である劉宗敏は、呉三桂の父・呉襄の家を襲いかかります。
そして……
「おっ、なんだジジイ、いい女を隠してるじゃねえかあ」
匿われていた陳円円を、略奪してしまったのです。
父親よりも陳円円が大事!
劉宗敏は呉襄に命じて、呉三桂宛に降伏を促す書状を書かせて送りました。
「父上が人質に! これは降伏もやむを得まい」
そう考えた呉三桂でしたが……。
「何ッ、円円が敵の手に落ちただと!?」
陳円円のことを知ると、激怒して掌を返します。
「円円を守れなかったなんて、もう父でも何でもない!」
なんと父と絶縁し、何が何でも李自成を倒すことにしたのです。
女のために父を見捨てる――儒教の規範が強い中国では、本当に異常なことでした。
相手もまさかそうなるとは思っていなかったでしょう。
こんなことなら、陳円円を人質にして降伏を促すべきだった、と悔やんだかもしれませんね。
焦った李自成軍は、呉襄を斬首にして晒し首に。
北京に入った李自成軍は、呉三桂の一族を探し出すと片っ端から惨殺してしまいました。
家族を犠牲にしてでも、陳円円を助けると誓った呉三桂。
しかし、ここで李自成軍と戦っても苦しいことになります。
「よし、満州族を援軍にしよう!」
ここで呉三桂、絶対にしてはならない禁断の一手を打ってしまいます。
北から明を倒すべく力を付けてうかがっていた満州族を、長城の内側に引き込んでしまったのです。
李自成軍にもはや勝ち目はなく、木っ端微塵に粉砕されてしまいました。
そもそもが烏合の衆。崩れれば脆いものです。
一方、敵を蹴散らした満州族の軍勢は意気揚々と北京に入場します。
そしてその先頭には、満州族の風習に従って頭を辮髪にした呉三桂の姿がありました。
かくして呉三桂は、愛する陳円円と再会することができました。
そのために高い代償を払ったことに、彼は気づいていたのでしょうか……。
「冠を衝く一怒は紅顔の為なり」
北京にいた明の家臣や将軍たちは、呉三桂や崇禎帝に呼び出されても逃げていた者のように、明に愛想が尽きていたのかもしれません。
しかし、そうではない人が、広大な明の領土にはいました。
全国各地で満州族の支配に反対する戦乱が勃発するのです。
明清交替での死者数は、一説によれば2500万人以上。
満州族が強制しようとした辮髪に対する反発は強烈で、
「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」
という言葉が残っているほどです
そんな動乱の最中、清に投降した官僚たちは「貳臣(じしん・二人の主君に仕えた家臣)」という不名誉な言葉で呼ばれることになりました。
仕官を潔しとせず隠棲、辮髪になるのを拒んで道士(道教の出家者、辮髪を免除されました)になった者は讃えられました。
国に殉じ命を落とした者は、崇められました。鄭成功のように戦い続けた者は、英雄と呼ばれます。
よりにもよって満州族の道案内をして、明朝の末裔を追い詰めて殺した呉三桂は、きわめつけの卑怯者とされるようになります。
そんな呉三桂の悪名を高める役割を果たしたのが、呉偉業の詩『円円曲』の冒頭です。
鼎湖當日棄人間
破敵收京下玉關
慟哭六軍俱縞素
衝冠一怒為紅顏
鼎湖 当日 人間を棄つ
敵を破り 京を収めんとして 玉関を下る
慟哭 六軍 俱に縞素
冠を衝いて一怒するは紅顏の為なり。
【意訳】崇禎帝が崩御されたという知らせを聞き、
呉三桂は李自成軍を撃破し北京を奪還すべく、山海関を下った。
全軍の将兵は皇帝陛下の死を悼んで泣き叫び、喪服を身につけたが、
呉三桂が怒髪天を衝くほど怒ったのは、美女・陳円円のためだった。
文才に富んだ呉偉業の詩はキャッチーで、評判を呼びました。
「呉三桂って知っている?」
「ああ、あの“冠を衝く一怒は紅顔の為なり”、女のために国を裏切った奴な」
こんな風に言われてしまい、流石に呉三桂も気まずくなってきました。
彼は呉偉業に大金を送り「あなたの作品から“冠を衝く一怒は紅顔の為なり”を削除してもらえませんか?」と頼み込みました。
しかし、呉偉業は「知らんがな」と無視。それもそうでしょう。
呉三桂は「女のために国を裏切った最低の奴」として、バッチリその名を歴史に残してしまうのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!