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【呉三桂】
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「三藩の乱」を起こすものの今更遅い
時は流れて1673年。
清では、国の成立において特に功績のあった三人の漢人武将を「藩王」に封じていました。
その三人とは以下の通りです。
・呉三桂
・尚可喜
・耿仲明
この三藩が強大化することを憂えた康煕帝は、藩の廃止を決断。これに反発した呉三桂は、ついに挙兵します。
尚可喜の子・尚之信、耿仲明の孫・耿精忠もこれに呼応しました。
これを【三藩の乱】と呼びます。
しかし三藩はあっけなく破れ、残すは呉三桂のみとなりました。
呉三桂は辮髪を切り、「反清復明」を唱えます。三十年遅すぎるっちゅーの!
1678年には大周王朝と建国し、初代皇帝を名乗りました。とはいえ、そんな彼にまともについて来るのは親族と一部の軍人くらいです。
「何を今更、バッカじゃねーの!」
明を復活したくてたまらない漢人からも呆れられ、陳円円のために裏切った時以上の醜態をさらし、彼は即位から半年もしないうちに「崩御」しました。
呉三桂の「皇后」は、張氏という女性でした。
彼女は夫の死後も生き延び、1699年に亡くなったようです。
それでは陳円円はどうなったのでしょうか。
彼女の生涯は謎につつまれています。
反乱鎮圧軍が踏み込んできた時に自害したとも、あるいは女道士として出家したとも。
いずれにせよ、「あの美女のせいで国が滅びた」と言われながら生きてゆくのは、彼女にとって辛いものであったことでしょう。
「お前のために国を裏切ったよ!」と呉三桂に言われたら、感動どころかドン引きしたのではないでしょうか。
呉三桂の武将としての経歴を見ますと、なかなか優秀だったと思われるふしがあります。
しかしそんな強さも、裏切りで台無しにされてしまいました。
清からすれば、裏切った将軍というのは当初こそ使い物になるものの、泰平の世となればもてあますもの。
古くから言われていたように
「狡兎死して走狗烹らる」(ずる賢い兎が死んでしまったら、猟犬もいらなくなるから食われてしまう=敵が滅んだら、功績ある将軍も粛清対象になる)
を地で行くルートを転落してしまうのです。
悪名を背負わせた詩文の力
呉三桂に同情の余地はありません。
ただ、陳円円は何もしていないのに明を滅ぼした原因に数えられてしまう、気の毒な女性ではないでしょうか。
呉三桂が敵に降伏したのは、明朝が彼のような将が何らかの期待ができないほど腐敗していたからだという一面はあります。
腐った国に尽くすよりも、仕切り直した方がよい。
実際に彼は清においても出世を遂げておりますから、そこに先見の明はあります。
ただ、そうした呉三桂の目論見は、キャッチーな詩文によって消えてしまう。
「陳円円目当てで国を売った最低の男」
そんなどうしようもない汚名だけが残されてしまう。
そしてその汚名に苦しめられたからこそ、反旗を翻したのかもしれません。
呉三桂と陳円円の物語とは、文学が持つ力がどれほど大きいのか。そう示しているように思えてならないのです。
女のために裏切ったわけではなかった
このように、悪評まみれになった呉三桂――ここまで記したことが後世伝えられた話です。
しかし、近年は研究の進展により、ただの炎上被害者だったのではないか?と見なされるようになっています。
陳円円はなぜ北京にいたのか?
崇禎帝の周皇后の父・周奎(しゅうけい)が身請けして、皇后の女官としていたのでした。
こんな大変なご時世。歌舞音曲に秀でた蘇州出身の美女こそ、陛下をお慰めできるであろう。こんな建前の上でのことですが、真の狙いがありました。
どうやら崇禎帝の寵愛が、スレンダー美女の田貴妃へと移りつつある。これはまずい。美女・陳円円を皇后の側に置けば、陛下もそれにつられてやってくるだろう。そう考えたのでした。
しかし肝心の崇禎帝はもはやそれどころではない。目論見は外れます。そこで周奎は陳円円を自宅に引き取りました。
山海関へ向かう呉三桂を見送る宴に、この陳円円がおりました。呉三桂は銀1000両を支払い、周奎に彼女をもらいうけたいと告げ、あわただしく北へ向かうのでした。
周奎は身の上の保険を掛けるためにも、陳円円に豪華な嫁入り道具を持たせ、呉家へと送ったのです。
呉三桂は山海関で、李自成軍が北京に入り、皇帝や皇后が命を絶った悲報に接しました。彼は喪服を身につけ、復讐を誓います。
「逆賊を討つためならば、満洲族の手を借りるほかあるまい」
そんな呉三桂に、李自成軍は捕縛した父・呉襄を通し、降伏勧告を送ります。
「父上、もはや明朝の忠臣ではないのですか。ならば私ももはや孝行息子ではいられない」
そう孝よりも忠を重んじた呉三桂。かくして呉襄は殺されました。
整理しましょう。
・女が原因で明朝を裏切ったわけではない
・女を父より重視したわけではない
・彼なりに皇帝の仇討ちのために降伏した
生粋の武人である呉三桂は、彼なりの義を通そうとしたことは確かです。
しかし、目論見が外れました。
李自成軍は規律正しく、北京っ子にむしろ歓迎されていたのです。
満洲族に支配されるくらいなら、李自成が新王朝を立てた方がはるかにマシだったのに! それが人々の叫びでした。
動機や経緯は誇張されたとはいえ、判断ミスはミス。
雪崩こむ満洲族に蹂躙された人々にとって、どのみち呉三桂は度し難い。そうみなされてしまったのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
新宮学『北京の歴史』(→amazon)
井波律子『裏切り者の中国史 (講談社選書メチエ)』(→amazon)