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【中国『酷刑』】
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宮刑(きゅうけい)男を失う男たち
中国史に欠かせないのが宦官で、そのために宮刑(=去勢)がありました。
死ぬよりも屈辱とされるのも納得、そんな辛い刑罰です。
傷口が腐ったような悪臭をはなつから、あるいは腐った木は実をつけない(=子孫を残せない)ことから別名を「腐刑」と言います。
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中国史に必ず登場する「宦官」の実態~特に腐敗が激しい時代は明王朝だった
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法律で定めた刑罰としてだけではなく、私刑として行われるケースもありました。
愛人と密通した男のものを切る。
浮気ばかりする夫に怒った妻が切る。
こうしたケースは中国に限らず現在でも発生することがありますね。
女性の場合、「宮刑」の対になるのは「幽閉」でした。
死ぬまで閉じ込められる場合もあれば、生殖器を縫い合わせる場合もありました。
これも私刑として、密通した妻に夫が行った、夫と密通した相手に妻が行った記録が残されています。
凌遅(りょうち)切り刻み処刑
「腰斬」と同じく、あっさりと死刑では生ぬるいという発想で生まれた刑罰です。
『水滸伝』において武松の兄・武大郎を殺した王婆がこの方法で処刑されています。
正式に刑罰として採用されたのは、五代十国時代(907- 960)です。
何度切り刻むかは処罰の大きさによります。
明の宦官・劉瑾(1451-1510)は、三日かけて3357刀切り刻まれました。
一日目は3千回ほど切られるところで終了。
それでも粥を二椀食べて、「謀反人とはなんとしぶといのか」と人々を驚かせました。
二日目、残りの回数を切り刻む途中で絶命しました。
さすがに3000刀を超える例は政治腐敗が甚だしかった明代にしかなかったようです。
「凌遅はあまりに残酷だからもうやめた方がよい」
そんな声はいずれの時代にもありましたが、正式に廃止されたのは1905年のことです。
酷刑はどこの国にもだいたいありました
今回は中国の例をあげていますが、これを以て「中国人は残酷なんだ! 残酷な民族なんだ」と安易に考えないでいただければと思います。
近代化前はどこの国にも残酷な刑罰はありました。
特に君主の暗殺や国家転覆に関わった者は、過酷な運命が待ち受けていました。
フランス王ルイ15世暗殺未遂犯のダミアンは、楔を8個打ち込まれ、右腕を焼かれ、ちぎられた体の数カ所に煮えた油・松ヤニ・溶けた硫黄と鉛を注ぎ込まれ、その上で斧で切れ目を入れた手足を馬に裂かれました。
イングランドで反逆者等に執行された「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」では、まず絶命寸前になるまで首を吊り、性器と内臓を抉り、心臓を死刑囚本人に見せ付けたあとで火中に投じて、そのあと斬首。
さらに残った胴体を四つに引き裂くというものでした。
そういう昔の刑罰を比べてどれが一番残酷か決めるというのは、あまり意味のあることとも思えないのです。
私たち現代人は過去の刑罰を見て「あの国の人は残酷なんだ」と思うのではなく、「ああ、こんな刑罰がない時代に生まれて幸せ……」と感じるのがよろしいかと思います。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
王永寛/尾鷲卓彦『酷刑―血と戦慄の中国刑罰史 (徳間文庫)』(→amazon)