ウェッジウッドの歴史

ヴィクトリア&アルバート博物館に展示されているウェッジウッド/wikipediaより引用

イギリス

ウェッジウッド260年の歴史~長く王侯貴族に愛されてきた英国陶磁器のシンボル

日常で使うものほど、お気に入りの柄やデザインにこだわると気分が良くなりますよね。

上を見ればキリがありませんけれども、ほんのちょっと予算を増やすだけでも意外といいものが見つかることがあります。

有名なメーカーでも、実は手の届きやすい価格帯のものがあったりして……。

1730年7月12日は、陶磁器メーカーウェッジウッドの創設者であるジョサイア・ウェッジウッドが誕生した日です。

日本でもファンの多いメーカーですし、特に人気のワイルドストロベリー柄を見れば「ああ!」と思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。

本日は創始者であるジョサイアの生涯とともに、ウェッジウッド社の食器について見ていきましょう。

ジョサイア・ウェッジウッド/wikipediaより引用

 

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生い立ち

ジョサイアは、イギリス中西部のスタッフォードシャー州バースレムに生まれました。

父は陶芸工房を経営するトーマス・ウェッジウッド、母はメアリー。

ジョサイアはなんと第13子(末子)でした。トーチャンもカーチャンもすごすぎる。

しかし1739年に父が亡くなり、長兄が工房を継承すると、ジョサイアの苦労が始まります。

学費を払えなかったため、ジョサイアは小学校を辞めざるを得なかったのです。

将来のために工房を手伝うようになりましたが、1742年には天然痘に罹患。

幸い命は助かったものの、右足が不自由になってしまいました。

作陶については不便になったものの、彼の意欲は病ごときでは消えません。

新しくより美しい陶器の作り方を研究したり、経営を工夫して設けを増やす勉強を始めました。

もともと意欲と優れた頭脳を持っていたんでしょうね。

見習い期間が終わってしばらく経った1752年、ジョサイアはジョン・ハリソン、トーマス・オルダースとともに新しく工房を設立し、独り立ちしました。

名前が「ハリソン&オルダース」だったことからして、この頃のジョサイアは作陶の腕よりも発想力や経営力を買われていたのかもしれません。

 

美しい器を求めて

1754年、ジョサイアはフェントンのトーマス・ウィールドンの窯に入り、共同経営を始めました。

ここで

・日本の”練り込み”に似た波打つマーブル模様の「アゲートウェア」

・当時ヨーロッパでは貴重だった白い陶器「クリームウェア」

の研究を進めていきます。

特に後者はジョサイアの名を高め、のちにウェッジウッド社の代名詞となります。

なんでかというと、当時のヨーロッパでは、中国・東洋風の美術趣味「シノワズリ」が流行していた事が影響しています。

シノワズリは衣服や建築などさまざまな分野に影響を及ぼし、その流れで中国の陶磁器も大変な人気を博しました。

しかし、輸送のコストや輸送中の破損などの理由で、中国で作られたものを輸入すると非常に高価になりがちでした。

特にヨーロッパの人々を魅了したのが、真っ白な食器類と繊細な絵柄の数々です。

絵柄の方は比較的早く模倣されたものの、食器の色だけはなかなか再現できずにいました。

ヨーロッパでは白い磁器の原料である白色粘土(カオリン)がなかなか手に入らなかったことが大きな理由でした。

しかしそれは「より白く美しい磁器を作れれば、王侯貴族が喜んで買ってくれる」ということでもあります。

ジョサイアも「ゆくゆくはウチの目玉商品にしたい」と考えて、クリームウェアの研究を始めたのではないでしょうか。

1757年にはイングランド中部のバーズレムに新たな工場を設け、二年後にはさらにアイビー・ハウス工場を開設。

この1759年がウェッジウッド社創立とされています。

また、この年には野菜をモチーフにした「カリフラワーウェア」を作り始めました。

クリームウェアの素地に緑の釉薬で色を付け、美しくコントラストを出したものです。

変わり種だけでなく、クリームウェアの改良も続けていました。

 

親友と家族

ジョサイアにとって、1750年代は仕事での挑戦を続けた時期でした。

続く1760年代は、公私両面で彼を支えた重要人物たちとの関係が密になっていきます。

1762年、ジョサイアは仕事でリバプールを訪れていました。

ここで右足が痛み、マテュー・ターナーという医師の診察を受けたところ、トーマス・ベントレーという商人と親しい仲に。

トーマスはジェントリ階級出身で、美術や文学に造詣が深く、そしてフランス語やイタリア語などを習得しており、ジョサイアは創作意欲を大いに刺激されました。

トーマスもジョサイアの学習意欲に好感を抱き、意気投合した二人は親友として、そしてビジネスパートナーとして付き合うようになります。

プライベートも充実し始めました。

1764年、ジョサイアはいとこのサラと結婚。

彼らの長女スザンナがのちにチャールズ・ダーウィンを産むことになります。

ジョサイアの主治医がエラズマス・ダーウィンという人で、彼の息子にスザンナが嫁いだのでした。

活躍したジャンルは全く異なりますが、「粘り強さ」や「発想力」といった素質という面を見ると、血筋を感じるかもしれませんね。

ジョサイアはたびたびサラの意見を参考にして絵柄や商品を作っていたらしく、公私両面でのパートナーと呼べる存在でした。

現在は生産されていないのですが、ウェッジウッド社のデザインのひとつに「サラズガーデン」というシリーズがあります。家庭菜園や庭を愛したサラへのオマージュとして作られたのだとか。

花や果樹などが描かれていて可愛らしいデザインなので、廃盤になってしまったことが惜しまれます。

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