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【ウェッジウッドの歴史】
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研究者肌が別の形にも
1765年、ジョサイアはエラズマスに誘われ、新進気鋭の学者や発明家のサークルに加わりました。
後に「ルナ・ソサエティ」と呼ばれる団体です。日本語では「月光協会」と訳されることもあります。
ルナは月のことであり、転じてLunatic=狂気的という意味もあります。当時は夜間の照明が乏しかったので、満月の夜に周回を開いていたためにこの名がついたのだとか。
新しい概念や発想を持つ人々は、従来の価値観にこだわる人々からすると「物狂い」などと呼ばれることがありますから、「それならいっそ自分から名乗ってやれ」というような反骨心もありそうです。
かつてエリザベス1世が月の女神に例えられたこともありますが……まあ、関係ないですかね。
エラズマスが主催者のような立ち位置で、同時代における他の著名なメンバーとしては
ジェームズ・ワット→蒸気機関の発明者
ベンジャミン・フランクリン→避雷針の発明者、アメリカ独立宣言の起草者などなど
がいます。
彼らとの間に目立ったエピソードは見当たらないものの、ジョサイアはのちのち自社工場に蒸気機関を導入したり、奴隷解放運動に一枚噛んでいたりします。
この年にウェッジウッド社は王室の保護を受けられるようになり、ジョサイアが長年取り組んできたクリームウェアの改良に成功しました。
良い製品ができたからには、より良い状態で顧客のもとに届けなれけばなりません。
そしてやっかいなことに、陶磁器の輸送には事故や破損がつきものです。
そこでジョサイアは、運送経路にも投資するようになります。
1766年にトレント&マーシー運河を着工させ、水運による国内輸送や輸出を確実なものにするべく動いたのです。
長距離の陸送ではどうしても事故や破損が避けられない、と考えたためでした。
ジョサイアは道路整備にも取り組んでいましたが、なにせ陶磁器は重量がかさみやすい上、当時は馬車による運送や郵便が大流行しており、その分事故も増えていました。
割れ物を扱っている業者としては、少しでも安全な水運ルートを取りたいと思うのも当然のことですね。
そうした努力が報われてか、1767年にはときのイギリス王ジョージ3世の妃・シャーロットがウェッジウッドのクリームウェアをいたく気に入ってくれました。
そして「クイーンズウェア」と名乗る許可まで与えられています。
直訳すれば「女王の食器」ですが、日本語であれば「王室御用達ブランド」といったほうがわかりやすいですかね。
王室の覚えもめでたく、長年の努力も認められ、愛する妻と子供に囲まれ……と、順風満帆だったジョサイア。
唯一彼の前途に暗雲をもたらしたのが、天然痘の置き土産でした。
1768年に右足の状態が悪化し、膝蓋骨から下を切断せざるを得なくなったのです。
しかし、ジョサイアはこの後も精力的に美しい製品を作り続けます。
まずは彩色を施さない「ブラックバサルト」シリーズを考案し、好評を博しました。直訳すると火山岩の一種「玄武岩」になる、その名の通り美しい黒色の食器類です。
お茶会の際、貴族女性の手がより白く見えることから愛用されるようになったそうです。白人社会ならではという感じですね。
20世紀には失われたと思われていたのですが、ドイツで発見され、再注目されています。
また、同時期にロシアのイギリス大使館でクイーンズウェアを使ってもらい、ロシア貴族や女帝エカチェリーナ2世にアピールを欠かしませんでした。
エカチェリーナが陶器をこよなく愛していたため、ジョサイアもお得意様としてお付き合いしたいと考えたようです。
ロシア女帝のお墨付きを得る
クイーンズウェアの名のりを許されたことによって、注文が増え続けていたウェッジウッド社。
受注数に適した生産速度を保つには、新たな工場が必要になってきました。
1769年、ジョサイアは親友・トーマスと共同でストーク・オン・トレントに陶器工場を作り、数年後には自社で働く労働者の町まで作るほどになります。
この町はイタリアの古い地名をとって「エトルリア」と名付けられました。
現代日本でいえば豊田市や日立市のような、企業城下町のイメージでしょうか。
エトルリア工場での第一作となったのは、ブラックバサルトの「初日の壺」と呼ばれる壺です。
ジョサイアがろくろを扱い、トーマスがろくろを回すための足元の車を回すことで、文字通りの共同制作をした品でした。
表には古代ギリシア風の絵柄が描かれ、裏側には”Wedgwood and Bentley”と刻まれています。
この年は、待ちに待ったロシア女帝・エカチェリーナ2世からついにディナーセットの注文が入った年でもあります。
ジョサイアはイギリスよりもさらに慣例なロシアの気候に合わせ、小さなオーブン付きの「ハスクサービス」を納品しました。「サービス」はディナーに使う食器一揃いのことで、たびたび使われます。
これは女帝の愛人として有名なグリゴリー・オルロフに贈られたそうです。
狙い通り王侯貴族の御用達メーカーにはなったものの、彼らとて、そう頻繁にまとまった注文をしてくれるわけではありません。製造コストも相応にかかります。
そのため、ウェッジウッド社の経営がなんだか怪しい感じになっていきました。
そこでジョサイアは、簿記を取り入れて経費や材料費などを細かく管理しはじめました。
さらに、当時発明されたばかりの蒸気機関を導入し、生産効率を上げ、一般家庭にも手の届きやすい価格帯の製品も増やすことで、売上を伸ばしています。
製品開発と経営の両方に才能があったというのは、実にうらやましい話ですね。
経営改善はうまく行き、1770年にはチェルシーに第3の工場を作れるまでに。
もちろん新たな製品の開発にも意欲的に取り組みました。それらの完成はもう少し後になるので、後述するとしましょう。
1773年には再びエカチェリーナから
「チェスメンスキー宮殿で使うディナーセットを作ってほしい」
という大口注文が入りました。
この宮殿はカエルがたくさん住む沼があり、「カエルの宮殿」という愛称があるほどだったそうです。
それを知ったジョサイアは、このセットにカエルの紋章と沼地などを描かせ、「フロッグ・サービス」と名付けました。
ひとつひとつ職人の手作業で絵付けが行われたため、完成は翌年のこと。
女帝のために作られた繊細な絵付けと作りの食器たちを、ジョサイアは新しい販促方法に活用しようと考えました。
当時珍しかった「ショールーム」をロンドンに作り、さまざまな人がウェッジウッド社の製品を間近に見た上で、注文できるようにしたのです。
マネージャーには盟友トーマスを任命し、美術品と実用品それぞれのカタログを置いておいて、受注生産の効率を高めました。
また、息子にはカタログを持たせてヨーロッパ各地に送り出し、各国の王侯貴族に売り込みをかけさせています。
ウェッジウッドの製品を気に入った貴族が親戚や友人に紹介することにより、さらに顧客が増えていきました。
イギリス王室やロシア皇室だけに頼っていては、有事の際に会社や従業員を守れないと考えたのでしょうかね。
この年はアメリカでボストン茶会事件が起きていますし、そもそもエカチェリーナもクーデターで皇位についた人ですから、いつどこで似たようなことが起きてもおかしくない……とも思ったかもしれません。
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