左がルントシュテットで中央がムッソリーニ、左がヒトラー/wikipediaより引用

ドイツ

独裁者ヒトラーも無碍には扱えなかったドイツ軍人ルントシュテット

国のトップに立つ人間にも、「頭の上がらない相手」というのはいるものです。

戦国大名がカーチャンの意見を重視したという話はたくさんありますし、現代のお偉いさんだって、ご隠居様にあたるような人の存在を無視するのは難しいことがあります。
本日は世界史上屈指の悪人にとっての、そんな人のお話です。

1875年(明治八年)12月12日は、ドイツの軍人ゲルト・フォン・ルントシュテットが誕生した日です。

日本での知名度はあまり高くありませんが、やりたい放題の印象が強いヒトラーが、一定以上の配慮をしていた人物です。それには能力はもちろん、彼の出身や性格なども影響していたと思われます。

 

第一次大戦で一師団の参謀となったエリート軍人

ルントシュテットは、ドイツ北部・ザクセンで代々軍人を務めてきたユンカー(地元で農地を経営しつつ武装化した貴族)の家に生まれました。

当然のように軍人になるべく士官学校に進み、士官候補生として軍に入ってから、生涯軍人として過ごしています。
清(当時の中国)への遠征軍の一員として、義和団の乱鎮圧にも参加したこともありました。

順調に昇進し、第一次世界大戦でも一師団の参謀になっていたのですが、病気を理由にその立場から降り、占領先のベルギーに赴任しています。
占領状態になった地域なら、前線よりは落ち着いて過ごすことができますからね。

体調が落ち着くと、次に軍事顧問としてオスマン帝国へ派遣されています。

この時期のオスマン帝国は親独だったにもかかわらず、後進国・非白人のためドイツ人からは見下されていたといいます。
しかし、ルントシュテットは差別などせずに戦略指導を行ったとか。

差別感情が全くなかったということもないかもしれませんが、軍内でのいさかいをたびたび仲介しているので、仕事に私情を持ち込むことが嫌いだったのかもしれません。

その人柄が信頼されたものか、第一次世界大戦でドイツが敗戦し、軍縮によって多くの将兵がリストラされたときも、ルントシュテットは軍に残る方に選ばれました。

昇進も重ねており、ナチスが政権を握ってからも重職に就き続けています。
党の思想に全て賛同していたわけではないものの、軍人であるだけに軍拡には賛成だったから……というのが理由のようです。

 

ヒトラーへ諫言して退役になるも、すぐに復活する

また、機械化には詳しくないものの、一定の効果は認め、機甲師団(戦車と自動車を多用した部隊からなる軍隊の一組織)の創設を後押ししていました。

自分にはよくわからないものを活用する、というのはなかなか難しいことですよね。
大体の人は「そんなもん役に立たないだろw」と思ってしまいますから。

とはいえ他国にケンカを売るのは反対で、ヒトラーへ手紙で諫言したこともあります。

矛盾しているようですが、就職先としての軍に価値を見出していたのかもしれません。
あるいは、ユンカーという出身からすると「軍は領地や市民を守るための存在である」ということに誇りを持っていたのでしょうか。

いずれにせよ、この諫言が理由で退役を命じられています。

しかし翌年、ポーランド侵攻の準備として再度軍に戻っているので、何のためにクビにされたのかわかりません。
この辺からしても、独裁者ヒトラーが、理屈より感情で動いていたことがわかりますね。

第二次世界大戦中もルントシュテットは軍内での対立を仲裁したり、ある意味やることは変わりませんでした。

そのおかげでもあって、ドイツ軍はフランスを横切り、ドーバー海峡にまで到達しています。
ただし、イギリス軍の反撃が激しく、慎重になったちょび髭やルントシュテットは、連合軍に「ダンケルクの撤退」を成功させてしまいました。

ノルマンディー上陸作戦に並ぶ、第二次世界大戦の記録的な戦い。
敗戦一方だったフランス軍と、遠征してきていたイギリス軍35万が、フランス北東部のダンケルクからの独軍撤退を成功させたのです。
ドイツ軍にとっては「英仏軍の締め出し」、英仏軍にとっては「人的損害の軽減」に成功した反面、互いに「決戦の先延ばし」「人命最優先のために装備の大半を放棄」という失敗も大きかった戦いでもあります。

 

ロシア撤退の軍令違反でクビになるも、またもやスグに復帰

この戦いでイギリス軍を逃しすぎたことで、バトル・オブ・ブリテンをはじめとしたイギリス上陸作戦(コードネーム・アシカ作戦)が行われることになりました。

バトル・オブ・ブリテンが成功した後は、ルントシュテットの軍がイギリスに上陸する予定だったそうです。
真逆の結果に終わったため、その出番はありませんでしたが……。

イギリス上陸がポシャったため、ルントシュテットはもう一つの戦線である独ソ戦に参加することになりました。独ソ戦は北方・中部・南方軍の三つに分かれて進んでおり、ルントシュテットは南方軍の司令官を務めています。

しかし北方や中部を進んだ軍よりも状況や地形が悪く、進撃が大きく遅れてしまいました。

やっとの思いでキエフを攻略したものの、52万もの兵を失った上に、モスクワ攻撃が遅れ、とうとう冬がやってきてしまいます。

ロシアの冬に真っ向から立ち向かうのは、それこそ愚行というもの。
兵の損耗を少しでも軽減すべく、ルントシュテットは戦術的後退を選びました。ヒトラーは後退・撤退を禁じる命令を出していたため、軍令違反でクビになってしまっています。

しかし後任の司令官が「ルントシュテットのほうが正しい。彼を復帰させてください」と説得したため、ヒトラーも考えを改めました。
独ソ戦には戻りませんでしたが、西部戦線で同等の立場になっています。

1942年11月にフランス全土を占領してしばらくは静かな状況が続き、趣味のミステリー小説や冒険小説を読んで過ごしていたとか。

特にアガサ・クリスティが好きだったそうですよ。
エルキュール・ポアロの相棒であるアーサー・ヘイスティングズが軍人だからですかね。

ただ、いつまでも読書三昧というわけにもいきません。
戦況が動き、イギリス・アメリカ軍によるフランス上陸作戦の可能性が高まると、配下のエルヴィン・ロンメルとともに連日作戦会議を行うようになりました。

 

ロンメルと意見が食い違い、しかも予想を外してしまう

ルントシュテットとロンメルは、戦況の予想が異なっていたため、なかなか意見がまとまりませんでした。

まず、連合軍の上陸ポイントの予想からして異なりました。

ロンメルはノルマンディー、ルントシュテットはカレーから来るだろうと思っており、この違いが戦略の違いにも表れます。
ロンメルは文字通り水際で連合軍を叩こうといい、ルントシュテットはわざと連合軍を上陸させた後、野戦で戦おうと考えました。

ロンメルの作戦であれば要塞を築いたほうが効果的ですが、ルントシュテットの考えでは戦場が海岸よりも奥まった場所になるため、要塞を作るのは意味が薄くなるというわけです。
要塞は一朝一夕にできるものではありませんから、ロンメルの作戦で決め打ちするとなれば、早急に工事を進めなくてはなりません。

ヒトラーは迷った末、ルントシュテットの意見を容れて、カレーの警戒を強めるよう命じました。

しかし、実際はノルマンディー上陸作戦が行われた上、一日で突破されてしまうことになります。

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この失敗と、ルントシュテットが早期講和を進言したことで、ヒトラーは何度目かの激怒。
またしてもルントシュテットを司令官から罷免しました。

しかしルントシュテットはヒトラーを見限ってはおらず、この後に起きたヒトラー暗殺未遂事件の際は、関与した軍人を厳しく処罰しています。
さらに、ルントシュテットの仕事を押し付けられた人が「元の仕事もあるのに無理です」と言ってきたため、ルントシュテットは再三復帰させられました。

 

英国の軍事法廷にかけられる前に釈放

その後ロンメルがヒトラーによって自決に追い込まれたときは、国葬に総統代理として出席し、弔事も述べています。
ルントシュテットは当時、ロンメルがそんな理由で命を落としたことを知らなかったと主張していたそうですが……どうでしょうね。

ルントシュテットは不利一報の状況で戦い続けたものの、状況のマズさから撤退を上申しても却下されたり、「連合軍のドイツ国内侵攻を許した」という理由で、また罷免されました。
マズイのはヒトラーの戦略眼のなさであって、ルントシュテットやロンメルの不手際ではありません。

真面目に仕事をしていたルントシュテットに、神様はほんの少しだけ味方してくれました。

ルントシュテットは、ヒトラーの自決後、ドイツ南部のバイエルンで息子とともに連合軍の捕虜となり、イギリスの軍事法廷にかけられることになったのですが……その取り調べ中に何度も心臓発作を起こしていたため、裁判にかけられる前に釈放されたのです。

亡くなったのは釈放から4年後、77歳のときです。やはり捕虜になったことや、裁判で相当ストレスを感じていたのでしょう。

三度罷免されて三度返り咲き、しかもそれに対して部下や周囲からやっかみを買うことがなかった、というのは、地味に見えて実はスゴイ話です。

ルントシュテットは、ロンメルのように派手なことをやって周囲に認められたわけではありません。
しかし、「最後のプロイセン軍人」と呼ばれるような、プライドのある軍人だったため、その存在自体が軍の支えになっていたからこそ、ヒトラーも冷遇することはできなかったようです。
ドイツでの東京裁判にあたるニュルンベルク裁判での写真からも、何となくそれがうかがえるような気がしますね。

彼のような軍人や政治家があと一人か二人いたら、ヒトラーの暴走を諌めることができ、ドイツや周辺各国の悲劇を減らすこともできたのかもしれません。
後世においては軽視できない教訓のような気がしてなりません。

長月 七紀・記

【参考】
ゲルト・フォン・ルントシュテット/wikipedia

 



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