特に「人類の歴史は戦争の歴史」ですから、想像を絶するような凄惨な記録も数多く存在。
想像力が豊かすぎる方は、ここから先へ読み進むのを避けていただいたほうがよいかもしれません。
1943年(昭和十八年)2月2日は、スターリングラード攻防戦が終結した日です。
独ソ戦のハイライトの一つとして有名ですが、日本では歴史の授業であまり取り上げられないため、戦争映画が好きな方以外はイメージが湧きにくいかも。
ですので、まずは「なぜドイツとソ連が戦うことになったのか?」という点から話を始めましょう。
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はじめは両者の利害関係も一致していたのだが
元々ドイツはソ連と手を結び、西ヨーロッパ攻略を目指しておりました。
この間もお互いの政策については罵り合っておりましたが、資源と技術の交換によってそこそこの関係を保っていたのです。
他の高官はともかく、トップの髭同士がお互いに好感を持っていたことが大きいのかもしれません。
が、バトル・オブ・ブリテンの結果がはかばかしくなかったため、ドイツは戦略の転換を考える必要が出てきました。
その頃、ソ連の兵器開発などで危機を感じ始めていたこともあり、「やられる前にやってやる!」と考えてソ連へ攻め込むことにしたのです。
また、ソ連を迅速に攻略することで、イギリスが和平を結ぶ気になるだろうとも思っていたようです。経過や結果からいうと、まさに「そうは問屋が卸さない」感じになりましたが。
バトル・オブ・ブリテンが1940年7月~1941年5月で、独ソ戦が始まったのが1941年6月22日ですから、チョビ髭・独裁者の焦りようがわかるというものです。
当初の予定では5月中に始めることになっていたのですが、当時ドイツの支配下にあったユーゴスラビアの政変により、一ヶ月ズレて実行されました。後世から見ると、初っ端からケチがついたようにしか思えませんね。
ナポレオンと同じく6月に進軍をスタートさせて……
実際に、スターリングラード攻防戦が始まったのは、独ソ戦が始まって約一年後、1942年6月228日のことです。
ナポレオンでさえ夏に出発して冬まで戦ってボロ負けしたのに、あのチョビ髭は同じように夏から戦争を始めてしまったことになります。
いくら攻め込んだ地に敵の指導者の名前がつけられ、落とせば敵味方の士気に多大な影響が出るとはいえ、これはお粗末にも程がある話。
ちなみに、ナポレオンは1812年の6月22日から対ロシア戦を始めておりました。なぜ惨敗したモデルケースから学べなかったんですかね……。
戦地となったスターリングラードの人口は当時で約60万人。枢軸軍に追い立てられた難民も入ってきていたので、実際はもっと多かったことでしょう。
これを守るためには、ソ連だって相当の戦力を用意しますよね。
こんな大きな都市を攻め落とすのに、夏から始めて冬までに終わるはずがありません。内通者を作っておくとか、事前の下準備があれば別ですが。
そういう単純な計算ができないあたりに、ドイツが最終的に負け続ける理由があるような……。
ソ連「祖国を守るための戦い!」
多方面での緒戦と同じく、独ソ戦でも初めのうちはドイツを中心とした枢軸軍が優勢でした。
しかし、ソ連が「大祖国戦争」としてこの戦いを「祖国を守るための誇りある戦い」と位置づけると、ソ連軍の士気が目に見えて上昇。
退けば友軍に殺されるからでもありますが、まあそれは枢軸軍でも同じです。
枢軸軍はキエフなどの都市は落とせましたが、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)やスターリングラードといった大きな都市で足を止められてしまいました。
以前サンクトペテルブルクのお話をした際、レニングラード攻防戦についても少し触れましたが、実はスターリングラード攻防戦と重なる時期だったりします。
レニングラード攻防戦は1941年9月8日~1944年1月18日、スターリングラード攻防戦は1942年6月28日~1943年2月2日に行われていました。
この二つの都市はモスクワを挟むような形でほぼ等間隔に存在していて、レニングラードのほうがヨーロッパ側に近い位置にあります。
何でこんなデカい都市をいくつも同時に攻めたのか?
というと、ドイツの方針が「ソ連を三方面から攻めて、あっという間にやっつけてやるぜ」(超訳)というものだったからです。
軍を北・中央・南の三方面に分けて進んだ結果、北方担当軍はレニングラードに、南方担当軍はスターリングラードに足止めを食った形になります。
ちなみに、中央担当軍はモスクワを攻めて、やっぱり失敗していました。だから多方面作戦はやめろと……。
枢軸軍は数日で落とせると思い込んでいた
そんなこんなで枢軸軍はスターリングラードにやってきたわけですが、一般市民は何も知りません。
攻勢が始まった8月23日から、避難が許可される28日までのたった6日間で、爆撃による死者は数万人に上りました。
このため枢軸軍は「数日で落とせる」と思い込んだのですが、ソ連軍は指揮官を柔軟に入れ替えて、反撃の準備を整えます。
爆撃が一通り終わり、枢軸軍が市街戦を仕掛けてくる頃には、ソ連軍の準備は整いつつありました。
がれきや廃墟を要塞のように使い、スナイパーはより高い位置からの狙撃を試み、枢軸軍の士気と戦力を確実に削っていきます。
あるドイツ軍将校の手記に書かれているとされる「神よ、なぜ我らを見捨て給うたのか」という言葉が、端的に当時の状況を表しているでしょう。何かの映画か小説にも引用されていた気がするのですが、例によって思い出せませんでしたスイマセン。
ドイツ軍もこの状況を打破すべく、指揮官の配置転換を試みました。が、その理由が「ちょび髭の勘気に触れたから」というめちゃくちゃなものだったので、かえって混乱を招きます。これだから独裁者は。
ソ連軍はワシーリー・チュイコフ中将の下、白兵戦(歩兵同士の近接戦)を展開します。
銃器や刃物だけでなく、改造で刃を仕込んだスコップまで使うというすさまじい戦法でした。
余談ですが、スコップはそのままでも「一般人が入手できる道具かつ武器になり得るもの」の中ではかなりの殺傷力を持ちます。いざというときは頼りになりますが、そのぶん普段の扱いにはご注意ください。
建物一つ・駅一つを奪い合う激戦が各所でスタート
こうして9月~10月にかけて、建物一つ・駅一つを奪い合う激戦がスターリングラードの各所で行われました。
ドイツ軍は迫る寒さの中、「11月8日のロシア革命25周年記念に、ソ連軍が何か大掛かりな作戦を始めるだろう」と考えて備えていましたが、何もなかったために「ソ連軍はもう消耗しきっていて、あと少しで勝てるんじゃないか」と盛大な勘違いをしてしまいます。
ソ連軍が反攻作戦である「ウラヌス作戦」を開始したのは、それからしばらく経った11月19日のことでした。
枢軸軍の前線部隊へ80分もの間砲撃をし続け、退却する部隊を吹雪の中猛烈に追撃します。
これでまず枢軸軍のうちルーマニア軍が壊滅、ドイツ軍も反撃を試みたものの不利な状況が続き、一時撤退するのが限界でした。
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