1856年7月29日は、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが亡くなった日です。
この時期はあっちもこっちも激動の時代なのであまり目立ちませんが、音楽界の巨匠が数多く活躍した時代でもありました。
彼の生涯を追う中でも、たくさんの有名な音楽家が出てきます。
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父は音楽オーケーなれど母は反対 法律の道へ
シューマンは1810年にドイツ東部のツヴィッカウという町で生まれました。
あまり歴史には名前が出てこない町ですが、シューマンが物心つくかつかないかのうちに、ナポレオンがロシア遠征の行き帰りにツヴィッカウを通ったことがあります。
その頃は町中が臨時病院として使われ、切断された兵の手足や遺体でいっぱいになっていたとか。
戦場でもないところに遺体捨てて行くなんてひどい話です(´・ω・`)
シューマンの家は出版・印刷業を営んでおり、比較的裕福でした。
そのため小さいうちは家庭教師をつけられ、6歳から学校へ。
同じくらいの年齢からピアノに触れ始め、作曲もしていたようですね。
学校に入ってからは、ヨハン・ゴットフリート・クンチュという教会のオルガニストからピアノを習ったり、また、カール・エルトマン・カールスという父の友人宅で開かれていた音楽会を見せてもらい、音楽の道に憧れを抱くようになります。
比較的恵まれたスタートというところでしょうか。
ただし、父は音楽の道へ進むことを応援してくれたのですが、母の反対で法律の道へ行くことになります。
法科大学に入る前にバイエルン地方の各地を訪ねたことで、将来の妻となるクララと出会っていますので、結果的には良かったのかもしれません。
ハタチの夏「音楽を学ぶことを許して下さい」
ライプツィヒの大学に入ると、シューマンはまず法学を学び始めました。
が、次第に出席率が下がっていき、引き換えるかのように音楽へ熱中。
夜遅くまで友人と演奏会を開くこともあったようです。周辺の住人は迷惑じゃなかったんですかね。
若者らしく(?)ハイデルベルクという町で「遊んで暮らしていた」としかいいようのない時期もありました。
異性関係もブイブイいわせていた(死後)とか。
肖像画からしてもシューマンは美男なほうにも見えますし、さぞモテたことでしょう。
しかし、根の真面目さは消えておらず、ハタチの夏、母に「音楽を学ぶことを許して下さい」と手紙を書きます。
母は後見人に相談の上で、今度は許可を出してくれました。
一度は母の望み通りにしたことで、「あの子もよく考えたのだろう」と思ってくれたのかもしれません。
晴れて音楽家の道を目指せるようになったシューマンは、クララの父であるフリードリヒ・フリードリヒに弟子入りして、本格的に音楽を学び始めました。
が、フリードリヒは「偏屈」「頑固」を足して2で割らない感じの人で、次第に険悪な仲になってしまいます。
クララとシューマンが親密になっていくのも気に入らず、あれこれと罵声を浴びせられるようになりました。
ベートヴェンのお墓の上にペンが!?
その一方で、この時期にシューマンは友人たちと音楽雑誌を発行し、仕事的に成功していきます。
当時のドイツでは音楽の批評の質があまりよくなく、若い音楽家の妨げになっていると感じたからです。
ただ、日頃の練習の長さや執筆で、右手に相当の負担をかけ過ぎたのでしょうか。
この頃から右手がうまく動かなくなることが増えて参ります。
そして彼は無理に器具で補おうとして、かえって症状を悪化させてしまいながらも、音楽の道は諦めず、ピアニストではなく作曲家になることを決めました。
私生活では、25歳のときクララと相思相愛になっていますが、相変わらずフリードリヒは大反対。
諦めようとしたものか、一時期は別の女性と婚約したこともあります。
結局破談になっていますが、シューマンの懊悩がわかる気がしますね。
この時期の彼は、雑誌の仕事を売り込むため、ウィーンを訪れています。
そちらはうまくいきませんでしたが、この小旅行でシューマンは二つの「拾い物」をしました。
一つは、ウィーンにあるベートーヴェンとシューベルトのお墓参りをした時のことです。
なぜかベートーヴェンの墓の上にペンが置かれており、シューマンは何気なくそれを持ち帰りました。そのときから「何となくうまくいくような気がしていた」んだそうです。
そのペンは、後日、交響曲「春」を書くときに使われたといわれています。
天の啓示……といえば大げさですが、似たようなものかもしれませんね。
裁判を経てクララと結婚 8人の子に恵まれる
もう一つは、シューベルトの次兄・フェルディナンドを尋ねたときのこと。
フェルディナンドがウィーンに住んでいると聞きつけ、ついでに訪ねてみたところ、シューベルトの遺稿をたくさん見せてもらうことができました。
その中から「交響曲第8番」を見つけ出し、親交のあったメンデルスゾーンに送ったのです。
これがきっかけでこの曲が演奏されるようになり、メンデルスゾーンもさらに名声を高めました。
既にシューベルトの死から10年以上が経過していましたので、シューマンがこのとき発見しなければ、全く演奏されなかったかもしれません。
こういうの胸アツですよね。
こうして小さくて大きな掘り出し物をしたシューマンでしたが、私生活は相変わらず曇り空のままでした。
クララとの仲はフリードリヒの妨害で絶縁寸前になっており、文通をするのも難しい状態だったのです。
しかし、シューマンはクララを表現した曲を書いたりして、愛を薄れさせることはありませんでした。お熱すぎて僻む気にもなりません。
最終的にフリードリヒが名誉毀損に当たるような悪口や行動を取り始めたため、シューマンは裁判に持ち込みます。
法廷でもそれ以外でも、フリードリヒの言い分や言動は裁判官も呆れるようなひどいものだったので、見事にシューマンが勝ち、クララと結婚することができました。
この夫婦はそれまでにも日記を書いていたのですが、結婚してからは二人で一冊の日記を書くようになり、お熱さがエスカレートしていく……かに見えました。
既にピアニストとして有名になっていたクララと違い、シューマンの知名度はまだまだだったので、そういったことをきっかけとしてケンカになることもあったようです。
8人も子供が生まれているため、総合すると仲が良かったことには間違いないですけどね。
もっとも、そのせいでクララは妊娠・出産の合間をぬって家計のために演奏旅行をせねばならず、大変な暮らしだったようですが。
ちなみに、シューマンは「子供は多ければ多いほどいいよね^^」という考えでした。
現代だったら女性から反感を買ってしまうかもしれませんね。
気難し屋で有名なワーグナーとは折り合い悪く
33歳のときには、メンデルスゾーンが設立したライプツィヒの音楽院で、作曲とピアノの授業を担当するようになり、公私ともに充実。
しかし、心身に負担がかかったのか。
たびたび病気に悩まされるようにもなりました。彼を生涯苦しめた、耳鳴りや幻聴も、この時期からだったとされています。
気分を変えるためにドレスデンへ移り住んだものの、ここは気難し屋で有名なワーグナーのシマ。
シューマンとは折り合いが悪く、また他にも有名な音楽家が多数いたため、収入等に嫉妬することもありました。
こういうのはよくある話ですが、当人にとってはやるせないですし、イライラもしたでしょうね。
ロシアへの演奏旅行で体調を崩したり、あまり良いことはなかった時期ですが、いいこともありました。
37歳のとき、故郷ツヴィッカウの人々がシューマンを称える記念祭を開いてくれたのです。
シューマン本人も久しぶりに里帰りし、幼なじみや恩師クンチュとも再会できて、気分も運も上向いた感があります。その年の秋には、ドレスデンの合唱団付き指揮者に指名されています。
現代にも通ずる?若き音楽家への助言69箇条
シューマンの業績で有名なものも、この前後に作られました。
「トロイメライ」を含む「子供のためのアルバム」や、後進たちへの教訓として書いた「若き音楽家への助言」という一連の文章などです。
後者は音楽家以外にも通じるものがあります。
概要だけ一部ご紹介しますね。
「演奏するときは、他人の目線を気にしすぎないこと。しかし、常に偉大な音楽家に聞かれているつもりで」
「技巧だけを追わず、印象深い表現ができるように心がけなさい」
「その日の練習が終わって、『疲れたな』と感じたときは無理せず休むこと」
「他の音楽家との共演のチャンスは逃してはいけない」
「より偉大な人と付き合いなさい」
「先達の偉業を敬いなさい」
「他の分野の芸術家とも積極的に付き合いなさい」
「勉強には終わりがない」
だいたいこんな感じのことが69点(!)も書かれています。
藤堂高虎の残した「家訓200箇条」ほどではありませんが、訓戒としてはなかなかの長さ・多さですよね。
ブラームスとの出会いに衝撃
腰を落ち着けようと思って来たはずなのですが、この頃ドレスデンで政治的な暴動が起きます。
シューマンは乱暴なことが嫌いだったので、きなくさい雰囲気の町に留まることを良しとせず、他へ移ることを決めました。
ちなみに、このときの暴動にはワーグナーも一枚噛んでいます。
ホントに気が合わなかったんですね。
運良く、デュッセルドルフで指揮者の仕事が見つかり、またしてもシューマン一家は引っ越すことになりました。
しかし、シューマンは作曲の才能はあっても指揮の才能がなく、そういった教育を受けたこともなかったため、楽団のメンバーが戸惑ってしまって演奏がうまくいきません。
そのために人望が落ちてしまいますが、シューマン本人もクララも原因に気付いておらず、ストレスを溜めてしまいます。
そんな中、まだ成功し始めたばかりのブラームスがシューマン家を訪れました。
一曲弾かせてみたところ、シューマンは最初の数小節で大いに気に入り、クララへ「おいで! 君が今まで聞いたことがないような曲が聞けるよ!」と興奮気味に呼びに来たそうです。
そればかりか、ブラームスを応援するための評論を書いてもいます。
ブラームスはこれに大いに感謝し、その後もシューマンの元をたびたび訪れるようになりました。
「お前、僕は知っているよ……」 意味深な最期の言葉
悲しいかな、穏やかな生活はほんの束の間のことでした。
ブラームスの初来訪の翌年、シューマンの幻聴が悪化し、入水自殺を図るまでになってしまったのです。
幸い未遂に終わりましたが、その後エンデニッヒという町の精神病院に入院。
亡くなるまで病状が良くなることはありません。
入院してから二年後、妻クララに看取られて亡くなったのです。
最期の言葉は「お前、僕は知っているよ……」だったといわれています。
この言葉から連想されるのは、クララとブラームスがデキていた説ですが、それはどうでしょうかね。
クララはピアニストとしての名声の他に、8人の子の母親でもありました。
そんな人が夫の存命中から不倫をして、人目に立たないのはかなり難しいのではないでしょうか。
シューマンの死因は長らく謎とされましたが、現在ではカルテなどから「梅毒だった」ということになっています。
言うまでもなく、梅毒は性感染症です。
シューマンが若いころに感染していて、40代になってから発病したとしても、クララに梅毒の症状が全くないのはおかしいような気がします。
上記の通り、この夫婦には8人も子供が要る=夫婦生活もそれなりにあったはずですし、シューマンが精神病院に移ったころ、クララは妊娠中でした。
それなのに、クララに全くうつらないというのは不自然ではないでしょうか。
ちなみに、クララはシューマンの死から40年後、1896年に77歳で没しています。
死因は脳出血だったそうです。
専門家の先生が結論づけたことにケチをつけるのもビミョーですが、何とも釈然としない話ではあります。
個人的には、似たような精神的症状と平静を繰り返していたゴッホの死因として挙げられている病気の中に、シューマンの死因にも該当するものがあるのでは……と思います。
ゴッホも梅毒と診断されたことがありますしね。
現在、シューマンとクララはベートーヴェンの故郷として知られる町・ボンで一緒に眠っています。
シューマンが何に対して「知っている」と言ったのか、二人の間だけでも疑念が解けているといいのですが。
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長月 七紀・記
【参考】
アランウォーカー/横溝亮一『シューマン (大作曲家シリーズ (1))』(→amazon)
三枝成彰『大作曲家たちの履歴書(上) (中公文庫)』(→amazon)
三枝成彰『大作曲家たちの履歴書(下) (中公文庫)』(→amazon)
ロベルト・シューマン/wikipedia