井伊家

中野直由とは? 宗主代行の重責を担った井伊庶子家の筆頭家系

戦国時代の大名や国人衆に限らず、古(いにしえ)より全国各地の有力者にとって一大事だったのが、御家の遺産相続である。
古代の日本では一番下の男子が家を継ぐ「末子単独相続制」が一般的であって、それがいつしか「分割相続制」に変わり、江戸時代になると「長子単独相続制」が確立。
意外かも知れないが「長男が家を継ぐ」というのは比較的新しい考え方なのである。

2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、ご当地浜松出身の俳優・筧利夫さんが演じる中野直由
当武将を語る上で、まず注目したいのが「分割相続制」だ。

次男以降にも遺産(土地)が与えられるこの相続システムでは、本家から多くの「庶子家」が生まれていった。
庶子家はその土地に由来する名前を付けることが多く、井伊家でも数多の家が独立していったが、前述の通り戦国時代は江戸期に確立する「長子単独相続制」への移行期でもあり、徐々に「庶子家」は廃れていく。

そんな中、井伊家から最後に生まれた庶子家が「中野家」であった。

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井伊家本拠「井伊谷の中心」を表す中野の姓

上記系図の通り、中野家は井伊18代忠直の子・直房を祖とする。筧利夫さんが演じる中野直由はその3代目。
前述の通り庶子家は地名を付けることが多かったが「中野」という言葉には井伊家本拠「井伊谷の中心」という意味があり、実際、中野屋敷は井伊氏居館の東隣にあった。
つまり本家の井伊氏とは関係が深く、中野直由もまた、井伊氏存続のために大いに働く。最も際立っていたのが、桶狭間の戦い後のことだ。

ご存知、今川義元が織田信長に討たれたこの合戦では、井伊一族でも多くの武将が命を落とし、直虎の実父・直盛も殉死。次の宗主は井伊直親が受け継いだ。
しかしこの直親、父の直満を井伊家家老・小野政直の讒言で殺されたと考え同氏を憎んでおり、政直の子で井伊家家老になっていた小野政次とも仲が悪かった。

そこでまだ死ぬ前の直盛は、こんな遺言を残すのである。
「いったんは庶子家の中野越後守直由に井伊保(井伊領)を預け、更には井伊直親の後見人に指命し、しばし様子を見るように」
これにより中野直由は、井伊直盛が信濃守を名乗ったのと同様、中野信濃守直由と名乗ることに、一時的にではあるが井伊家を率いるのである。
『井伊家伝記』には「井伊信濃守直盛公、奥山孫市郎ニ遺言之事、并ニ、中野越後守、井伊保を預事」として、次のように記している。

「(前略)直盛公、切腹に臨て、奥山孫市郎ニ御遺言被仰渡候ハ、今度、不慮之切腹、不及是非候。そ之方、介錯仕候亭、死骸を國江持参仕、南渓和尚、焼香被成候様ニ可申候。扨又、井伊谷ハ、小野但馬ヵ心入、無心元候故、中㙒越後守を留守ニ頼置候。此以後、猶以小㙒但馬と肥後守主従之間、無心元候間、中㙒越後守に井伊谷を預ケ候て、時節を以、肥後守、引馬江移替申候様ニ、直平公ニ委細可申旨被仰渡、無是非、奥山孫市郎、直盛公之御死骸を御介抱仕、井伊谷江帰國申候。(後略)」

【意訳】 井伊直盛は、今川義元が討たれたと聞いて、奥山孫市郎を介錯人として、切腹(殉死)することにした。そして切腹する直前、奥山孫市郎に次のような遺言を残した。
①私の首を刎ねて井伊谷へ持ち帰り、南渓和尚に葬儀を頼め。
②小野但馬守政次の動向が気になったので、(私の留守中に大事が起こらないようにと)中野越後守直由を留守居役として置いてきた。今後も井伊肥後守直親と小野但馬守政次の関係が気になるので、中野越後守直由に「井伊保」(井伊領)を預けて、頃合いを見計らって、井伊肥後守直親を引馬城主とし、引馬城主・井伊直平を井伊谷城主とせよ。

『井伊家伝記』によれば、
・井伊谷城主は井伊直親になり、家老は直親と仲の悪い小野氏
・引馬城主は井伊直平で、家老は直平と仲の悪い飯尾氏
となっていたため、井伊直盛は「井伊谷城主・直親と引馬城主・直平を入れ替えて仲の悪い二人を切り離せ」と指示したのである。

 


実際は井伊直平が中野直由の宗主代行を決定した!?

しかし、この城主入れ替え案を今川氏真に申し出たところ、話は思わぬ方向へ進んでいった。
今川氏真の近習・三浦義鎮は、かねてより「引馬城は今川領内一番の城であるので城主になりたい」と望んでおり、氏真は井伊直親の願いを聞き入れなかったのである。
この恨みにより、自ずと今川氏真と井伊直親は仲が悪くなっていく。

引馬城址(現・浜松東照宮)

ただ、この話はいささか注意して受け止めなければならない。
というのも「引馬城主はそもそも飯尾氏であり、井伊直平ではない」と指摘している学者もおり、この『井伊家伝記』の話を鵜呑みにはできないのだ(『井伊家伝記』には、引馬城主・井伊直平が高齢であり、家老の飯尾氏が諸事を行っていたので、第三者が飯尾氏が城主と思い込んだとある)。

もしも井伊直平が引馬城にいたのであれば、井伊谷城主の井伊直親と筆頭家老・小野政次の争いを止めることはできない。
しかし、井伊直平が引馬城ではなく井伊谷城にいれば、直親・政次の監視と喧嘩仲裁を、わざわざ庶子家の中野直由に頼まなくてもいいハズ。
井伊領は宗主・井伊直親のものであり、中野直由に預ける理由がいまいちピンとこない。

このあたりの説明は『井伊直親公一代記』に記されている。

【原文】「五月拾九日、尾州於桶狭間、今川義元并相勢休ミ居候所、不意二押寄セ、義元并。今川義元子息・今川氏真織田信長へ吊軍相催、直平、嫡子孫之敵な連ば、両人之吊軍ト出陣。此時、直平七十五才也。此末子・南渓和尚ヲ呼出し、「我老年二御よ飛゛、此度出陣討死ト存候。嫡子、孫先立テ討死致候事、井伊家之一門迚も残り多く自然此度討死故し候はば、中墅信濃守二當城ヲ續地十三郡ヲ預ケ井伊虎枩(此時三才也。後、兵部太輔直政江州沢山之城主と成)十五歳至りな春゛、當城并遠甲ノ國も譲り、遠江守と相改、中野信濃守ヲ背見として相續可致候。」

【意訳】5月19日、尾張国の桶狭間において、今川義元とその家臣たちが休憩していると、織田軍が突然押し寄せて今川義元、並びに井伊直盛を討った。そこで今川義元の息子・氏真は、織田信長への弔い合戦を計画。井伊直平は、織田信長が孫・直盛の敵であるから、「両人(今川義元と井伊直盛)の弔い合戦だ」として出陣した。
この時、直平は75才。
直平は、末子の南渓和尚を呼び出し、次のように言った。
「私は年老いたので、今度の戦で討たれるであろう。嫡子(直宗)、孫(直盛)は自分より先に討死した。井伊家の一門であっても生き残りが多くなく、この度、私が討死した時には、中野信濃守直由を城主として井伊領13郡を預け、井伊虎松(後の井伊直政・この時3才)が15歳になったら、城も遠江・甲斐国も譲り「遠江守」と改名させ、中野信濃守直由を「背見」(後見人)として、家督を相続させよ。

要は、井伊直盛が「桶狭間の戦い」で死んでも、75歳の井伊直平がおり、彼の決定であった可能性が高いのだ。

 

以上、1560年に奥山孫市郎に伝えた井伊直盛の遺言以降か、1563年に南渓和尚に伝えた井伊直平の遺言以降なのか分からないが、中野直由が井伊家の宗主代行として、井伊領を治めていた時期があったことは確かなようだ。

あらためて当時の主な出来事を年表で確認してみよう。

1560年 桶狭間の戦いで井伊直盛殉死
1561年 虎松誕生
1562年 井伊直親誅殺
1563年 織田信長攻め・天野攻め前に井伊直平死去
1564年 引馬城攻めで中野直由討死
1565年 女城主・井伊直虎誕生

注目は1563年。今川家による義元の弔い合戦(織田信長攻め)は桶狭間の戦い(1560年)の直後ではなく、この年に行われた。
しかし、この弔い合戦の時、最後尾の井伊直平の陣屋で出火騒ぎが勃発。今川氏真は「最後尾の井伊直平が井伊直親誅殺を恨んで反逆した。前からは織田信長が攻めてくる。挟み撃ちでは分が悪い」として弔い合戦(織田信長攻め)は中止になった。
この一件を説明するため井伊直平が駿府に出向き、「出火は事故(失火)であって、反逆ではない」と今川氏真に告げると、「では、その証拠として、忠義心を示せ。今川に反逆した天野氏を討て」と命じられ、その征伐に向かう途中、直平は飯尾氏に毒殺されてしまう。

そこで立ち上がったのが、ドラマでは筧利夫さん演ずる中野直由。
今度は井伊直平の弔い合戦(引馬城攻め)だとして、翌年9月15日、井伊谷八幡宮の例祭日に「正八幡大菩薩」の吹き流しを掲げ、飯尾氏に戦いを挑むも中野直由は敢えなく戦死。
井伊家の男は幼い虎松(井伊直政)だけが残された。

物語は、そして直虎に引き継がれる。
次郎法師は女性であったが、男性名の直虎を名乗り井伊谷城主に。後の同家宗主となる虎松の「後見人」(一説には虎松を養子にして「養母」)となって、その命を必死に守るのである。
井伊の赤鬼こと井伊直政。彼が徳川四天王の一角として、江戸時代に彦根藩を築いたのもこうした流れを受け継いでいたからこそであった。

※ちなみに、とある古文書によれば、飯尾氏への弔い合戦について今川氏真は井伊衆だけでは倒せないと考え、新野左馬助を大将とする援軍を送ったという。
駿河国から送られてきた新野軍は安間橋の東に本陣を置き、引馬城から出陣した飯尾軍は安間橋の西に本陣を設置。川を挟んで、激しいが戦いが繰り広げられたという。
そして今川・井伊連合軍は飯尾氏を倒すどころか大将を失うという失態を見せたばかりに「今の今川氏では飯尾氏すら倒せない」と、その弱体ぶりを世に知らしめる敗戦となったのである。

中野直由を含む歴代中野氏の墓(龍潭寺)

中野直由を含む歴代中野氏の墓(龍潭寺)・奥山家と新野左馬助の墓の間にある

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。


自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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