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ボク、鳥居強右衛門! 長篠の戦いで見せた一兵卒の大活躍

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天正三年(1575年)の5月21日、「鉄砲三段撃ち」で有名な長篠の戦いがありました。
3列に並んで順番に射撃する「三段撃ち」については一次資料(一番信用できそうな資料)に記載がないのでアヤシイらしいですが、なぜか明治時代に「信長がこんなスゴイことやって勝った戦なんだよ!」と教科書に載せてしまったため、いつの間にか一般人には史実と受け取られるようになってしまったのだとか。政府がンなことやっていいんかいな。(最近は「段」というのは列ではなく「隊」を意味するので3グループが連携しての攻撃という興味深い説もでていますが)
まあそれはさておき、本日はそのホントかウソかわからない戦術のおかげでほとんど忘れ去られてしまった、あるモb……兵士の活躍についてお話したいと思います。
厳密に言えばこの日の話ではないのですが、こまけぇこたぁいいんだよ。

鉄砲の話が有名すぎるせいで、そもそも長篠の戦いとは一体どんな戦だったのかがわからないという方も多いですよね。
本日の主役の動きと共に見て行きましょう。

長篠の戦い(Wikipediaより)

長篠の戦いは武田軍が攻めて信長・家康が迎撃

この戦は、長篠城という徳川家の城が武田勝頼に攻められたことから始まります。
もともと大きな城ではありませんし、城主として奥平信昌という武将が守っていましたが、信玄亡き後とはいえ精強で知られた武田軍を相手にするにはかなり分が悪い状態でした。
それでも三河武士らしいド根性で何とか持ちこたえていたのですが、業を煮やした武田軍は兵糧庫への焼き討ちを決行。まさに「腹が減っては戦はできぬ」状態に陥った長篠城一同は、どんどん士気を落としていきます。
「このままでは全員討死か餓死か……」と悩みに悩んだ信昌は、家康への救援要請をすることにしました。

しかし、この時点で長篠城は武田軍にすっかり取り囲まれており、ただお使いに行くだけでも決死の覚悟が必要です。
数少ない部下を、生きて帰るどころか生きて家康の下にたどり着けるかどうかもわからないような難業に駆り立てなくてはいけないのか……と悩む信昌に、自ら名乗り出る者がありました。

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スネ夫と違ってめちゃくちゃかっけー!鳥居強右衛門(すねえもん)

それは鳥居強右衛門(すねえもん)という名の足軽(一般兵)。
水泳が得意なこと、そして身分の低さゆえに顔を知られていないことなどもあってか、信昌は彼にこの任務を命じます。
そして城から外に通じる水路と川を泳いで渡り、見事城の外へ脱出しました。

次の日には家康のいる岡崎城までたどり着き、長篠城の窮状を伝え援軍要請の旨を伝えたといいますから、かなり頑健な体の持ち主だったのでしょう。
運の良いことに、強右衛門が岡崎城についたときには既に家康と信長の連合軍が出発の支度を整えていました。その数は武田軍の倍とも言われており、これを知った強右衛門は大いに喜びます。

信長も家康も「大変だったんだし、メシでも食ってちょっと休めよ。お前は俺らと一緒に行けばいいじゃん」(超訳)と言ったのですが、喜びすぎた強右衛門、「じゃあ一分一秒でも早く皆に伝えないと!お先に失礼します!!」(超訳)と、来たばかりの道を猛ダッシュで戻っていってしまいます。体力どうなってんだ。
そして長篠城の近くまで来ると、「無事援軍が来るぞ!」という知らせとしてのろし(煙)を上げました。予め「脱出に成功したとき、援軍要請に成功したときはのろしをあげる」ことになっていたからです。

しかし、もしかするとこれが彼の命を縮めてしまったかもしれません。
完全に包囲しているとはいえ、戦の真っ最中ですから武田軍も気を張っています。当然見張りもそこらじゅうにいたでしょう。城の中はともかく、外から援軍が来ないとは限りませんしね。
そこに日を置かず上げられた二回ののろし……怪しまないほうがおかしいというものです。

捕まっても意地「弱くても勝てます!」

そして武田軍は長篠城周辺の道や農村を調べ始め、強右衛門は捕まってしまいました。
取調べによって援軍が来ることは白状してしまいましたが、彼はもう助からないことを悟って最後の意地を見せます。
勝頼に「援軍は来ない、と城に向かって叫べ!そうしたら命を助けてやろう」と命令されましたが、強右衛門は従いませんでした。それどころか逆に「二・三日で信長様と家康様がいらっしゃるぞ!それまで皆頑張れ!!」と叫んだのです。
勝頼としては「援軍が来ないことを知れば、長篠城は降伏するか士気がガタ落ちするだろう」と考えてこのように命じたのですが、強右衛門が真逆のことを叫んだおかげで計画が台無し。
激昂して強右衛門をその場で磔刑に処したといいます。

この絵、逆が正しい(逆さ釣り)が正しいのではとも言われています(Wikipedia)

この絵、逆が正しい(逆さ釣り)が正しいのではとも言われています(Wikipedia)

が、強右衛門の勇気ある行動と死に様を見た長篠城士はかえって士気を上げてしまい、勝頼の目論見は大幅に外れ、城が落ちることはついにありませんでした。
そして織田・徳川連合軍が到着した後、長篠の戦いが始まるのです。

ふんどしスタイルの絵になる

強右衛門の死は武田軍でも「あっぱれな忠義者」として語り伝えられました。
磔になる直前に話したとある武士は、その死に様を絵に描かせて旗指物(「俺が○○だ!」と戦場で主張するための旗とか飾り)として用いたといいます。趣味が悪いのか武士らしい思いやりなのか微妙なとこですが、当時の感覚ではきっと後者だったのでしょう。

さらに、強右衛門の子孫はあちらこちらで城勤めに精を出し、明治維新まで存続するばかりか現在まで血が続いているそうです。日本人で「ご先祖が武士」という家はけっこうあるでしょうが、確実に名前がわかる一兵卒の家が存続しているケースはそうそうないんじゃないでしょうか。すげえ。
強右衛門本人の武名だけでなく、代々それに恥じないよう心がけていたのでしょうね。

信長がベタぼめ!家康は…

また、信長は強右衛門の勇気を称え、その妻の故郷に慰霊碑を建てさせています。家康じゃないんかい、とうツッコミはしないでおきましょう。
もしかしたら、家康が建てさせたものは所在がわからなくなったとかかもしれませんし(震え声)

愛知県新城市有海にある磔の碑(Wikipediaより)

時代も国も全然違いますけど、強右衛門の最期は第二次大戦を描いた名画「ライフ・イズ・ビューティフル」の終盤にも似ているように思えます。あんな感じで映画化してくれませんかね。
……10年以上前の映画なので、ネタバレじゃないですよね。ね?

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/長篠の戦

 

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