長篠の戦い

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

織田家 信長公記

長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害

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そのため全軍へ「命令するまで決して動かないように」と厳命しました。そうとは知らず、武田軍が攻めかかってくれたら、織田徳川連合軍はそれだけで有利なのです。

なんせ籠城中の城を攻略するには、通常、数倍の兵力が必要だとされるのに、武田軍は織田徳川よりも少ない兵力で突撃をせねばならないのです。

信長は、鉄砲隊1000名を選抜し、佐々成政前田利家らを指揮官に任命。

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本隊とは別に、足軽部隊で武田軍を挑発し、鉄砲を使いやすい位置までおびき寄せました。

ここからが、おそらく歴史の授業で習う長篠の戦いです。

 

三段撃ちはやはり無い それでも強かった理由

武田軍は自慢の騎馬武者を率いて、次々に織田徳川の陣に襲いかかっていきました。

第一陣は赤備えで有名な山県昌景

次に信玄の弟・武田信廉。

三番手は小畑一党(おそらく小幡憲重)、四番手に武田信豊(武田信繁の息子)と続き、最後に馬場信春が突撃を仕掛けました。

武田ファンには垂涎の、そうそうたるメンバーです。

しかし、いずれの部隊も成果を挙げることはできません。

武田の部隊が味方の陣に踏み入る前に、織田・徳川軍が鉄砲を撃ちかけ、次々に倒していったのです。

一昔前までは「鉄砲隊を3つに分けて、一発打つごとに入れ替わらせ、次々に撃った」という、いわゆる””三段撃ち説”が信じられておりましたが、最近では「これは後世の脚色らしい」という見方が強まっています。

信長公記では、こんな風に記されています。

「足軽部隊がおびき寄せてきたところを鉄砲で撃った」

「こちらからは動かず、鉄砲を増やした」

従来のように

「A・B・C隊が前後に並んで入れ代わり立ち代わり撃った」

というのではなく、

「2人ないし3人が一組になって“弾込め”と“射撃”の役割を分け、最速の行程で撃ち続けた」

ならば、多少現実味が出てくるでしょうか。

実は、若かりし頃の信長が、家臣に弾込めをさせ次々に鉄砲を撃った――という記録が他ならぬ『信長公記』に掲載されています。

発射時に轟音が鳴り響き、黒煙をあげるという当時の火縄銃の構造からして、各列揃えて発射タイミングを合わせるのは困難というか不可能でしょう。

鉄砲隊として横に列を広げることができたとして、後は個々の魂込め&射撃技術に依って撃ち続けるしかないと思われます。

しかし、事実上の城である陣地から、大量の鉄砲を浴びせ続ける作戦は効果絶大でした。

まるで石山本願寺の防御力を彷彿とさせるものでもあります。

織田家は長年、一向一揆と対立し、大坂の石山本願寺を攻撃しておりましたが、防御側の鉄砲に散々苛まされ、なかなか攻略することができずにいました。

今回の長篠の戦いは、それをそっくりそのまま立場を入れ替え、自分たちが防御側に回って、武田軍にリベンジしたような展開です。

「三段撃ち」などで信長の独自性を強調したい向きには不服かもしれませんが、これを野戦に持ち込んだ戦術眼がやはり鬼かと思われます。

ちなみに『信長公記』における鉄砲の数は1,500丁です。

別働隊に500を持たせ、本陣は1,000丁で武田軍を迎え撃ちました。

 

馬場信春の討死「見事なり」

こうして織田・徳川軍は東北東の方角に向かって鉄砲を撃ち、午後2時頃まで戦いました。

5つの部隊が散々にやられて、さすがの武田軍も鳳来寺の方向へ退却したといいます。

織田・徳川軍はこれを追撃し、多くの敵将と雑兵1万程度を討ち取ったとか。

他に山中へ逃げて餓死した者や、川へ落ちて溺死した者もいたそうですから、1万はさすがに盛り過ぎとしても、それでも相当なダメージを武田軍は受けています。

この中で、太田牛一は馬場信春の討死を「見事」と讃えています。

信春は勝頼の祖父(信玄の父)・武田信虎の代から仕え、70以上もの戦に参加しても傷一つ負わなかったとされる重臣にして名将。

長篠からの撤退では殿(しんがり)を務めながらも、最後の最後まで無傷だったといいます。

しかし勝頼の撤退を見届けると、見事に討死したのだとか。

「自ら首を差し出した」ともいわれており、いずれにせよ清々しいほどの忠節ぶりです。

馬防柵の背後にある茶臼山に設置された織田信長の本陣。現在は茶臼山稲荷神社が建っている

信春らに逃された勝頼を討ち取ることはできませんでしたが、彼が乗り捨てていったらしき駿馬を、信長は連れて帰ったといわれています。

この馬の名前は伝わっていませんが、おそらくは鞍などの馬具で見分けがついたのでしょうね。

※他に有名武将では真田昌幸の兄である真田信綱も戦死しました

 

勝頼は愚将だったのか?

武田との直接対決で、これ以上ない勝利を得た信長。

三河のことは家康に任せ、5月25日に岐阜へ帰還しました。

信長にとって直接得る領地などはなかったにせよ、武田攻略に向けて大きな一歩を踏み出したといえます。

勝因は、やはり信長の戦術眼でしょう。

貢献順位としてはこんな感じでは?

①土木工事で天然の城を築いた

酒井忠次の奇襲で勝頼は前へ突撃するしかなくなった

③鉄砲隊の威力が炸裂した

確かに鉄砲は非常に強力ですが、その前段階の準備(土木工事・天然の要害)と仕掛け(奇襲)があってこその活躍です。

一方、敗北した勝頼はこの後、上杉家の内乱【御館の乱】への介入などを通して、外交的な面から家を立て直そうと試みていきました(残念ながら失敗に終わりますが……)。

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なお、長篠での勝頼の戦法――騎馬隊を鉄砲隊へ突撃させるのは、必ずしも無謀な策だったと言い切れません。

というのも、当時、脚の速い騎馬隊を突撃させ、鉄砲隊の背後や横に回って崩すことは一つの作戦として認知されていたのです。

※「日本の馬は重い鎧武者を載せて戦場を走れない」という見方も広まっておりましたが、以下のように「木曽馬(日本在来馬)」は相当な脚力を有しております

むろん、騎馬武者は、途中で撃たれてしまう可能性もあります。

が、戦国時代の火縄銃は命中率が低く、ひとたび鉄砲隊の隊列を崩すことができれば十分に勝算も見えたわけで……と、そこで立ちはだかったのが、信長の築いた強力な馬防柵であり天然の要塞と化した陣でした。

いくら騎馬隊でも窪地のある丘陵地帯に設置された陣を相手に、縦横無尽に駆け回ることは不可能です。

結果、敵を引きずり出すことができず、次々に撃たれてしまったのです。

勝頼が愚将である――というより信長の戦術眼が神がかっていたと見る方が自然でしょう。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
平山優『長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史)』(→amazon
平山優『検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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