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その日、歴史が動いた アジア・中東

そこはかとなく異国情緒の漂う街『マカオ』 ポルトガルに占領→返還されるまで

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世界中どこでも「異国情緒がある町」というのは人気の観光スポットですよね。日本だと横浜や神戸といった中華街、もしくは洋菓子の名店がたくさんあるところでしょうか。

これは外国でも同じで、その国ならではの文化が色濃いエリアと、文化の入り混じるエリアが人気を二分しているように思います。
さて、本日は日本からも程近い、東西の文化を併せ持つ町のお話です。

1887年(明治十年)3月26日、リスボン議定書によりポルトガルがマカオを正式に植民地にしました。

リスボンというのはポルトガルの首都の名前ですが、実際に書面が交わされたのはおそらくマカオでしょうね。
植民地というと実力で土地をぶんどった後に「ここ俺んちだから! ハイ書面!!」というジャイアンルール発動のイメージが強いですが、マカオの場合は割と穏便に済んでいます。当社比(笑)みたいなものですけども。

では、マカオの歴史をさらっと見ていきましょう。

現代のマカオ photo by nekotank@flicker

現代のマカオ photo by nekotank@flicker

 

「媽祖廟(まそびょう)」の「まそ」がなまって「マカオ」に 

「マカオ」という地名は、16世紀の始めにここへやってきたポルトガル商人がつけたものだと言われています。
元々このあたりは漁業の盛んな土地で、地元の人に「ここは何という土地か?」と尋ねたところ、「媽祖廟(まそびょう)です」という答えが返ってきたので「まそ」がなまって「マカオ」になったというものです。
「媽祖」とは中国(道教)の海の女神のこと。漁師の守り神と見なされたり、「航海の前に媽祖へお祈りすると無事帰ってこられる」と信じられていました。そのためマカオ付近でも信仰を集めていたんですね。

そのおかげもあったのか、ポルトガル人がやってきてしばらくの間、マカオは貿易港として栄えました。
貿易の相手には日本も入っていて、長崎からの船がよく出入りしていたそうです。
おそらく日本で一番有名な宣教師フランシスコ・ザビエルも、マカオを拠点にして東アジアの各国へ布教しに行っていました。もちろんマカオでもカトリックの布教が進められ、今でもあちこちに教会が残っています。

16世紀にマカオを宣教の拠点として利用したイエズス会士たち/wikipediaより引用

16世紀にマカオを宣教の拠点として利用したイエズス会士たち/wikipediaより引用

 

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香港や広州の台頭で貿易の第一線からは退いた 

が、時が流れ日本でキリスト教を禁じる動きが出るのとほぼ同時期に、マカオは貿易拠点としては一線を退くことになります。ごくごく近所の香港や、もう少し南シナ海寄りの広州のほうが貿易には都合が良かったからです。

これは私見ですが、もしかするとマカオ周辺に多く自生している蓮の花が、出入りする船を増やすのに邪魔だったというのもあるかもしれません。蓮は今でもマカオの旗に使われたり、数々の美称に使われるくらいなので、当時はもっと多かったでしょう。茎が水底にあるので完全に除去するのも難しそうですよね。

さらに、イギリスがアヘン戦争(1842年)に勝って香港を手に入れると、この差は決定的なものとなりました。
清の力が強かった頃はポルトガルもそう荒っぽいことはできませんでしたが、香港がイギリスの植民地になったのを見て路線を変更し、「ウチは前からマカオに行ってますし、くれてもいいですよね?^^^^^^」(超訳)と要求しました。勝ち馬に乗っかるというか輩というか。

ちなみにイギリスとポルトガルは世界で最も古い同盟国だったりします(が、イギリスはナポレオン時代に無理やりマカオをかっさらおうとしたこともあります)。

1888年の香港、マカオ、広東の地図(製作ドイツ)/wikipediaより引用

1888年の香港、マカオ、広東の地図(製作ドイツ)/wikipediaより引用

 

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第二次世界大戦が終わると次は2つの中華に挟まれて 

20世紀に入ると、本国・ポルトガルは諸般の事情で国力が地平線スレスレ状態になったため、第二次世界大戦で中立を宣言します。
マカオでも同じ方針だったため、この一帯はおおむね戦火を免れることができました。が、中国からの難民が大量に押し寄せるわ、タングステン(中国でたくさん採れる希少金属。武器・電球など用途が多い)の密貿易会場になるわ……と、他の国に翻弄される日々が続きます。

一番のとばっちりは「お前ら日本に燃料売りそうだから先にやっつけるね!^^」という超理論を押し付けられて、アメリカに爆撃されたことでしょうか。あれ、ごくごく最近似たような話をどこかの国でやってませんでしたっけ。ウワーサイテー。

戦争が終わっても、マカオの受難は終わりません。中華民国と中華人民共和国の間に挟まれることになったのです。
地理的には「間」でもないですが、ポルトガルが当初中華民国側についていたため、中華人民共和国に距離の近いマカオは、微妙な立場になってしまいます。

 

カーネーション革命により海外領土の全てを放棄 

背景にあったのは単純な理由でして、当時のポルトガルで独裁を布いていたサラザールという人の意向です。この人は強烈な反共産主義で、中華人民共和国と手を組むのは何が何でもイヤでした。

が、サラザールは”昼寝中にうっかりハンモックから落ちて意識不明の重態に”というアn……もとい不幸な事故によって長期療養の後に亡くなります。さらに数年後、カーネーション革命によってポルトガルは全ての海外領土を放棄することが決まり、マカオも返還されることになりました。
この間にポルトガルは中華民国と断交し、中華人民共和国と正式な国交を結んでいます。

ポルトガルとしては、海外にお金をかけている場合でもなく、すぐにでもマカオを返還したかったようですが、中華人民共和国に「もうちょっとそっちで預かってくれない?」と言われて20年ほど待つことになります。
これはすぐお隣の香港がイギリスから戻ってきていなかったため、影響を懸念したのだとか。まだBUNKAKU中でしたしね。

19世紀はこんな様子だった/wikipediaより引用

19世紀はこんな様子だった/wikipediaより引用

 

埋め立てが進み大陸と地続きになる!? 

そんなこんなであっちこっちの国に振り回され続けましたが、1999年、ポルトガルから中華人民共和国へ無事返還され、今日のマカオはあります。
最近は埋め立てが進んでどんどん中国本土と近くなっているそうで、そのうち地続きになるかもしれません。ヴェネツィアを模した町並みやカジノなど新しい建物が増える一方で、ポルトガル統治時代の建物や教会なども多く残されており、観光客を楽しませています。

一方、食文化は各国のものがうまく融合し、「マカオ料理」という一ジャンルになっているとか。日本では料理よりもエッグタルトのほうが有名ですかね。
返還後のマカオは貿易港としての役目をほぼ終え、カジノで外資の呼び込みに成功して経済を発展させました。

今(2015年3月26日現在)日本でも、ちょうど国会でカジノ法案のことをやってますが、多分、カタチだけ真似てもうまく行かないでしょうねー。治安の問題もあるし。
それだったら、今ある史跡・国立公園の整備や伝統芸能を保護したほうがよほどクールジャパンだと思うんですけど。
頼むよ総理(´・ω・`)

長月 七紀・記

 

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参考:マカオの歴史/wikipedia

 

 




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