藤原彰子……日本で最も権力を有した男(藤原道長)の娘は真に幸せだったか?

 

人生で大切なものを一つだけ決めるとしたら、何と答えますか?

即座に「お金!」という人もいれば、「家族かな///」なんて恥ずかしそうに言う人もいるでしょうね。
現代では選択肢もいろいろありますけれど、大昔の人はそうはいきません。生き延びるのさえ難しい人が珍しくありませんし、生活の心配がなくても、政治その他の事情で不自由な人もいますから。

本日はその中でも、有名ながらに幸せだったのか聞いてみたくなるような人のお話。承保元年(1074年)10月3日は、藤原彰子が亡くなった日です。

道長の娘であり、史上初の「二后」になった人として有名ですね。
しかし、父親があまりにもゴリ押し&有名すぎるので、彼女本人がどんな人だったのかということはあまり知られていません。
本日は彰子の一生を見ていきましょう。

紫式部日記絵巻/Wikipediaより引用

紫式部日記絵巻/Wikipediaより引用

 

11才で一条天皇のもとへ入内する

上記の通り、彰子は藤原道長の長女として生まれました。
正室の娘でしたし、当時の政治状況からしても道長は狂喜乱舞したでしょうね。彰子が8歳のときに道長が実質的な政治の中枢になったため、この頃から彼女の運命は決まったようなものでした。
そして11歳のとき、8歳年上の一条天皇のもとへ入内します。

先に入内していた従姉・定子とは11歳差であり、ついでにいえば彰子が入内した年に定子は第一皇子を産みました。
年がもっと近ければ当人同士も火花を散らしたでしょうけども、これだけ離れていたからそうはならなかったのかもしれませんね。
定子は彰子の入内・立后から2年後に亡くなっていますし、彰子は定子の生んだ皇子(敦康親王)を育ててもいます。政治的な事情もあるでしょうし、二人の父親や兄弟は政争を繰り広げていましたが、女性たちは気まずい思いをしていたのでしょうね。

定子が亡くなった後、彰子は唯一の后となり、20歳のときに皇子を産みました。後の後一条天皇です。その翌年にも皇子を産んでおり、これで道長の立場は確たるものとなりました。外祖父としてアレコレ口を出せるからです。

 

紫式部に和泉式部など 才能に溢れた女官たちが大勢いた

彰子が31歳のとき、夫・一条天皇は従兄の三条天皇へ譲位しました。その際新しい皇太子になったのは、先に生まれていた定子の皇子ではなく、彰子の皇子でした。もちろん、道長のゴリ押しによるものです。

彰子は、一条天皇が敦康親王を皇太子にしたがっていたこと、また彼女も敦康親王を愛情深く育てていたので、悔しい思いをしていたようです。まぁ、そりゃそうだ。

そうした複雑な胸中を慰め、また支えになったと思われるのが、彰子の周辺に仕えていた女房たちでした。
彼女の周辺はとても文学的才能に溢れた女房(女官)がたくさんいます。
紫式部を始め、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔(いせのたいふ)といった、百人一首にも取られている名歌の作者や、有名な物語の作者が揃っていました。

簡単にまとめるとこんな感じです

・紫式部

いわずと知れた「源氏物語」「紫式部日記」の作者。
やや気難しい面もありましたが、彰子の幼い頃から仕えていて、家庭教師役でもありました。最も頼れる人だったでしょう。

また、「源氏物語」を読んだ彰子が登場人物の一人・紫の上をいたく気に入り、彼女の女房名を「紫式部」にしたといわれています。それまでは父親が藤原姓であることから「藤式部」と呼ばれていたとか。

現代では、清少納言への辛辣な評が有名ですが、別に徹頭徹尾冷たい人だったわけではありません。詳しくは下のほうで。

・和泉式部(いずみしきぶ)

宮廷内でとにかくモテた人で、親王兄弟に愛されたこともあります。
ただし身分ゆえか性格ゆえか決めきれず、ドロドロした状態になってしまいました。
著作である「和泉式部日記」には、そうした恋に悩む様子などが書かれています。和歌は奔放というか、独自の表現が多いですね。

百人一首には「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」という歌が取られています。「私はもう長くないだろうが、せめてこの世の最後の思い出に、あの人にもう一度会いたい」という切ない意味です。
晩年の詳細は不明ですが、和泉式部は娘に先立たれてもいるので、晩年はかなり寂しいものだったと思われます(´;ω;`)

・赤染衛門(あかぞめえもん)

いわゆる良妻賢母タイプかつ温和な人だったようで、同僚である彰子の女房だけでなく、清少納言などとも親しく付き合っていたとか。
旦那さんは文章博士の大江匡衡(まさひら)という人で、あまりのおしどり夫婦ぶりに「匡衡衛門」とまで呼ばれていたそうです。この字面書きづらい(´・ω・`)

彼女の和歌も人柄を反映してか、穏やかなものが多いです。百人一首には「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」が取られています。
意味としては「あなたをお待ちしているうちに夜はすっかり更けて、もう月が傾いてしまいました。こんなことなら、ぐずぐずしていないで寝てしまえばよかったわ」という感じになります。
実感のこもった歌ですが、実は赤染衛門自身ではなく、姉か妹のために代作したものなのだとか。

・伊勢大輔(いせのたいふ)

彰子に仕えた女房の中では、紫式部に可愛がられていたと思われる人です。
これは百人一首に取られている「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」という歌の逸話からうかがえます。
本当はこの日、奈良から届けられた八重桜を、彰子の御前に出すのは紫式部の役目でした。しかし彼女は、後輩に文字通り「花を持たせてやろう」と考えて、この仕事を仕え始めたばかりの伊勢大輔に譲ったのです。
そのとき和歌を詠まねばならないしきたりだったので、おそらく紫式部は伊勢大輔の才覚を知っていて、周りの人々にも教えてやろうとしたのでしょう。
無事に見事な歌を詠んだ彼女を公家たちは大いに褒め称え、彰子からも返歌を賜るなど、大成功を収めました。

1008年頃から、少なくとも1060年まで彰子の元にいたようなので、仕え始めたときが相当若かったか、かなりの長命だったかどちらかでしょうね。両方かも。

 

87才まで生きた後半生は辛いものだったのでは……

その後、道長のゴリ押しにより三条天皇が若くして譲位。彰子の生んだ皇子が後一条天皇になると、彼女は、皇太后というより高い位につきました。
道長はその翌年に出家して、ようやく政治から身を引きますが、彰子が代わりに藤原摂関家の実質的な主となり、忙しい日々が続きます。
そして38歳のときに出家し、女院号を賜って「上東門院」と呼ばれるようになります。しかしその後、二人の皇子に先立たれたり、前九年の役という戦が始まったりと、後半生は穏やかなものではありませんでした。

彼女自身が亡くなったのは、ひ孫である白河天皇の代。87歳という当時としてもかなりの長寿でした。
この頃になるとおそらく上記の女房たちも皆先立っていたでしょうから、栄華の陰で泣いていた日もあったかもしれません。
せめて彼女たちの残した歌や物語で慰められていればよいのですが、それもまた辛そうですね……。

彰子の一生を見ていると、政治的な成功と個人としての幸せについて考えたくなってきてしまいます。
人それぞれ何を最重視するかで変わってくると思いますが、皆さんはどう感じられたでしょうか。

長月 七紀・記

参考:藤原彰子(ふじわらのしょうし)/Wikipedia

 

 








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