藤原彰子

藤原彰子/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
藤原彰子
をクリックお願いします。

 

・赤染衛門(あかぞめえもん)

いわゆる良妻賢母タイプかつ温和な人だったようです。

同僚である彰子の女房だけでなく、清少納言などとも親しく付き合っていたとか。

旦那さんは文章博士の大江匡衡(まさひら)という人で、あまりのおしどり夫婦ぶりに「匡衡衛門」とまで呼ばれていたそうです。この字面書きづらい(´・ω・`)

彼女の和歌も人柄を反映してか、穏やかなものが多いです。

百人一首には「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」が取られています。

意味としては「あなたをお待ちしているうちに夜はすっかり更けて、もう月が傾いてしまいました。こんなことなら、ぐずぐずしていないで寝てしまえばよかったわ」という感じになります。

実感のこもった歌ですが、実は赤染衛門自身ではなく、姉か妹のために代作したものなのだとか。

 

・伊勢大輔(いせのたいふ)

彰子に仕えた女房の中では、紫式部に可愛がられていたと思われる人です。

百人一首に取られている「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」という歌の逸話からうかがえます。

本当はこの日、奈良から届けられた八重桜を、彰子の御前に出すのは紫式部の役目でした。

しかし彼女は、後輩に文字通り「花を持たせてやろう」と考えて、この仕事を仕え始めたばかりの伊勢大輔に譲ったのです。

そのとき和歌を詠まねばならないしきたりだったので、おそらく紫式部は伊勢大輔の才覚を知っていて、周りの人々にも教えてやろうとしたのでしょう。

無事に見事な歌を詠んだ彼女を公家たちは大いに褒め称え、彰子からも返歌を賜るなど、大成功を収めました。

1008年頃から、少なくとも1060年まで彰子の元にいたようなので、仕え始めたときが相当若かったか、かなりの長命だったかどちらかでしょうね。両方かも。

 

87才まで生きた後半生は辛いものだったのでは……

その後、道長のゴリ押しにより三条天皇が若くして譲位。

彰子の生んだ皇子が後一条天皇になると、彼女は、皇太后というより高い位につきました。

道長はその翌年に出家して、ようやく政治から身を引きますが、彰子が代わりに藤原摂関家の実質的な主となり、忙しい日々が続きます。

そして38歳のときに出家し、女院号を賜って「上東門院」と呼ばれるようになります。

その後、二人の皇子に先立たれたり、前九年の役という戦が始まったりと、後半生は穏やかなものではありませんでした。

彼女自身が亡くなったのは、ひ孫である白河天皇の代。

87歳という当時としてもかなりの長寿でした。

この頃になるとおそらく上記の女房たちも皆先立っていたでしょうから、栄華の陰で泣いていた日もあったかもしれません。

せめて彼女たちの残した歌や物語で慰められていればよいのですが、それもまた辛そうですね……。

彰子の一生を見ていると、政治的な成功と個人としての幸せについて考えたくなってきてしまいます。

人それぞれ何を最重視するかで変わってくると思いますが、皆さんはどう感じられたでしょうか。

あわせて読みたい関連記事

◆ドラマや平安時代など全ての関連記事はこちら→(光る君へ

◆以下、名前をクリックすると各人物伝の記事へ飛びます

紫式部
まひろ
藤原為時
まひろ父
藤原惟規
まひろ弟
藤原宣孝
まひろ夫
藤原道長
兼家三男
藤原兼家
道長の父
藤原道兼
道長の兄
藤原道隆
道長の兄
藤原時姫
道長の母
藤原寧子
道綱の母
藤原道綱
道長の兄
高階貴子
道隆の妻
藤原詮子
道長の姉
一条天皇
66代天皇
藤原定子
道隆の娘
藤原彰子
道長の娘
源倫子
道長の妻
源雅信
倫子の父
藤原穆子
倫子の母
赤染衛門
女流歌人
藤原公任
道長の友
藤原斉信
道長の友
藤原行成
道長の友
藤原実資
ロバート
藤原伊周
道隆嫡男
藤原隆家
道隆四男
清少納言
ききょう
清原元輔
藤原頼忠
公任の父
安倍晴明
陰陽師
源明子
道長の妻
円融天皇
64代天皇
花山天皇
65代天皇
藤原忯子藤原義懐
朱仁聡
宋の商人
周明
宋の医師
三条天皇
67代天皇
藤原顕光
兼家の甥
藤原頼通
道長嫡男
藤原為光
忯子の父

◆配役はこちら→光る君へキャスト

◆視聴率はこちらから→光る君へ全視聴率

◆ドラマレビューはこちらから→光る君へ感想

コメントはFacebookへ

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
藤原彰子/Wikipedia

TOPページへ

 



-飛鳥・奈良・平安, 光る君へ
-,

×