そう問われて真っ先に頭に浮かぶのが右大臣・藤原顕光でしょう。
劇中では宮川一朗太さんが演じられ、何も決められない、己の意思がない――そんな風に描かれるだけでなく、伊勢守就任で揉めた平維衡の一件では自らの側近に権力を誘導する姿が描かれました。
言葉遣いや振る舞いなどの品は良いのかもしれない。
しかし、あそこまで“無能”だったのは本当なのか?
史実を振り返ると、実はかなり波乱に富んでいて、何かと興味深い事象やエピソードもあるのが藤原顕光です。
道長の権勢のもとで右往左往させられた、その生涯を振り返ってみましょう。
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父は兼通(兼家の兄)母は親王の娘
藤原顕光は天慶七年(944年)、藤原兼通と元平親王の娘の間に生まれました。
兼通とは、藤原兼家の兄。
つまり顕光は、藤原道長の伯父に当たるわけで、藤原北家かつ母は皇族という、かなり恵まれた出自でした。
祖父の藤原師輔が政治の主導者でしたので、当然、出世も早く、最初のうちは順調でした。
一方、持病や疫病の流行などにより、藤原北家の中でも早く他界する人々が現れます。
皮切りは師輔の長男である藤原伊尹(顕光にとっては伯父)が天禄元年(970年)に亡くなり、これにより顕光の父(師輔次男)の兼通と、師輔三男の兼家が権力争いを繰り広げるのです。
当初は、兼通が関白となり、息子の顕光も恩恵を多大に受けていくことになりますが、弟の朝光には官位を越されており、何やら不穏なものも漂っていました。
朝光は人付き合いが上手だったようなので、その辺も昇進に影響したのかもしれません。
そして貞元二年(977年)、父の兼通が病死すると情勢は一気に傾きます。
ドラマ『光る君へ』で描かれたように、道長らの父・藤原兼家が権力を一手に握るのです。
※以下は藤原兼家の関連記事となります
藤原兼家の権力に妄執した生涯62年を史実から振り返る『光る君へ』段田安則
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かつての顕光と同じように、今度は兼家の息子である藤原道隆・藤原道兼・藤原道長の三兄弟がどんどん昇進。
さらに正暦元年(990年)に兼家が亡くなると、今度はその長兄である道隆が関白を次、彼の弟や息子たちが……というように、同じ流れが繰り返されていきました。
棚ぼたで右大臣に就任
長徳元年(995年)、都で大規模な流行病が起こり、公家の人々にも亡くなる人が出てきました。
藤原顕光の弟・朝光もこのとき亡くなっています。
平安京を襲った“疫病”とは具体的にどんな病気だったのか?貴族も感染した?
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また、道隆も同時期に大酒などが祟って亡くなり、その弟である道兼も関白就任間もなく病死。
道長に権力が委譲されると同時に、顕光も権大納言へ出世しました。
この時点で
兼家
↓
道隆
↓
道兼
↓
道長
というラインができてしまっていますから、この先、顕光が父方の血筋をアテにして巻き返していくのは至難の業。
道長が、道隆の長男・藤原伊周との政争を繰り広げた後、実姉で皇太后である藤原詮子の後押しを得て勝利を収たことはドラマで描かれていましたね。
伊周は若すぎた上に、道隆の生前からの横暴発言が影響し、一条天皇や他の貴族たちからも反感を買いまくっていましたので、当然の流れかもしれません。
決定打になったのは長徳の変(恋敵と勘違いして花山法皇に襲いかかった事件)ですが、
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いずれにせよ道長には勝てず、その結果、おこぼれを拾ったのが顕光でした。
棚ぼた的な流れで右大臣の座が巡ってきたのです。
出産したが子供が出てこない……
藤原顕光が右大臣として適任かどうか。
ドラマを見ている限り「自分で判断できない、要は“使えない”右大臣」の烙印を押されていますよね。
この状況、史実も同様で、大事な儀礼などで粗相が目立ってしまうような記録が残されています。
こうなった顕光が、苦境を巻き返すには、もはやアノ手しかありません。
天皇の外戚です。
幸い顕光には、無事育った娘の元子がおり、既に一条天皇へ入内させていました。
ドラマではそのことまで描かれていませんでしたが、一条天皇も元子のことをそこそこ気に入っていたようで、複数回通っていたことが記録されています。
そしてめでたく長徳三年(997年)に元子は懐妊。
顕光が喜んだのは言うまでもなく、僧侶を集めて男児誕生の祈祷をさせるのですが……待てど暮らせど元子は出産せず……これは一体どうしたことか?
「ようやく破水かと思ったら、水が出るばかりで子供が出てこなかった」
そんな記録が残されているので、現代では「想像妊娠あるいは生理不順だったのではないか」と考えられています。
出産への強い恐怖、もしくは強い願望が原因になるものなので、彼女に大きなプレッシャーがかけられていたのは間違いないでしょう。
状況を考えると、致し方ないことですよね。
しかし、当時はそういった心因的な症状があるとはわからない時代です。
この件は世間に「単なる勘違い・早とちり」だと受け止められて、顕光と元子は物笑いの種となってしまいました。ひでぇ。
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