織田信長が本能寺で明智光秀に斃された後、その光秀、続いて柴田勝家を破った豊臣秀吉。
その秀吉が次に対峙したのが徳川家康である。
【天正壬午の乱】を経て旧武田軍の領地も人材も吸収していた徳川家は、数の上では秀吉に負けても、精強な軍は一切引くことがない――。
そこで勃発したのが【小牧・長久手の戦い】だが、この戦、実は全国に飛び火しており、北陸でも重要な一戦が行われた。
1584年10月12日(天正12年9月9日)に始まった【末森城の戦い】である。
北陸の猛将・佐々成政と、後に加賀百万石を手にする前田利家との一戦だ。
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末森城の戦い その背景とは
末森城は加賀・能登の最重要拠点だった。
金沢寄りの日本海側、能登半島のちょうど付け根の部分に立地。
城の原則として、建てられた位置には必ず理由があるが、では末森は、なぜそこに建てられたのか。
南に行けば前田利家の加賀の国。
北に向かえば能登の国。
東に向かえば佐々成政の越中の国。
末森城の位置する場所は3カ国にまたがる北陸道の交通の要衝であった。
つまり佐々成政は、この末森城さえ陥落させてしまえば、自分の背後を何も心配せず金沢城の攻撃に専念できる状態となるのである。
一方、前田利家にとって末森城は、陥落すると能登の支配権を失うばかりか、一気に金沢まで攻め込まれるリスクを背負う。
よって、この城だけは、前田家の存亡を賭してでも救援に向かわなければならない。
末森城の戦いにはそんな背景があった。
「末森の合戦は前田家の桶狭間なり 慶次」
もちろん、こんな大切な城であるから、史実でも城主には最も信頼でき、なおかつ戦上手な武将が置かれる。
当時の城の重要度は、イコールその城主の信頼度や統率力も比例していたものである。
その城主とは一般的にはマイナーな武将で、『花の慶次』で有名になったと言っても過言ではないイケメン奥村助右衛門であった。
本来は奥村永福(ながとみ)という名前で知られており、マンガのようにイケメンだったかどうかは不明だが、江戸時代を通じて万石級の家老であった。
その辺の小藩よりデカい家老なのだから、さすが加賀100万石。
マンガ『花の慶次』における末森城の攻防から見てみると、当初、利家は、前田慶次率いる僅かな手勢だけを救援に向かわせていた(というか慶次が勝手に動く)。
いくら末森城から援軍の督促がきても「適当にあしらっておけ」と一言。
おまつには「そんなにお金が大事か!」と罵られる始末である。
というより、末森城が落ちるとマジでやばいの分からんのか、とツッコミを入れたくなったが、このとき慶次の書いた利家宛の手紙が実に秀逸である。
「末森の合戦は前田家の桶狭間なり 慶次」
長々と説明した末森城の重要性をマンガ『花の慶次』では一言で表現。
さすが偉大な原先生なり。
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