戦国諸家 信長公記

野洲河原の戦いと信長の愛刀「実休光忠」|信長公記第70話

2019/08/27

越前へ攻め込み、朝倉義景の首を目指せ――。

というところで突如、浅井長政に裏切られ、命からがら京都へ逃げ延びた織田信長。

金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)
金ヶ崎の退き口|浅井長政に裏切られ絶体絶命の窮地に陥った信長や秀吉の撤退戦

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浅井家の離反の何がマズイって、本拠地・岐阜と京都へのルートが遮断されかかったことでしょう。

岐阜→琵琶湖という西へ進む道だけでなく、その先、南側でも、一度は黙らせた地元の六角氏が立ち上がり、信長の前に立ちはだかったのでした。

むろん、信長としても黙ってそのままにしておくわけはありません。

そこで発展したのが【野洲河原の戦い(落窪の戦い)】でした。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

京都への道に立ちはだかる六角軍団

元亀元年(1570年)6月4日。

六角義賢らが南近江の一揆勢を扇動し、野洲川やすがわ方面へ進出してきました。

これに対し、長光寺城(近江八幡市)にいた柴田勝家と、同じく永原城(野洲市)にいた佐久間信盛も出陣します。

地図で確認してみますと……。

まず織田方が黄色の拠点で、右から

・岐阜城

・長光寺城

・永原城

となっております。

赤色の拠点が、上から

・小谷城(浅井家)

・野洲川(六角家)

となります。

長光寺城と永原城は、どちらも以前は六角氏の本拠・観音寺城(近江八幡市)の支城だったところです。
皮肉といえば皮肉かもしれませんね。

こうして、両者が落窪(野洲市)でぶつかり合い「落窪の戦い」となりました。

「野洲河原(やすがわら)の戦い」とも呼ばれます。

どちらも地名そのままですね。

 


近江の半分以上が再び織田家の勢力下に

戦いの結果は、意外と規模の大きなものでした。

・三雲定持
・高野瀬美作守
・水原重久

といった六角方の武将と、六角氏の勢力下だった伊賀・甲賀の地侍780人が討ち死にし、織田軍が大勝を収めています。

これによって六角氏の兵力は大幅に低下。

近江の半分以上を再び織田家の勢力下に置くことができました。

信長公記には『定持の子・成持もこのとき討ち取られた』とあるのですが、この後の彼の活動が伝わっているので、おそらく誤記だと思われます。

絵・富永商太

 

本能寺の最期まで共に過ごした愛刀とは

ちょっとした後日談として、三雲定持が愛用していた刀のお話もいたしますと……。

刀とは、備前派の名工・光忠の作で、この後、巡り巡って信長に献上され、本能寺の変まで使われていました。

一説には、信長が最後の最後まで応戦していたともいわれる、随一のお気に入りの刀だったそうです。

信長の手に渡る前に、三好氏の家臣・三好実休(じっきゅう)という人の愛刀になっていたため、

【実休光忠】

と呼ばれていました。

最終的にこの刀は

・本能寺で焼失した説

・焼身のまま豊臣秀吉と徳川家康に伝わったという説

があり、どちらが正しいかわかりません。

本能寺の変当日に、信長の手元にあった武具や茶道具などは、ほとんど焼失してしまっているので、これだけが残ったとも考えにくいですが……。

焼身となっても後日見つかる例がありますので、もし現代で見つかれば、ビッグニュースになるでしょうね。

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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